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ていねいな暮らしは、何が"ていねい"なのか。

不思議と決まって7時に目が覚める。

もともと、寝起きはいいほうで、朝の目覚めが心地いいと思っていた。

けれど、移住してからの、この地での目覚めは、これまでのそれとは何か違う。


「ていねいな暮らし」とは一体なんだろう。

数年前からこのことばを目にするようになってから、ずっともやもやしていた。

「ていねい」の反対を「雑」だとするならば、

これまで、ぼくたちはどんな「雑な暮らし」をしてきたのだろう。

***

「移住して、どんな変化がありましたか?」

と聞かれることがよくある。

移住前と変わらず東京の仕事をしているし、Amazonだって変わらず届く。

以前と変わらぬ生活するぶんには特に何も不便なことはない。

だから、この質問を受けるたびに回答に困っていたのだけれど、最近になってその回答にふさわしいものがわかった。


光と音。


この地にやってきて、それが一番の大きな変化だ。


太陽の光が瀬戸内海に反射して、光は形を帯びて、いっそう白く広がる。

夜になれば、光といえば月明かりと、星くらい。

暗さは、深く、あらゆるものの境界線が失われる。


朝になれば、裏山から鳥たちのさえずりが響きわたる。

昼になると風が吹き、木々の揺れる音がする。

波が少し立ち、その音がする。

秋の夕暮れどきは、風が止み、波はなくなり、虫の音が心地いい。

やがて、しんと静まりかえった夜が訪れ、ときおり聞こえるイノシシの声にビクッとする。


光と音。

混じりけのないそれが、全身を包み込んでくる。

ひとつひとつのそれが、際立つ。

***

この光と音に敏感に、けれど自然体で触れるようになって、大げさだけれど、ちゃんと地球と一体になって暮らしているように感じる。

自分たちは、ただそこにいるだけであり、万物の一部に過ぎないということを知る。

一部であるということは、共存関係であるということなのだろう。これまでの暮らしは、あまりに分断され過ぎていたのだ。

人生という物語の主人公は、間違いなく自分だ。ぼくらの生きているのは人間社会だ。

でもそれは、大きな流れのなかの、小さな歯車。

コントロールするのではなく、委ね、感じとる。

生きているのではなく、生かされているのだと感じる。

そういうことを日常で感じる暮らしこそが「ていねいな暮らし」であり、

ちょっと前まで雑に接していたことなのかもしれない。

というよりも、接しようにも混沌とし過ぎて、雑音が多すぎて、とらえられなかった。

向島に移住して1年が経った。

光と音に包まれたていねいな暮らしは今日も続く。





10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。