「推し」に大きくなってほしくない

このnoteは、自分勝手なオタクよるワガママを綴った記事です。

推しが大きくなる。
絵師だったり、VTuberだったり。
それはめでたいことで、喜ばしいことで、祝福すべきことだ。
自分の中にも、彼ら/彼女らを祝福する気持ちはあるし、素直に「おめでとう」の言葉をかけたい。
しかし、それと同時に「おめでとう」を言いたくない自分もいる。
「大きくならないでほしい」と願う自分が、心の中に、確かに、いる。

推しが大きくなり、多くの人に見られるようになる。
名が売れて、様々な人との交流が生まれる。
様々なクリエイターと協力して、一人では作れなかった(様々な意味で)大きいコンテンツが生み出されるようになる。
それは、間違いなく嬉しいことだ。
一人では表現できないこと、コンテンツの形に昇華できないことはたくさんあるだろう。
そんな「理想」や「アイディア」がコンテンツとして実体を持ち、世に出される。
特定のコンテンツの形でしか表現できないことも多々ある。
推しの新しい一面が見えてくる。
推しが持っていた魅力が、新たに見えてくる。
それがまた新たに人を魅了し、名を馳せ、新たなコンテンツの源流となる。
推しのやりたいことをやって、成長していくのはめでたいことだ。
推しが頑張り、喜び、笑顔を見せる。

それを喜び、祝福する自分がいると同時に、喜べない自分も、いる。

大きくなってほしくない。
ずっとそのままでいてほしい。
変わらないでほしい。
「あの日」の姿のままで、活動していってほしい。
本音を言えば、案件も受けてほしくないし、イベントもやらなくていい。
グッズも出さなくていいし、コラボとかもしなくていい。
変わらない日常を、ずっと過ごしてほしい。
そんな、「推し」の成長を、幸福を、笑顔を否定するような感情が、どうしても心の底から拭いきれない。

この汚い感情は、醜い独占欲からくるのだろうか。
しかし、元より自分だけのものではないのだから、それは勘違いだ。
醜い、汚い、エゴイズムでしかない。
それでも、醜い自分を消し去ることはできない。
推しには、いつまでも「推し」でいてほしい。
世と混じることなく、大きくなることなく、純粋な「推し」でいてほしい。
推しが大きくなることで、得たものや、見れた風景もたくさんある。
推しに、両の手で抱えきれないほどの幸福をくれてありがとう。
推しの夢を叶えてくれてありがとう。
でもやはり、自分が見たいのは「推し」なのだ。
推しが、自分のその手で作り上げた「日常」の風景が、自分の中では一番大切なのだ。
イベントよりも、光り輝くコンテンツよりも、でっかいコラボよりも、自分は何の変哲もない配信だったりが、好きだ。

「大きくなった」ことで、得たことや実現したことはたくさんあった。
しかし、その影で消えてしまったものも、やはり、あるのだと思う。
コミュニティの日常としてはしゃいでいた日々が、完全に失われたとは言わないが、変わってしまったことは確かだ。
多くの人の応援を、声援を受けても、推しには変わってほしくない。
いつまでも、永遠に、「あの日の推し」を見て、楽しんでいたい。
この醜い感情は、きっと消え去ることはできないだろうと思う。

変化を恐れる臆病者。
他人の幸福を素直に喜べない、性根の捻くれた悪魔。
過去を至高とする懐古主義者。
世間一般から見れば、自分は「厄介オタク」と呼ばれてしまうのだろう。
しかし、こんな複雑な感情を抱きながら、推しの姿を見ているのは、自分一人ではないと信じたい。




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