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エヴァンゲリオン批評② 〜胎内回帰とエディプスコンプレックス〜


胎内回帰のエヴァンゲリオン

そもそもエヴァンゲリオンとは何だったのかという問題を考えたときに、やはり聖書を切り離すことはできません。

聖書において、使徒はイエス・キリストの12人の弟子のことで、神に遣わされた者を意味するします。エヴァンゲリオンに登場する使徒も聖書との関連があります。第1使徒のアダムは旧約聖書の最初の人類の一人で、第2使徒のリリスはアダムの最初の妻です。リリスは悪魔の祖とも言われます。第3使徒から第16使徒までは天使の名前です。使徒の名前につく「〜エル」という名前は、セム語派の言語で「神」を意味します。第17使徒のタブリスは天使とも悪魔とも言える存在として語られており、第18使徒のリリンはリリスが魔王サタンとの間に設けた子供と言われています。作中でリリンは人類を指します。

ゼーレの「人類補完計画」のシナリオが書いてあるとされる死界文書は、ヨルダン川西岸にある洞窟内で発見された文献を基に作られた設定です。旧約聖書の写本など約2000年前の文書であり、2021年に入っても新しいものが発見されるなど考古学的な世紀の大発見です。もちろん人類補完計画などは書かれていませんが、2000年前の旧約聖書の写本が発見されたことは事実です。

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このようにエヴァンゲリオンは聖書やキリスト教から強い影響を受けています。このことからエヴァンゲリオンを考えてみます。
エヴァは最初の人類アダムの妻イヴのヘブライ語表記です。エヴァパイロットは全員母親のいない子供というルールから考えると、エヴァとは母親のメタファーと考えるのが妥当でしょう。エヴァ内部がL.C.L.という呼吸可能な液体で満たされているのは羊水の記号であり、ケーブルのような形状でエヴァとパイロットが繋がるのは臍の緒を表しているでしょう。
そう考えると、エヴァンゲリオンの物語は典型的な胎内回帰の物語としての文脈で読み解くことが妥当です。

胎内回帰とは、生物が母親の体に中に戻ろうとする本能のことです。この胎内回帰を利用して描かれる物語の構造に貴種流離譚があります。貴種流離譚は多くの神話や民話に見られる物語構造です。

高い身分にある人間が、何らかの理由で故郷を追われ、低い身分のものに育てられ、苦難の旅を経て、自らの出自を知り英雄(神話)となる。

という一連の物語構造が貴種流離譚です。

例えばギリシア神話は貴種流離譚の繰り返しです。
全宇宙を統べるクロノスは息子にその座を奪われることを恐れ、ハデスやポセイドンを飲み込んでしまいます。しかしゼウスだけは母親によってクレタ島に密かに送られて、ヤギの乳を飲み育ち、大きくなってクロノスを倒し、自らが全知全能の神になります。
ゼウスの子ヘラクレスも同じように神の国オリンポスを追い出されてしまいますが、数々の苦難を経て、死後に神になります。

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ゴヤの絵画『我が子を喰らうサトゥルヌス(クロノス)』

ブリテン島のアーサー王伝説も同じです。ペンドラゴン王は敵国コーンウォールのお姫様に恋をし、魔術師マーリンの力でコーンウォールの王様に変身してお姫様に赤ん坊を身籠らせます。生まれた子アーサーはその後孤児として育てられますが、聖剣エクスカリバーを引き抜き、戦争に勝利し、ブリタニアの王になります。

日本神話のスサノオノミコトは、天照大神が岩に隠れてしまった責任を取らされて、高天原から追放されますが、八岐大蛇を倒し、根の国の支配者になります。また日本神話にはヒルコという不具の神がいますが、ヒルコの物語も貴種流離譚です。このヒルコは庵野の2016年の映画『シン・ゴジラ』の基になっています。詳しくは③で解説します。

このように洋の東西を問わず、貴種流離譚は至る所に存在するのです。新約聖書もかぐや姫もラピュタもハリーポッターもスターウォーズもライオンキングもシンデレラもドラゴンボールも、細かい違いはあれど、高貴な子、運命の子、特殊な力を持つ子が低俗な世界に送られ、そこで成長して高貴な身分に戻る、または仇敵を討つというストーリー構造は一致しているのです。

