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【発明家Ricky】人類にとってのコミュニケーションの必要性 - スマートマスクを通じて。

発明家 Ricky こと滝本力斗です。今回は現在開発しているプロダクト、スマートマスクのコンセプトでもある「コミュニケーション」について掘り下げたいと思います!近況報告としてはTSGの二次審査に挑戦中です!応援のほどよろしくお願いいたします。

スマートマスクがどのようなものかは上の記事で詳しく説明されておりますので、ぜひご覧になってください。

1. コミュニケーションとは「共有化」である

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コミュニケーションとはなんでしょう?身近でコミュニケーションと呼ばれる場面を想起し、その抽象度を上げると私はコミュニケーションとは「自分(話者)とは異なるモノとコトを伝え合い共有し合うこと」であると考えています。

モノとして表したのはそれが単なる人だけに限らないからです。ペットだったり、お人形さんだったりしばしば人間は人間以外とのコミュニケーションをとっています。他にも自分自身との対話も考えられるでしょう。しかもモノと定義することによってコミュニケーション対象が拡張できることも特徴です。宇宙人が来たとしても、地球や森などの生命ともコミュニケーションがとれるのかもしれません。

また伝えあう内容をコトと表現したのも同じように拡張できることに期待しております。ですが多くの場合は2つの指示対象、①知覚対象(ex. りんご)②観念対象(ex. 正義)で表すことができると考えられています。もちろんその2つを超えた存在を否定しているわけではありません。

この定義からわかるように、自分とモノがコトを伝え合い、そのコトを一致させていくこと、つまり共有していくことがコミュニケーションに他ならないのです。ではコトを伝え共有していくにはどうしたら良いのでしょうか?

コミュニケーションを可能とするモノは基本的に運動器官と感覚器官を所有します。自分の運動器官を用いて相手の感覚器官を刺激しコトを伝えるというのが伝え方の基本になります。そして刺激された感覚器官は中枢神経を通り、また運動器官へとフィードバックされ同じプロセスが行われます。このサイクルを経て、共有化を果たしていくのです。

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この運動と感覚にはいくつかの対応関係を見ることができます。話すと聞く、書くと読む、動くと見る、触ると感じるなどなど運動によって生み出されたコトが感覚へと伝わるのです。このコトの形態をメディア(媒体)と言い、そのコトにメッセージが込められた具体的なものをコトバと定義します。つまりコトバとは「あるコトに意味づけを行なったもの」です。例えばこういう動作にこういう意味があるというのが相手に伝わるのであれば、そこでやり取りされたものはコトバに他ならないのです。

意味とはコトバに結ばれた概念(メッセージ、思い)のことです。そう考えると身の回りのこともよく見えてきます。コトバのメディアには簡単に言語と非言語の二種類があります。言語とは特定の記号や音声に形式的に意味づけを行なったものです。この時、声で行うコミュニケーションを会話と呼びます。非言語とは言語以外のコトバとなります。つまり言語だけでは伝わらないようなことを非言語で表すことにするのです。表情や声音、手振り、目などは非言語の例となります。

コミュニケーションの内容がわかったところで、最後にコミュニケーションのきっかけ、つまりなぜ起きるのかについて分析します。コミュニケーションの発端は3つの原理からなると私は考えます。

①共有原理
共有したいという願望がある。
②感情原理
感情は常に伴う。感情とは合理的直感。伝える前に先行する。
③目的原理
相手の行動を促す目的がある。

これらの3つの原理がコミュニケーションの発端になります。簡単に説明しますと、②感情原理というものがいつでも働くのです。そうなると、①共有原理により我々は今の状態を伝えたくなります。その時に必ず③目的原理によって目的が生まれます。例えば相手に共感されて安心・満足したいなど、相手にものをとってほしいなど、必要なサービスを提供してほしいなど様々なことが考えられます。このようにして我々は3つの原理によってコミュニケーションが自発的に行われているのです。

コミュニケーションのプロセスを表した図が下記のものになります。

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以上が「コミュニケーションとは?」に対する私の考えです。考えと表したようにこれは自説です。コミュニケーション学やメディア論は歴史的にも重要な影響力があり、著名な人物(シャノンやマルクハーンなど)がその学問に貢献しております。今回、私はそのような固まった学問に臨む前に自分なりにコミュニケーション論を構築・展開しました。私なりの考えが完成した時、改めて既存の学問と照らし合わせながらコミュニケーションの本質に迫りたいと思います。

