私にとっての文章を書く行為がもつ意味

小学生だったころ、私には毎日の習慣があった。日記を書くことだ。何がきっかけで始めたのかは覚えていない。おそらく、自分から始めたわけではなく、親から「毎日書くんだよ」とでも言われて始めたんだと思う。

小さなころは口数も少なくて、おとなしい子供だった。両親にとっては、第一子ということもあり、ずいぶんと心配をされていた。過保護気味に育てられたと思う。困ったことがあっても親にはなかなか言い出すことができなかったからか、毎日どんな生活を送っているのかを知りたかったのかもしれない。部活動が始まる小学校4年生になるまで、ほとんど毎日書いていたはずだ。毎日書いては親に渡して、帰ってきたら親からのコメントをもらっていた。今思うと、その習慣は自分にとって身になっている。こうして国語教員になったのも、自分の感情を言葉にする気持ちよさみたいなものを体験していたからなのかもしれない。

日記をやめたきっかけは忙しくなったことと、そんなに毎日ドラマチックなできごとが起こらなくなったからだと思う。小学校での生活にも慣れて、親には言えない友達とのことも増えてきた時期だし。

中学生になってからは、学校で日記を書く宿題が出ていた。最初のころこそ真面目に取り組んでいたが、しばらくしたらサボっていた。先生側からすれば、生徒理解ということで行なっている取り組みだが、生徒にとってはわずらわしいものだ。日記を書くより、部活動で疲れた体をはやく休めたいという思いだった。毎日が流れるようにすぎた。ほかの生徒と比較して、自分の外向性のなさに悩んだ時期であったけれど、その悩みを共有してくれたのは友達だった。

だれかに悩みを聞いてもらえるということで、当時はそれですっきりしていたのだろう。携帯をもっていなかったので、毎日のように友達と手紙のやりとりをした。内容は思春期らしく、学校生活での不満(笑)。

高校生になってからは、それがメールのやりとりになった。周りが優秀だったせいもあり、自分が集団から置いていかれる感覚があった。それを救ってくれたのは将来の目標だった。明確な夢をもっていたからこそ生き延びることができた。大学生になってからはTwitterやブログに思いを書いた。


こうして長くもない人生を振り返ってみると、私の人生にはいつも文章が近くにあったことに最近ふと気づいた。大人になってからは評価されるための文章や情報を正確に伝えるための文章を書くことが多くなった。それに、大人になれば本音でものを言い合える人はそれほど多くない。弱音をこぼすにも、場面や相手を考えて、後々の影響まで考えなければいけない。伝え方や伝える内容を間違えると、自分の立場が危うくなる。教員という世界は狭いから、すぐ噂が広まってしまう。

思い立ってこうしてnoteに再び出会うことになった。毎日でなくても、こうやって自分の心の整理をする場所は私にとって必要なもの。それを気づかせてくれて、感謝しています。忙しくなれば、体を休めることが先決になってくると思う。負担にならない程度に、自分のために書こうと思う。私の書いた文章がどこかの誰かに届いたときにどんな風に伝わるかはわからないけど、何かのためになっていたらうれしい。

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