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自己肯定感の教科書で勉強中「みんなちがってみんないい」が腹落ちしたはなし

最近、「私もしかしたら自己肯定感低いのかも」と、本やセミナーで勉強している中感じていた。

モヤモヤしていたところ、↓の本に出会い「やっぱり、私に足りないのは自己肯定感だ!」と確信した。

自己肯定感を勉強している中でよく出会う「みんなちがってみんないい」という言葉。

有名な言葉だし、意味も分かっていたつもりだったけど、どうも腹落ちしていない感じがしていた。

あなたと私は違う。みんな違う。みんな良い。

うんうん、そりゃわかるよ。しかし、日常生活の中で、相手が自分と違う考えをしているとき「良い」と思えないことがあるから関係が上手くいかなかったりしてしまうんだ。

母と私の物事の捉え方の違い

先日息子の誕生日だったので、実家に行った。

その日は、天気予報が雨だったのに晴れ間がでていた。

この「雨予報だったけど晴れた」という事実に対し、母は「天気予報外れてばっかりで嫌だね」と言った。私は「晴れてラッキー」と思った。

もともと母はいろんなことをネガティブに捉えるタイプで、私はこの考えが好きではないなーとずっと感じていた。

先ほどの「天気予報外れてばっかりで嫌だね」という発言も、いつもなら聞いただけでなんとなく嫌な気分になっているところが今回は嫌な気分にならなかった。

人の意見を知らないうちに自分の基準でジャッジしていた

なぜいつも母のネガティブ発言に嫌な気持ちになっていたかというと、私が母の発言を私の基準でジャッジしているからだ。

しかし、この時は「あ、そう思うのかー」と、ただただ「天気予報外れてばっかりで嫌だね」という母の発言を「こういう意見なんだ」と認めることができた。

ジャッジせず、ただただ相手の発言を認める。

認めるとは、納得できるかどうかではなく、ただただ「この人はそう思うのか」と認めることなのかもしれない。

今更だけど、私は自分が納得できる意見しか認められていなかった。

人の意見を自分の基準で解釈して、納得できるのか納得できないかをジャッジしていた。

なので、今回のような、ただただネガティブな発言に対しては、納得できないので嫌な気分になっていたのだ。

「みんないい」=「ちがっても○」

そもそも私ごときが私の基準で人の善い悪いを判断するなんておかしなことだ。(自虐的な意味ではなく…)

「みんなちがってみんないい」とは、「みんなちがうけど、ちがってもみんな○(マル)」ということなんじゃないかなーと思ったら、この言葉が腹落ちした。

「雨予報なのに晴れた」という一つの事実に対し、母は「天気予報外れてばっかりで嫌だね」という見方をした。
私は「晴れてラッキー」という見方をした。

どちらが良い悪いじゃなくて、「みんなちがってみんないい」

ただ、私は「晴れてラッキー」という見方が好きだから、自分の好きな自分でいられる物事の捉え方をしていきたいと思った。


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