なぜ神話から現代のエンタメまで広くこの物語生成装置が機能しているかと言うと、貴種流離譚は人類共通の胎内回帰の本能に依拠しているからです。人間の本能では、母親の胎内=神の国・高貴な身分・特殊な力と同義なのです。

エヴァの話に戻しましょう。
エヴァも、シンジという「生命の書」に名前を書かれるべき救世主が自我と他者にもがき苦しみんがら、最終的に皆を救済し神話になるという話です(最終的に母・ユイによって現実に送り出され、神話にはなりませんでしたが)。

そして貴種流離譚の源流である胎内回帰の視点で考えると、エヴァンゲリオンの物語は母の不在という問題を抱えた少年少女が母親の胎内へと回帰し、そこでもがきながら一人の個人として「私」を獲得するまでの物語と言えます。「私」を獲得するというのは、高貴な身分じゃなくても、特殊な力がなくても、「僕は僕のままここにいていいんだ」ということです。だからシンジがテレビ版の最終話と新劇場版シリーズのラストで「エヴァのいない世界」の幸福を望む選択をしたのは当然の選択と言えます。

なぜ人は母親の胎内を離れなければならないのでしょうか。その方が楽だし、自分が守られている特別な存在だと思えるのに。

精神分析学者フロイトは人間の成長段階として5つの段階を想定しています。その中の第一段階は口唇期と言われ、母乳を飲むことに快感を覚える時期です。フランスの哲学者メルロ=ポンティの『知覚の現象学』によれば、生まれたばかりの赤ちゃんは自己と他者の区別をつけることができず、母親を自分の一部と認識しているそうです。母親に抱かれ、母乳を飲むという行為を通して世界を知り、乳離れによって自己と他者の違いを認識して次の成長段階へと進んでいくのです。

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娘と歩く哲学者史上唯一の陽キャ、メルロ=ポンティ


つまり母離れをすることは成長して大人になることです。人は成長するうえで母が必要で、また母から離れることも必要です。

シンジが母親の愛を認識する間もなく、母・ユイが不在だったことはシンジが他者を受け入れられない理由の最たるものだったと考えられます。エヴァのパイロットとエヴァのコアが母子関係にある必要があるのも胎内回帰の物語と考えれば自然です。
シンエヴァンゲリオンでシンジがエヴァ初号機=母親から射出され、実写の駅に飛び出ていくラストは、シンジが遂に母親の呪縛から解き放たれ大人になっていたことを意味し、同時に実写の駅が映し出されることで「現実に帰った」ことを意味します。26年に亘る円環の物語が遂に大円団を迎えたのです。

母親の呪縛から解き放たれたのはシンジだけではありません。シンジが他者に向かい合うことを決意したことで、円環の物語の「作者」としての宿命からカヲル=庵野自身も解放され、ケンスケとの絆によってアスカも解放され、綾波も一人の人間としての「私」を獲得し、ゲンドウもシンジと向き合うことでユイと再び一緒になり救われました。さらには、当時の若者たちが現実と他者を拒絶したことで、砂浜に打ち捨てられた旧劇場版のアスカすらも解放してしまいました。極め付けは「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という言葉と共に「私」を獲得できず、現実に向き合ってこなかった全ての観客たちすらも解放してしまいました。まさにエヴァンゲリオンの呪縛に囚われた全ての人たちを解放してしまったことになります。恐らくこんな映画は古今東西の映画の歴史上ひとつもありません。

エディプスコンプレックスと使徒

エヴァンゲリオンが母親の象徴であるならば、使徒は何を意味するのでしょうか?

使徒は父親の象徴でしょう。もっと噛み砕けば、意図がわからない他者を表す記号です。

物語開始当初では目的も分からず、意思疎通も不可能な怪物として使徒は描かれます。人類補完計画によって自己と他者の区別がない世界=現実に向き合わない世界を希求する人類を妨害し、エヴァ=母とその胎内にいるパイロット=子供たちを汚染しようとする存在です。上手くコミュニケーションが取れない存在であり、ゼーレの人類補完計画を妨害しようとする様子はシンジにとっての父・ゲンドウと一致します。使徒とゲンドウは物語の中のシニフィアン(記号表現)としては多くの部分で共通します。

