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エンゲージメントってなんだろう?

エンゲージメントとは?

急激な環境の変化や技術革新などにより、将来を予測することが困難な昨今、新たな組織形態や働き方を模索する企業が増え、それに伴い「エンゲージメント」という言葉を聞く機会も増えてきました。

今日は、「エンゲージメントってなんだろう?」という問いに対して、現時点で思い浮かんだことを書いてみたいと思います。

まず、エンゲージメントの定義としては、

組織や仕事に対して自発的な貢献意欲を持ち、主体的に取り組んでいる心理状態。

出典:wevox

ここでキーワードとなってくるのは、「自発的」や「主体的」という言葉です。これまでの企業で重視されていた主従関係を前提とした貢献度というよりは、組織や仕事と個人との関係性に、より対等さや双方向性、流動性を感じ、まるで森の中に木々が育っているような生命力溢れるイメージが湧いてきます。

このイメージからエンゲージメントを「〇〇との関係性の活き活き度合い」と捉えてみたいと思います。

「活き活き」という言葉は生命力が溢れているとも置き換えることができますが、生命は現代科学では判明していない部分が多い概念の一つです。

一方で、我々自身が生命であることから、むしろ科学的に証明されている明確な答えがあることよりも、問い続けることや身体が感じていること、そして、その集積である先人からの知恵にヒントがあるのではないか、とも思います。

ここからは、そのヒントとなりそうエピソードをいくつか振り返ることで「エンゲージメントってなんだろう?」という問いに近づいていきたいと思います。

感情と特性

これまで約250名の方達とコーチングを通して継続的な対話をしてきた経験から感じていることがあります。

ネガティブだと思っている感情や自分の欠点だと思っている特性を、特に組織の中で表に出すことを「悪いこと」や「ダメなこと」と判断して押し殺している方が多いということです。

自分自身もコーチングを受ける前は、対立が起こりそうな時などは感情的にならずに、理性的に行動することが重要という風に考えていましたが、その考え方が自分の本音を知らず知らずのうちに押し殺していることに気が付いていませんでした。

感情そのものや、自分の触れたくない感情と向き合わないようにするための「思いこみ」を自分の本心だと誤解をしていました。

コーチングという先人の知恵に触れて、話を聴いてもらい、自分の感情を味わうことで、さらにその奥にあるものが自分の本心や願いであるということに気が付きました。

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そして、押し殺していた感情の奥にある願いや、欠点だと思っていた特性にこそ、活き活きとした本来のその人らしさの源泉があることを実感しています。

仕事と生活

中学生の頃から感じ始めた世の中に対する違和感があります。

どうして会社で働く大人たちは長時間懸命に働いているのに、活き活きとしているように見えないのだろう。働けば働くほど家庭生活とのギャップが広まり、幸せを感じれなくなるのだろう。

その疑問を持ったまま社会人になり15年ほど働いた頃、父親に介護の可能性が出てきたときに自分の未来に光が見えなくなりました。

「ただでさえ自分を犠牲にして働いているのに、休日までも自分を犠牲にしなくてはいけないのか?」「自分を大切にしたい」という本心に気がつきました。仕事内容や給料や職場環境、チームワークなどにも不満をもっていたわけではなかったので「自分は仕事のことをそんな風に思っていたのか」と驚きました。

この経験から、当時の自分も含めた、いわゆる旧来型の会社人間の「家族のために生活を犠牲にして働かねばならない」という思い込みの反動が、家事や育児や介護などの「家庭生活の仕事」の価値を認められず、(会社人間が悪いということではなく、逆の立場も然りです。)分断が起きている原因なのかもしれない、と思うようになりました。 

自分を犠牲にして他者のために行動しても、他者との関係性を活き活きとさせることはできない、という振り返ってみての気付きから、相手も自分も大切にする姿勢を諦めない覚悟ができました。

