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『美しさ』を数学から考える

数学に対してどんな認識を持っているだろうか。

私は、学校の授業で公式を覚えて、それを使ってテストの問題を解く。

ただそれだけだった。

しかし、「数学が美しい」という言葉をきっかけに数学に対しての偏った思考をは打ち砕かれた。


会社の同期に大学時代に数学・物理を研究していた人がいた。いつものように話をしていたとき、なぜ物理・数学を研究してたのかという話になって、その中で「数学に美しさを感じる。」という言葉を聞いた。

その言葉がものすごく頭に引っかかった。

なぜなら、「美しい」という言葉を聞いて、美しい女性、美しい絵・彫刻、美しい景色、、、などは想像できるが、美しい数学を想像したとき全くイメージできなかったからだ。

美しいと思うかは人それぞれの感覚的なことなのに、感覚が入る余地のない数学を美しいと感じるとはどうゆうことなのかすごく気になった。

彼女はオイラーの公式を例にしながらこう答えた。

複雑な計算式で成り立つものが最終的に簡潔な式で表せたり、全く関係のないと思われていた数式同士が実は密接に関係していたりする。

それが美しいのだと。


・フェルマーの最終定理を知る

それがきっかけで数学について調べていた時に、フェルマーの最終定理を見つけた。これがまたおもしろい。

それは、私たちが中学生の時にならった三平方の定理からはじまる。
斜辺の長さの2乗は、他の辺の長さの2乗の和に等しくなる
a^2+b^2=c^2

かつてこの式を見て、趣味で数学をやっていたフェルマーはこの式がもし2乗ではなく3乗だったらどうなるか、4乗だったら、、、n乗だったらどうなるかと考えたことがきっかけで生まれた問題がフェルマーの最終定理だ。

フェルマーによると、
n乗の場合のこの式は一つも成り立つものがないことを証明したらしい。

そして彼は
「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、書く場所が狭過ぎるのでここに記すことはできない。」
とだけ書き残してこの世を去ってしまった。

このnが3以上のとき、n乗数を2つの n乗数の和に分けることはできない。
 a^n+ b^n= c^n となる値は存在しない。

これは一見すれば誰もが理解でき、簡単に証明できそうな式だが、これを証明するのに300年かかったというのである。

私たちは、a^2+b^2=c^2をただの公式として暗記したが、フェルマーはその式がもしこうならばと疑問をもった。その観点自体がすごいなと思った。

そして、それがきっかけで300年の歴史が始まるのである。その間にいったいどんなことがあったのかすごく気になった。


・本を借りる

そう思っていたタイミングで、同期が「フェルマーの最終定理(本のタイトル)」あるけど読む?と言った。

なんというタイミングなんだろうか。普段ほとんど本を読まないが、今回は好奇心が勝り活字と戦うことにしたのだった。

本を読む習慣が全くないので、電車に乗っているときに読むということにした。

そこで気づいたのが、早朝に大勢の人が乗り込む電車で、周りが携帯をいじったり、寝ている中、座席に座って悠々と数学の本を読んでいるのはなんて知的で余裕を持った人に見えるのだろうかと一人で小さく笑っていた。

そして、それがちょっとしたお気に入りとなっていた。


さて、このフェルマーの最終定理という本では、フェルマーの最終定理を解き明かすまでの300年を時間軸に沿って、それに挑み証明することに大きく関わってきた数学者たちの人生とその試みを語っている。

そして、所々に数学とはどんなものなのか、数学者とはどういう人なのかを教えてくれる。

ここで、印象に残ったことをいくつかピックアップしておきたい。

根本的だが忘れてはいけないこと
数学はものを数えたり、足したり、引いたりすることから始まった。そこから負数、分数、無理数…と新しい数字の発見があったからこそ今の私たちが数学を扱えている。当たり前のことでも、そうでなかった時代が存在する。昔から積み上げられてきた大発見があるからこそ今の常識が成り立っているのである。その認識を頭の片隅にでも残しておきたい。