2. コミュニケーションが人間たらしめる。 - 第二次世界大戦以降の哲学、パンデミックと社会システム。

ではなぜコミュニケーションにここまでこだわるのでしょうか?それは私の感じた共同体と個人の相容れない状況に起因します。

それを語る上で重要なのが、Covid-19 に他なりません。合理的・効率的な社会システムはパンデミックに対応できず、道徳・倫理的問題をあらわにしたと私は考えます。それを現すのが、私がスマートマスクを開発した動機にもなった祖父との別れです。

私は入院している状態の祖父を励ます機会もなくお別れとなってしまいました。これは社会における効率的・合理的なシステム、つまり感染対策の徹底を規制・管理によって円滑化しようとした結果の悲劇だと私は捉えます。同様の例は同じくあるはずです。死期が近づく人とのお別れもそうですが、新学期が始まるにも関わらず同期の人と会うことができない状態、孤独な気持ちを緩和すべくクラスターを発生させる状態、律儀に決まりを守りあえなく倒産してしまう状態、そして鬱になり自ら命を絶ってしまう状態。

これらのことから言えるのは道徳・倫理的な問題が軽視されている現状です。道徳・倫理と言えば複雑ですが、簡単にいえば個人の自由だったり民主主義的な話だったり、資本による格差だったり大きな社会問題が姿として見えてきたと言い換えられるとも思います。この悲観的な状況を回避すべく、今求められているのは共同体(コミュニティ)における他者との支え合い、つまり思いやりではないでしょうか。その具体的な形がコミュニケーションです。ではコミュニケーションはそんなに重要なのでしょうか?

ハンナ・アーレント

哲学者ハンナ・アーレントをご存知の方も多いと思います。ナチス・ドイツにおけるユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ、アイヒマンの裁判を傍聴しそのあまりにも普通な風貌から「悪とは無批判にシステムを受け入れること」と考えました。その流れから思考停止の恐ろしさを説き、全体主義に陥らないために考えることの重要性を説き続けました。

ユルゲン・ハーバーマス

そしてその系譜を継いだともいえる哲学者ユルゲン・ハーバーマスも国家やメディアなどの大きな力を持つものによって再封建化が進んでいるのではと考え、市民が自由に討論することができる公共圏に構造の転換があったことを指摘しました。その上で理想的な公共圏を取り戻すべく、人が言語を通じて相互に了承するコミュニケーション的行為の重要性を説きました

これらからわかるように、人が人間性をもって個人たる所以がコミュニケーションの現場にはあります。誰かを気遣い、誰かと幸せを共有する。その営み自体が考えるということにもなりますし、相手を思いやるともいうことができます。つまりコミュニケーションなしに人の思いやりは届かないのです。

SNSなどで良いではないかと思う方もいるかもしれませんが、人肌恋しい経験をされた方々がいることを上記で示しました。しかもSNSにはエコーチェンバーという特性を持っていたり、いいねの数による評価社会が形成されつつあります。このような背景から倫理資本主義が求められたり、台湾ではディジタル民主主義が形成されてきたわけです。社会の大枠を考えるにしても、まずは小さなコミュニティでいかに思いやりを養成できるかです。それがスマートマスクの提供するサービスにもなると考えます。

3. コトバのメディア - 世界哲学者と人間拡張。

思いやりの前に、コミュニケーションとスマートマスクの関係を簡単に解説したいと思います。私はスマートマスク Circuvisor を口のオルタナティブになると考えています。それをより抽象的に表したのが「コトバのメディア」です。

井筒俊彦

言語哲学者の井筒俊彦は言語における言葉を含めつつ、言語では表現できない超越的なものとして「コトバ」という表現を言葉と使い分けていました。私はこのコトバがスマートマスクの切り開く未来に大きく貢献するのではと考えております。

前述したように、コトバにも言語的であったり非言語的であったりするものがあります。そしてコミュニケーションは単純な情報のやりとり以上のものがそこにあり、それを3つの原理で示しました。これらからわかるように、言語という創造物以上に我々はコトバという超越的なものをやりとりしているのではという話です。これは科学的な検証に走るものではなく、我々が遠隔による言葉のやりとりだけでなく生のライブや対面でのコミュニケーションを求める理由でもあると私は考えます。だからこそ、私はあえてコトバを使います。

