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いにしえの恋

 ゆう子は、最近気持ちが落ち込むことが多くなっていました。何をしても面白くないし、そうかといって何もしないでいるのもかえってゆううつな気分が大きくなってしまうようでした。
 ゆう子には、彼がいるのですが、付き合い始めて三年半過ぎたこの頃、どことなくしっくりいかなくなってきているのです。ゆううつの原因は、どうやらそのことにありそうなのですが、どうすることも出来ないままに、毎日が過ぎていきます。素直に甘えてしまえばいいのですが、彼が年下だということもあって、どうしてもお姉さんぶってしまうのです。
 今日も仕事が終わり、体も心も疲れてしまったゆう子は、いつもは急行に乗って帰る道のりを、各駅停車でのんびり座って帰ることにしました。立っている人はまばらで、急行の混み具合が嘘のようです。
 何分くらい乗っていたのでしょうか、気が付くとゆう子の周りには、誰もいなくなっていました。乗り過ごしたようでした。ゆう子はあわてて、今どの駅あたりか確かめようと外を見ましたが、もう真っ暗で何も見えません。夜なので当たり前なのですが、それにしても、明かり一つない暗闇です。ゆう子は怖くなって誰もいない車内を歩き続けましたが、ついに誰にも会わずに一番端の車両まで来てしまいました。

 その時です。車内アナウンスの声が響きわたりました。
「次は、山辺、山辺です」
 ゆう子は驚きました。そんな駅名聞いたこともなかったからです。
「一体、どこを走っているのよ」
 ゆう子は泣き始めました。
 電車は速度を落とし、駅に止まりました。山の奥の無人駅といった感じの小さな駅です。澄んだ冷たい空気が車内に流れ込んできました。
 ゆう子が降りることをためらいながら外を見ていると、急に遠くの一部分が明るくなりました。まるで映画のスクリーンのようです。その中を一人の女の人が走っていました。かなり全速力で、息を切らしながら必死に走っています。その人は裸足でした。よく見ると泣いています。ゆう子は怖さを忘れ、じっと見つめました。すると、ぱっと明るさは消え、またもとの暗闇になりました。
「今のは何だったの」
 ゆう子は何も考えられなくなっていました。その時ブザーの音が響き、ドアが閉まって電車はまた動き出しました。
 ゆう子は今の女の人のことを考えていました。きれいな人でした。でもどうして泣きながら、しかも裸足で走っていたのでしょう。着ている服もかなり古い時代の、昔話に出てくる天女のような、ひらひらした感じでした。
 ゆう子が考え込んでいるうちに、また車内アナウンスの声が聞こえてきました。
「次は、磐余、磐余です」
 ゆう子は夢中で外を見ました。外は暗闇です。電車はすべり込むように駅に着き、ドアが開きました。
 ゆう子は、じっと目を凝らしました。するとまるで夜が明けるように、ゆっくりと光が降ってきました。その光の中に一人の男の人が立っていました。思わず見とれてしまうほどに整った顔立ちの若者です。ところがどうしてか髪は乱れ、何かを訴えかけるような目をしています。ゆう子はただずっと見つめていました。ふと、
「この人、死んでしまうのかも・・・」
 という悲しい思いが、ゆう子の胸の中を流れ、締め付けられるような痛みが走っていきました。
 ドアが閉まりました。そして外はまた暗闇でした。ゆう子は怖いというよりも、次に何が見えるのか、それだけが気になって仕方がなくなってきました。
「次は、大津、大津です」
 アナウンスが聞こえた時、ゆう子はとても驚きました。そういえば前に読んだことがある小説に、こういう人のことが書かれていたっけ・・・。遠い昔、死にゆく夫のもとへ狂ったように走っていった一人の女性。その人はあまりに急いだためか裸足のままだった。彼女の夫は殺された。思い出した途端、ゆう子は恐ろしくなって体が震えてきました。でも、電車は降りたくても走り続けているし、降りたところで、そこがどこなのかわかりません。
「あれは、幽霊・・・」
 ゆう子は心臓がどきどきしてきて、叫び出しそうでした。

 ふと人の気配を感じて振り返ったゆう子の目に、最初に見た女の人の姿が飛び込んできました。ゆう子は悲鳴を上げましたが、声になりません。動くこともできず、ただ、震えているだけでした。
「怖がらないでください」
 女の人が話しかけました。
「私は大切な方を亡くしてしまいました。殺されてしまったのです。私は彼を心から愛していました。でも、一緒にいた時は短く、心を通じ合うこともなく、彼は逝ってしまいました。でも、彼の最期の時に共にいることができたのは私です。それだけが誇りです。彼を愛し続けて私はとても幸せでした。あなたには・・・私のこの気持ちをわかっていただきたくて・・・」
 それから女の人はくずれるようにゆう子の胸に倒れ込み、そして、声を殺して泣き続けました。細くて小さな体でした。
 このひとときが永遠に続くかと思われた時、急にあたりが騒がしくなってきました。ゆう子が我に返ると、そこはゆう子の家のある見慣れた駅でした。あわてて下車したゆう子は、さっきまでの出来事を思い出しながら歩き出しました。女の人の泣きはらした真っ赤な目を思い浮かべると、とても苦しくなって、ゆう子の目にもうっすらと涙がにじんできました。
「夢だったのかしら、それにしても変な夢だわ。でも、あんな風に引き裂かれてしまうなんて、私もきっと気が狂いそうになるに違いない。ああ、そういえばあの女の人は、大切な人の後を追って死んでしまったんだっけ」
 ゆう子は少し寒気を感じました。
「早く帰らなきゃ」
 その時、ふとゆう子の心の中に、今付き合っている彼の顔が浮かんできました。なぜか心がほっとする顔でした。あの女の人は、時代の流れの中で、大切な人を奪われ、自分の命をも断ってしまうほどの激しい心を持っていた。それにくらべて自分はなんて幸せな時を生きているのだろう。
「今晩、電話をしてみよう。すぐに会いたいって言ってみよう」
 ゆう子はまだ気付いていませんでした。ゆう子も、ゆう子の彼も、お互いをとても大切に思っているということ、そして、ゆう子の心の中に、あの女の人をうらやましいと思う気持ちが芽生えてきていることに。そして、急いで家に向かうゆう子のブラウスの胸のところに、あの女の人の涙のあとがくっきりと残っていることにも、まだ気付いていないのでした。