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散文【赤いジャンパーの山男】1517文字


木々が赤や黄色に色づく季節。ぼくは社会に馴染めぬ自分に愛想を尽かし、険しい山へと足を踏み入れた。

駐車場に車をとめ、登山口から少し登ると下山してくる高齢男性が見えた。

ぼくと同じソロ登山者のようだ。

縦長形状で八十リットルはあろうかという大きな黒いリュックを背負い、鮮やかな赤色のジャンパーを着ている。下はカーキ色のデニム。

足下は土色の登山靴に真っ赤な靴ひもを結んでいる。

老人は少しだけ道が広がっている場所で山側に背を向け待ってくれている。

「こんにちは」と挨拶すると、老人は険しい山を数時間かけて下ってきたとは思えないほど元気そうな表情で「先は長いから気をつけてな。赤い印を辿っていけば大丈夫」と言ってぼくを見送った。


ぼくは軽く会釈をすると重たい足取りで登り始めた。

まだ三十路にも満たないぼくが、険しさで国内で三本の指に入ると噂されるこの山を死に場所に選んだなんて、老人には想像もできないだろう。

その時はそう思っていた。


早朝から八時間かけ、頂上に到達した時には太陽は真上を少し過ぎていた。

日帰りのつもりなら早々に下山し始めないと暗くなってしまう。

だがぼくは頂上で周囲の山々の景色を拝んだあと、少しだけ下ると登山道から外れた。

以前来た時に密かに見つけておいた秘密のルートだ。

座れば人一人がすっぽり収まるくらいの横穴へとやってきた。


ここが死に場所だ。


ぼくは草木の陰になった薄暗い横穴に入ろうとしてギョッとした。


先客が居る。


横穴の中に居る先客は、大きなリュックにもたれ掛かりイビキをかいて寝ている。

ぼくは目を疑った。


登山口近くですれ違った老人だ。

足音で目が覚めた老人は、ムクっと起き上がると、大きなリュックからおにぎりを二つ取り出し、そのうちの一個をぼくに差し出し「食え」と言って微笑んだ。


ここに来るまで誰にも追い越されてない。居るはずのない老人がそこには居た。

老人はたった三口でおにぎりを食べ終わると、呆気にとられるぼくにこう言った。


「先は長いと言ったろう? 何度も言わせるもんじゃない。すぐに下山を始めれば陽が落ちる前には駐車場に辿り着けるよ」


「いつからそこに・・・・・・え?」


話しかけると、まるで最初から誰も居なかったかのように横穴に人影は無くなっていた。


下山を始めたぼくは途中でルートを見失った。

蓄積された疲労と、すでに陽は大きく傾き、辺りが薄暗くなってきていることへの焦りから視界が狭くなっていたようだった。

周囲からの目を気にして一応リュックは背負っているが泊まる準備なんてしていなかった。

なぜこんな状況になってから生きることへの衝動が湧いてくるのか? ぼくはなんて単純で弱く、不安定な人間なのかと思い笑えてきた。

登ってきた時は木の枝に縛り付けてあった黄色い布切れや、岩にピンクのスプレーで書かれた矢印を辿ってすんなり登れた。それなのに今はルートを見失ってしまった。

ほとんど一本道と思って甘く見ていた。無数に枝分かれした道のどこへ進めば下山できるのか判断できない。

もし間違えば大変なことになるのは素人のぼくにも容易に想像できた。

こうして迷っている間にも陽は沈み続ける。


途方に暮れていると遠くに人影が見えた。

誰かが視界から遠ざかっていく。

あの人を追いかければ下山できるかもしれない。

ぼくは必死に後を追った。



登山口まで戻ってきた頃にはかなり暗くなっていた。

険しいこの山で、あと少し下山が遅れていたら命は無かったかもしれない。

駐車場へ行くとぼくの車しか無かった。

ぼくの前を歩いていたはずの人は、どこにも姿が見えない。


そもそも本当に人だったのか? それも分からない。

なぜならぼくの目に映っていたのは鮮やかな赤色のジャンパーだけだったから。

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