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消費よりも創造を

僕のひとつ上の学年に、年の近い先輩がいる。彼とは共通の興味があったり、人間的にもおもしろかったりするものだから、知り合って以来ずっと親しくさせてもらっている。僕の入学した年そして去年と、一緒にフジロックへも行ったな。

彼とはこれまで色々な会話をしてきたけれど、いつか彼が口にした問いかけがとても印象に残っているので、ここに書いておこうと思う。

「まとまった時間を、“快楽型体験”と“積み重ね型体験”のどちらに使いたい?」

正確な言い回しを覚えていないのが残念だけど(今度また聞いておこう)、確か先輩はこんなことを僕に訊いてきた。

初めて聞いたワード(おそらく彼のオリジナル)だったので、僕はそれぞれどういう意味なのかを尋ねたんだ。すると彼いわく、「快楽型体験」とはそれをしている時には楽しいが、自分自身に直接的な知識やスキルをもたらすものではない体験を指すらしい。例えば友達と美味しいものを飲み食いするとか、物を買うこと、またレクリエーションや旅を楽しむなどのことが当てはまる。一方で「積み重ね型体験」とは、時間を費やすことによってそれが自身の知識やスキルとして身につく体験を指す。医学や語学の勉強であったり、楽器の練習などが該当するそうだ。この会話があったのはちょうど今のような長期休暇前で、先輩は「快楽型体験」と「積み重ね型体験」を上手く織り交ぜながら予定を組んでいくことが彼自身にとって大切だと力説していた。

僕自身はというと、先輩の問いかけに対し「積み重ね型体験ですね」と即答した。今あらためて考えてみても、それは変わらない。

いつからかここ数年、僕にはいわゆる物欲というものがどんどんと薄まっているように感じる。それは先日の記事にも書いたように、そもそもの前提として今の学生生活が家族に負担をかけてしまっているという気持ちが強いからなのかもしれない。けれどもし今後、自分で自由に使えるお金が増えたところで、僕には何か買いたいものがあるだろうか?お金を使うことによって満たしたい強い欲求があるだろうか、と考えると、すくなくともパッと思い浮かぶような対象がない。強いて言えば、食べたいと思った時に食べたいものを食べれたらという欲求があるくらいだと思う。そしてそれらも値の張るようなものではなく、高くて2,000円もあれば十分お釣りがくる類のものばかりだ。

今の僕が描く理想的な一日の過ごし方は、(これまでにも何度か書いている通り)このnoteに文章を書き、国家試験に向けた勉強を無理のない範囲で進め、自分の好きなピアノ曲を練習して、ジムで身体を引き締める...本当にこれくらい。ありがたいことに、友人からのお誘いで小旅行へ出掛けたり、レクリエーションを楽しんだりすることもあるけれど(昨日は競馬に案内してもらいました)、それもあまり頻度が増えてくると困ってしまう。お誘いをもらう度に、僕は上に挙げた日課の時間を失うことがまず頭に過ぎる。

つまるところ、「快楽型体験」とはいわゆる消費行動を指すし、「積み重ね型体験」とは創造的行為に言い換えることができると僕は捉えている。そして僕の日課はすべて、先輩がいうところの「積み重ね型体験」に該当するだろう。なぜ自分がそこまで創造的行為に入れ込むのか、ということを答えることはなかなか難しい。現実としてあまり自由に使えるお金がないから、ということもあるかもしれないけれど、僕の中ではこんなことを少しまじめに思っている。

「消費より創造を。消費で得られる楽しみはあるが、そこには儚さや虚しさも同居する。一方で、創造的行為からは喜びを得ることができる。その喜びを得る過程では往々にして苦しみを伴うが、それも含めてその喜びは、自身に深い豊かさをもたらしてくれる」

今日で1ヶ月となるnoteについても、大げさに言ってしまえばここまで積み重ねた分の景色が今の自分には見えているように思う。すくなくとも、これを始める前の自分と今の自分はきっと違うだろう。これは他者に誇示する必要もない、極めて私的で内的な喜びである。それでいい。それが今の自分が欲するものなんだ。

積み上げているという自覚すらなくなるくらい、これらの行為が僕にとっての自然となればいいのだけど。まだまだ青い。そんなことを思いながら、これからもただコツコツと積み重ねていこう。

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