ていねいな暮らしは、何が"ていねい"なのか。
不思議と決まって7時に目が覚める。
もともと、寝起きはいいほうで、朝の目覚めが心地いいと思っていた。
けれど、移住してからの、この地での目覚めは、これまでのそれとは何か違う。
「ていねいな暮らし」とは一体なんだろう。
数年前からこのことばを目にするようになってから、ずっともやもやしていた。
「ていねい」の反対を「雑」だとするならば、
これまで、ぼくたちはどんな「雑な暮らし」をしてきたのだろう。
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「移住して、どんな変化がありましたか?」
と聞かれることがよくある。
移住前と変わらず東京の仕事をしているし、Amazonだって変わらず届く。
以前と変わらぬ生活するぶんには特に何も不便なことはない。
だから、この質問を受けるたびに回答に困っていたのだけれど、最近になってその回答にふさわしいものがわかった。
光と音。
この地にやってきて、それが一番の大きな変化だ。
太陽の光が瀬戸内海に反射して、光は形を帯びて、いっそう白く広がる。
夜になれば、光といえば月明かりと、星くらい。
暗さは、深く、あらゆるものの境界線が失われる。
朝になれば、裏山から鳥たちのさえずりが響きわたる。
昼になると風が吹き、木々の揺れる音がする。
波が少し立ち、その音がする。
秋の夕暮れどきは、風が止み、波はなくなり、虫の音が心地いい。
やがて、しんと静まりかえった夜が訪れ、ときおり聞こえるイノシシの声にビクッとする。
光と音。
混じりけのないそれが、全身を包み込んでくる。
ひとつひとつのそれが、際立つ。
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この光と音に敏感に、けれど自然体で触れるようになって、大げさだけれど、ちゃんと地球と一体になって暮らしているように感じる。
自分たちは、ただそこにいるだけであり、万物の一部に過ぎないということを知る。
一部であるということは、共存関係であるということなのだろう。これまでの暮らしは、あまりに分断され過ぎていたのだ。
人生という物語の主人公は、間違いなく自分だ。ぼくらの生きているのは人間社会だ。
でもそれは、大きな流れのなかの、小さな歯車。
コントロールするのではなく、委ね、感じとる。
生きているのではなく、生かされているのだと感じる。
そういうことを日常で感じる暮らしこそが「ていねいな暮らし」であり、
ちょっと前まで雑に接していたことなのかもしれない。
というよりも、接しようにも混沌とし過ぎて、雑音が多すぎて、とらえられなかった。
向島に移住して1年が経った。
光と音に包まれたていねいな暮らしは今日も続く。
10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。