ここで改めてフロイトの理論を引用して考えましょう。
フロイトの発表した理論の中にエディプスコンプレックスというものがあります。エディプスコンプレックスとは男児が無意識下に母親に対して性的欲求を抱き、父親に対して殺意を抱いているという理論です。
前述したように赤ちゃんは母親と自分を同一の存在として意識しています。成長過程で母親と自己を分離していくものの、その過程で強い不安を覚え、同一の存在になりたいという願望を抱くのです。よく小さい子供が「将来お母さんと結婚する!」と言うのはその現れです。もちろん結婚の意味も分からないし、性知識などないのですが、同一であり続けたいと願うのです。
母親と同一になりたいと願う時に邪魔な存在は父親です。父親は母親と同一になりたいと願う自分の立場を脅かす存在ですし、実際に父親はペニスを使って母親と同一になることが可能であり、セックスなど知らなくても本能的に子供は父親を拒絶し、排除したいという欲求を持っています。成長過程でこのエディプスコンプレックスは抑圧されていき、表に出なくなるのですが、父親の愛も母親の愛も知らないシンジにとっては大きな問題です。
(ちなみにフロイトは女児のエディプスコンプレックスは男児と違った構造があると考え、フロイトの盟友ユングは女児は父親に独占欲を持ち、母親を排除しようとするエレクトラコンプレックスがあると考えました。詳しくはここでは割愛します。)

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エディプスコンプレックスの語源になったオイディプース王。王様に山に捨てられたが羊飼いに育てられる。偉そうなおっさん殺したらパパだった。スフィンクス殺して王妃と結婚したらママだった。可哀想。

シンジは父親に反抗し、最終的に母=エヴァを巡ってまさに殺し合いを演じます。まさにエディプスコンプレックスでいう、母を渡さないための父殺しです。


初号機とゲンドウの乗るエヴァ13号機の外見が酷似していることからも分かるように、シンジとゲンドウは似た者同士。ゲンドウも他者を拒絶して自分の内面に閉じこもって生きてきた人間でした。ユイと出会ってゲンドウは変われたのに、そのユイが亡くなってしまったのでゲンドウはユイに会うために行動します。ゲンドウにとってのユイは母親的な存在だったと言えます。ゲンドウもエディプスコンプレックスこじらせ人間だったわけです。
シンジが「息子が父親にしてやれるのは、肩をたたくか殺してやることだけよ」と言う言葉の通りにゲンドウは殺されるわけですが、自分の殻に閉じこもって父親になれなかったゲンドウが、息子に殺されることでようやく父親になることができました。そしてシンジは肩を叩いて電車の外にゲンドウを送り出すことで、ゲンドウは大人になり救済されたのです。

ゲンドウの話から使徒の話に戻しましょう。
使徒が父親の象徴であるというのは第一使徒の名前がアダムということからも判断できます。アダムは最初の人類であり、まさに父親。そして第一使徒アダムは第3から第17使徒の源です。そしてこのアダムの魂は渚カヲルとして円環の物語の中で繰り返し再生されています。カヲルはシンジの片割れであると共に弱い父性ゲンドウの片割れでもあると思います。
弱い父ゲンドウがシンジの言葉で弱さを認め解放され、完璧な父であり、物語の作者=父であるカヲルもシンジによって円環の物語から解放されます。カヲルは自らが望む幸福、神話でのアダムの妻である第2使徒リリスの子リリン(人類)の加持とスイカ畑での幸福を見出します。さらにラストの駅ではリリスの魂を受け継いだ綾波と会話をしています。カヲルは完全に解放され幸福を見出したことが分かります。

20年以上敵として描いてきた使徒すらも救済してしまったのですね。

シンジが皆を救済したキリストであり、マリがその側に寄り添い続けるマグダラのマリアだと解釈すると、冬月が言ったイスカリオテのマリアという言葉も理解できます。神になったゲンドウたちを裏切ったイスカリオテ(キリストを売ったイスカリオテのユダ)であり、キリストであるシンジの側に寄り添い続けたマグダラのマリア、「イスカリオテのマリア」がマリだったのです。


③に続きます。③は庵野の過去作品を通してエヴァと庵野のやりたかったことを論じていきます。2日後に投稿します。

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