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「ピーターパン」と「おっさん」たち

3歳の子と一緒にディズニーの「ピーターパン」を観ていた。最後に観てからかなり時間が経っていたので、ストーリーもほとんど覚えておらず新鮮である。

なんとはなく映画を観ているうちに、ピーターパンというキャラクターに既視感を覚えた。数世代前のアニメに出てくるような典型的な「ガキ大将」とは違う、なんかもっと身近な誰がのような……。そうか、こいつは「おっさん」なんだ。

気づいてしまったら最後。もう少年ピーターパンがおっさんにしか見えなくなる。

迷子(ロストボーイズ)たちをまとめるリーダーで、戦いでは強く、頭もいい。彼には経験値とそれにともなう知識、そしてまとめ役のポジションにつくだけの才能があるのだ。

その一方、ピーターパンは強情で柔軟性に欠ける。相手の考えが自分の考えと違うと、すぐに「出てけ」と怒り出す。自分と同じ作法に従えないものを忌み嫌い、自分と違う価値観をもつ相手を受けいれない。

永遠の子供であるピーターパンは、いわゆる中年男性を指す「おっさん」ではない。ただ私の眼に映るピーターパンはもうまぎれもなく、最近世間を騒がせている「おっさん」だった。

トランプを支持したおっさんたち。才能や地位を盾にセクハラ・パワハラをするおっさんたち。周りの変化についていけない(気がしている)おっさんたち。それでも経験や才能はあるおっさんたち。最近は嫌われ者の代名詞になっているおっさんたち。

「ピーターパン」と「おっさん」というふたつのかけ離れた存在が重なって見えたのは、彼が「自分と異なる存在」や「自分自身」と向き合うことをしないからだ。

ピーターパンが普段見ているのは、なんでも思い通りにいった「過去」と楽しい「現在」だけである。彼は内省したり、未来について語ることをほとんどしない。

それがまかり通るのは、おそらく周りにいるロストボーイズたちも同じだからだ。劇中歌の「Following the Leader(リーダーにつづけ)」なんて、それをよくよく象徴している。あの迷子たちはきっと「なぜピーターパンがそこに行くのか」「なぜインディアンが敵なのか」なんて考えもしていないのだ(もちろん彼らは幼い子供だということを忘れちゃいけない)。

さらにピーターパンは、そのスキルと地位とネバーランドの閉塞性を盾に、気に入らないものを強い言葉や威圧感、時には武力で排除しようとする。その結果、ネバーランドは調和を保ち、永遠に変化を受け入れない。

そんな不変の社会の中だからこそ、永遠の少年・ピーターパンという存在は成立する。

でも現実世界は違う。次々と新しい技術が生まれ、新しい物の見方が生まれ、それまで聞かれることのなかった声も力を得ていく。うかうかしているとすぐに新しい才能が生まれ、自分は足元をすくわれる。

当たり前だが社会は変わる。いや、そもそも固定されることがないのだ。変化がないように見えるのなら、それは現実が見えていないだけである。ネバーランドが桃源郷であるのには、理由があるのだ。

もしネバーランドの調和が崩壊したとしたら、ピーターパンを救ってくれるのは誰なのだろう。彼を支えるロストボーイズなのか、ティンカーベルなのか、はたまた外からきたウェンディーなのか。

そのときピーターパンに必要なのは、素直にその手を取り、歩み寄り、理解しようとする勇気だろう。何度も言うが、彼はすでに生き残るための経験とスキルをもっているのだから。

p.s. 1983年に、心理学者のダン・カイリーが有名な『ピーターパン症候群』という本を執筆しているが、そこで記されている「ピーターパン症候群の男性像」と本稿で述べた「おっさん像」は違うということを明記しておく。

Photo by Cecile Hournau on Unsplash

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