その後、自分自身が介護の仕事を経験したり、様々な雇用形態や働き方に挑戦するようになりました。その際の手掛かりにしている東京大学の牧野 篤教授の言葉を引用します。

企業での仕事だけでなく、社会と関わって生活すること全てを「働くこと」と考え、それをベースにいくつもの人間関係やコミュニティを形作るよう発想を転換することです。

テクノロジーの発達や対話手法の広がり、そして、昨今のコロナ禍による環境の変化などにより、業種や国を跨いだ企業間、地域、多様な個人間など、様々な壁を超えた対話がオンラインで活発に行われるようになってきています。

対話によって、ある分野では当たり前とされていたことが、他の分野では貴重な知恵として学ばれたり、シナジーが起こることもあり、複数の場で「働く」ことが、それらの場に対しても関係性の活き活き度合いの原動力になる可能性を感じています。

何よりも、この壁を超えた学び合いや対話手法が育ってきていること自体が「分かりあえなさ」という分断を超える希望だと感じていますし、仕事vs家庭、味方vs敵、善vs悪のような二元論を超えた、生態系のような複雑で活き活きとした関係性が構築される土壌になっていくのではないかと思います。

身体感覚と自然

自分を犠牲にして働いていることに対する違和感に気がつきつつも、長いあいだ自分の心の声を聴かなかった理由としては、「違和感を感じている自分の方がおかしいのでは?」「この違和感を信じると社会で生存できないのでは?」と思っていたためです。

自分の違和感の方を信じられるようになったきっかけは、12年ほど働いた会社を転職する際、自分の今後に迷っている時に群馬県みなかみ町で仲間の主宰していたリトリートプログラムに参加したことでした。

3日間、焚き火を囲みながら仲間と対話をしたり、林業を体験したり、半日近く森の中で1人で内省したりするうちに、人間のために作られた快適な都市では味わえない身体感覚をたくさん味わいました。その中で、違和感という身体感覚の頼もしさも実感していきます。

森に入った当初は、都市の快適さに慣れているため様々な違和感を感じます。虫の音、動物の鳴き声や糞の匂い、雲行きや言葉にならない嫌な雰囲気、など。虫の音や糞の匂いなどは徐々に気にならなくなっていきますが、言葉にならない嫌な雰囲気などを感じる力は鋭くなっていきます。

存在できるものを人間が決めている都市では、違和感はその場に順応できない感覚と捉えていましたが、人間の意図を超えた森の中では、人間の良い、悪いの判断を超えた全てが存在し、その場では、違和感はむしろ自分にとって活き活きできる場所を探し、創り出していくためのセンサーなのだと体感していきます。

身体がたくさんの情報を自然からキャッチしているためか、森の中では長時間いるだけで知らず知らずのうちにエネルギーを使います。

僕と同じタイミングで参加していた女性は日常生活では運動の習慣もなく、食が細いことが悩みとのことでした。ところが、彼女は薪割りの途中から夢中になり、雨が降ってきても作業の継続を熱望し、食事もご飯を三杯おかわりをしました。まさに、活き活きという言葉がぴったりとくる状態です。

僕も彼女と同じ状態になっており、都市生活やレジャーや観光では感じたことのないこの活き活き感に驚きました。

場が人を活き活きとさせ、人が場を活き活きとさせる。ティール組織などの新たな形の組織が生態系や自然をお手本にしている理由を少し理解できた気がしました。 

その後、機会があるとみなかみ町を訪れ、仲間たちとも定期的に対話を続けていく中で、活き活きとした組織の在り方を考えた時、都市か自然か、の分断を超えてその間に立つことで新たな可能性が見えてくるのではないか、という希望を持って探求を続けています。

問いと共に

ここまでエンゲージメントを「〇〇との関係性の活き活き度合い」と捉えて「エンゲージメントってなんだろう?」という問いに近づくヒントを探してきました。

上記のエピソードに繋がる活動は今後も自分自身で実践していくことであり、問いを持って行動していく中で起きた気づきによってエンゲージメントの捉え方も変化していくように思います。最後にレイナー・マリア・リルケという詩人の言葉を引用します。

問いを求めなさい。決して答えを求めるのではなく、問いを求めなさい。そして、問いを生きなさい。問いを生きていれば、やがて自分がその答えを生きていることに気がつくでしょう。

ここまでご覧いただき有難うございました。

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