数学とは証明することである。
化学における証明は実験を繰り返したのち、限りなくそうである時に証明されたことになる。しかし、それは絶対ではない。原子の話で言うならば、最初は原子だけだと思われていたことが、電子・中性子・陽子と細かい要素が発見され、それもまたさらに細かい要素の発見によって、そのときの常識は覆されてきた。
しかし、数学における証明は普遍的なものである。一度証明することができれば、それは永遠に変わることがない。これが数学における証明だ。

くだらないなーと感じてしまった数学
数学に対して堅苦しいイメージを持っていたが、どうやらそうでもないようだと感じた。友愛数という数字があるのだが、それは異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数である。最初に見つけたのは220と284のペアだ。
220の(自分自身以外の)約数 : 1, 2, 4, 5, 10, 11, 20, 22, 44, 55, 110 その和は284
284の(自分自身以外の)約数 : 1, 2, 4, 71, 142 その和は220となる。
時代が進むにつれ(17296、18416)が発見され、次に(9363584、9437056)が発見された。
この相性のいいペアを見つけること自体ただの探究心からくるものでしかないと感じた。ましてや機械のない時代に数千桁の数字のペアを見つけるのは数学で遊んでるように感じてしまう。

26と聞いて何をイメージすか。
26と聞いて何をイメージするだろうか。一見特別ではない数字でも、数学界では意味を持つ
26は25と27に挟まれた数字だが、それは5の二乗と3の三乗に挟まれた数字である。このようにm,n乗に挟まれた数字は26しかないのである。

数学者とは(その1)
数学者はクロスワードパズルが解けたときの嬉しさと同じ感覚を数学の問題が溶けた時に感じているらしい。数学をやる動機は意外とシンプルで遊び心があるのだと知った。

数学者とは(その2)
数学者は完全な主張がされないうちはどんな主張も認めないという。その例がおもしろかった。

列車から景色を眺めていると黒い羊が目にとまった。
一人目は「スコットランドの羊は黒いのか。」と言った。
二人目は「スコットランドの羊の中には黒い羊もいるのか」と言った。
三人目は「スコットランドには少なくとも一つの原っぱが存在し、その原っぱには少なくとも一匹の羊が存在し、その羊は少なくとも一方の面は黒い。」と言った。
何人目が数学者なのかは言うまでもない。


まだまだ、書き足りないくらいおもしろい話がたくさんあったがキリがないのでここまでにしておく。
そうやって数学を断片的にも理解しつつ本を読み進めていた。


・美しいと感じる瞬間

本も終わりに近づく頃、ようやく300年の月日を経てフェルマーの最終定理はアンドリュー・ワイルズによって証明されることとなる。しかし、その前に大きな壁が立ち塞がった。

彼の証明が完成して、それが正しいかどうかの審査を受けているときに、根本的な問題が見つかって証明が失敗に終わりそうだったのだ。

しかし、ワイルズは以前必要ないと切り捨てていた数学の手法を、今使っている手法と掛け合わせることで見事証明を完成させたのである。

それは審査で問題が見つかってから1年後のふとした瞬間であった。

本の中ではこのように書かれている。

フェルマーの最終定理P.415より
その瞬間について語る時、あまりにも鮮烈な記憶にワイルズは涙ぐんだ。
「言葉にしようのない、美しい瞬間でした。とてもシンプルで、とてもエレガントで……。どうして見落としていたか自分でも分からなくて、信じられない思いで20分間もじっと見つめていました。以下略」


この本の最後の最後に美しいという言葉がでてきた。 

数学の美しさを意識しながらこの本を読んできたからこそ、ここでの美しいという意味が理解できる。 

そして、それは会社の同期が最初に話してくれた感覚と似ているものだと感じた。

何かと何かがつながる瞬間、全く違うと思われていたものは、実はものすごく簡潔で強固 なものだった。

そしてそれは、つながったことで生まれる新しい可能性のカギとなる。

それは、数学に限ったことではない。 

どんなに小さなことでであっても、個人的なことであっても、

その瞬間は美しいと感じるのではないだ ろうか。

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