火事場の馬鹿力
ふと、目が覚める。
「...やば、いつのまに寝てた」
嫌な予感がする。まだ何も手をつけていないのに。でもね、まさかそんな。
iPhoneのホームボタンを押して浮かんだのは、5:00AMという数字。
心臓がドキーンッ
頭は真っ白。
「終わった。さすがに終わった」
不意に口をつく絶望の言葉。
こんな風にして、僕は3年生最後の定期試験を迎えることになった。
——-
試験最終日。朝の時点で、何ひとつ準備が終わっていない。
医師を志し大学に入り直し、これまで試験を何度か経験してきた訳だけれど、さすがにここまでひどい状況は初めてのことだった。試験期間終盤ですっかり体力を奪われていた自分はいつのまに意識を飛ばし、朝5:00に覚醒。その4時間後に皮膚形成外科の試験を控えていた。準備は何ひとつ終えていない。
4時間後の試験に合格できなければ、学生には再試験が課せられる。決して安くない再試代金を支払い、その再試験の準備に心を重くし、多くの時間を割くことになる。そしてそれも上手くいかないとなると...見えてくるのは「留年」の二文字だ。
大学生活をひとつのゲームに例えるのであれば、試験の不合格とは紛れもなく「ダメージ」であり、「ライフポイントの減少」を意味している- これはきっと大学生、特に医大生の中ではある程度の共通感覚かもしれない。実際、試験の出来不出来は記号的に「生死」と結び付けられている部分があって、僕たちはよく「今日の試験は死んだ」といった言葉を使う。
1月26日の朝に話を戻すと、あの状況下、覚醒後の僕は数十秒ほど(おそらく)で今後の展開に関するあらゆる可能性を頭に浮かべた。そして、ここはあきらめずに粘ってみようという判断をし、おそらくここ数年で最も脳を働かせ、集中した。(並行して心臓はこれでもかと激しい鼓動を続けていたし、脳内では「何で寝ちまったんだおい...」という後悔反省自己批判が絶えず叫ばれていたけれど。)
あの時の自分は、「試験で死んでしまわないよう、生き延びる可能性を1%でも上げるためだけに脳をふり絞る」状態。極端に言えば、ライオンに追われる草食動物さながらの状況かもしれない。必死に走りながら、常にこの先、左に曲がるか、右に曲がるか、それともこのまま真っ直ぐかを判断する。自身の状況に当てはめると、「残された時間で何ができるか、次に何を覚えるべきか」ということを、目の前のことを覚える作業の傍らで常に考え続けた。カチ、カチと刻む卓上時計の秒針がやたらと大きく響く中、この判断に与えられた時間は殆どない。そしてその判断を誤れば、即ちゲーム・オーバーを意味すると感じていた。
「電車とバスの中でこれを終わらせて、着いてからの1時間弱であれに目を通して...」試験範囲全体は3時間強でカバー出来る量では到底ないから、とにかく同学年の友人達が得てくれていた情報から対象範囲を取捨選択し、貪るように目を通していった。学校に着くと、「ヤバいっす〜」なんて友人の声に少し励まされつつ、「でも自分の方が圧倒的に...」とは返さず思うだけにした。声に出してしまえば、何かが確定されてしまう気がしたから。図書館では上着も脱がずにひたすらiPadを睨みつける。そのくらいの焦燥と恐怖。
そして迎えた朝9時、皮膚形成外科の試験。
今回、自分がなぜ朝5時の時点で粘ってみようと思ったのか。それはこの科目が比較的緩めの難易度であるという認識があったからで、よほど大きなヘマをしなければ(例えば試験当日の朝まで準備もせず寝てしまうようなヘマをしなければ)きっと大丈夫だろうというような感覚が漠然とあったからだ。実際、試験開始とともに死にそうになりながら問題を見ていくと、ちんぷんかんぷん...という箇所は多くなくて、かなり学生に配慮した問題構成となっていたことに心底感謝した。
先日の試験が「死んだ」のかどうか、わかるのはもう数日先のことになる(2月3日現在)。けれど試験を終えた直後しばらくの間は、「出来たという感触はまったくないけれど、まぁよく戦ったな...」という感覚に包まれていた。何を隠そう本当はこの投稿で、まさにこの感覚について、そしてそこから生まれた気づきについてを文章にしたかった(書いていた)のだけど、エピソードだけでそれなりの量となってしまったので、それはまた別の機会にしようと思う。
ここまでで言えることといえば、「火事場の馬鹿力、馬鹿にできん」ということでしょうか。そう言い切れるよう、何とか結果が無事であることを祈る...。
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