#723 不平等が先か、分断が先か
人は生まれながらにして、様々な不平等を背負って生きなければならない運命の中にあり、しばしば、私たちが幸せに生きていく「学び」を阻害してきます。
『医者が「二浪」してわかった、「努力できる人」と「努力できない人」の間にある”残酷すぎる現実”…!』
という記事の中では、二年間の浪人生活の末、国立大学の医学部に合格し、今では「泣くな研修医」シリーズでベストセラー作家になった中山祐次郎氏は、自身の浪人体験をこのように振り返ります。
「機会が与えられること」それ自体が非常に価値が高いことであって、努力する機会を与えられることそのものが当たり前ではないと、同氏は語っています。
私はコラムの中で公教育の目的は「学びの機会を担保すること」であると述べてきました。その機会が保障されることで、私たちを分断をしてくる差別・怒り・偏見がなくなるであろうと思っています。
先日行われたアメリカ大統領選。共和党のドナルド・トランプ氏が勝利しました。各国メディアは、同氏の勝利が何を意味するのかを分析しつつ、これから始まるかもしれない混沌に強い警戒感を示しています。
『なぜハリス氏はトランプ氏に敗れたのか…「唯一無二」に打ち勝てず、多様性に忌避感も』という記事の中では、読売新聞社のアメリカ総局長である今井隆氏が、今回の大統領選挙を分析。その中でハリス氏が敗北した原因の1つとして、「リベラル的機会平等」への嫌悪感を挙げています。
「努力」というのは、本来、自分自身をより高めるための「学び」のことを示していると個人的には解釈している。「学び」は私たちの暮らしを豊かにする唯一の方法であると言っても過言ではない。
しかし、学びのためのバックグラウンドがない人たちは、いつしか自分が「学ぶことができる」こと、そのものを否定するようになる。学びを失った人たちは、日々の生活の中に経済的・社会的な生きづらさを感じ、その実を求めるようになる。機会の平等という抽象的で理想論的なものなどは、逆に彼らの存在を否定する言葉になってしまうのかもしれない。