また井筒俊彦は世界的哲学を構築しようとした背景があります。哲学は西洋における系譜が強く反映されていますが、井筒は東洋思想を体系的に組み立てることで東洋哲学を構築し、西洋哲学との合流を図って世界的哲学を構築しようとしました。その狙いは世界平和なのです。イスラーム学者としてもあまりにも有名な彼ですが、コーランの前に人々が平和であることから着想し、世界的哲学の前に人々の平和を実現しようとしました。

私が生み出すスマートマスクは異文化理解の促進に他なりません。コミュニケーションはそういった価値の違いに気づくことに意義あると思います。もしそこに哲学が道徳が倫理が発生するのだとしたら、そう考えながら世界平和のためのデバイスを開発していきたいと思います。

マーシャル・マクルーハン

もう一つのメディアにも重要な考えが含まれています。文明批評家のマーシャル・マクルーハンのメディアの考え方です。メディアとは媒体です。つまり手段とか媒介物とかが当たります。そういう観点で見れば、確かに内容を伝えるための媒体であるスマートマスクはメディアとも言うことができます。ただマクルーハンの重要な理論はそこで終わりません。

ピックアップすると、まずメディアはメッセージなのです。つまりそこにある内容が本質的なものなのではなく、メディアそれ自体がメッセージとなり得るのです。スマートマスクもある意味、その立ち位置に合致します。そしてもう一つが人間拡張の原理を有すると言うことです。私はこれも非常に重要だと感じました。確かに口の代替とは言いつつも、操作は既存の口に他なりません。スマートマスクは口の拡張、つまりメディアとも言えるのです。そのような観点からメディアとしての見方は非常に有意義だと感じ、研究しております。

「コトバのメディア」が進む先はどこなのでしょうか。それ自体にメッセージがあるのだとしたら、私は思いやりの養成に他ならないと思います。次項で思いやりが何かを考えます。

4. 思いやり - 礼と仁。論語と孔子の考え。

ここまで思いやりという言葉を何度も使ってきましたが、思いやりとはなんでしょうか。私はそれを「相手の立場で考えようとする姿勢」と定義しています。あくまで姿勢なのです。相手の気持ちを理解するとか、ロールズのような原初状態とかそういう哲学の話ではなく、意識的にすることに他なりません。この姿勢なくしてコミュニケーションは成立しないのです。外国人にひたすら日本語を話しても仕方がないです。手ぶり身振り、相手をわかろうとすること、これが思いやりなのです。

ではなぜ思いやりの養成がスマートマスクからできるのでしょうか。そこに私は孔子の「論語」を参考にしたいと思います。

孔子

孔子の基本的な考えは「礼」と「仁」です。礼によって仁を養う、自己修養の考えです。礼というのは端的にいうと、日常生活の様々な場面であります。仕事や挨拶、食事など生活における場面のことを表します。では仁とはなんでしょう?仁それ自体は明文化されていませんが、解釈としては「相手を愛すること」だとされています。つまり日常生活における場面場面を大事にして、相手を愛す気持ちを養うということです。そして「克己復礼」、修養した仁を礼として実践することの重要性を説きました。

ここにコミュニケーションと思いやりの形を私は見出しました。思いやりを仁とするなら、コミュニケーションは礼であります。礼によって仁を習得し、仁を実践し礼とせよ。このサイクルは意識的でなくても起きうる普遍の原理だと思います。コミュニケーションを考える重要性を2章で述べましたが、ここにも共通性が見えるのです。つまり大きな機会を生み出すのではなく、日常的なコミュニケーションの機会をいかに重要と感じられるか。それがスマートマスクの使命であり、それによって人類の思いやりの力を養成しよう思うわけです。その延長戦には道徳・倫理的な問題を善き人間として解決する力があることを私は信じています。

5. コミュニケーション x Tech が切り開く未来。

社会とは不思議だなと常々思います。人は人を信用していないのにも関わらず、信用しないというところからです。今隣の人が刺してこない保証がどこにあるんでしょうか。もちろん国家という枠組みでの合理性を考えればそうかもしれませんが、国家さえも通じないテロリズムを私たちはあるものとして信用してしまうのでしょうか。

これは壮大なように聞こえて、日常にも存在します。高齢者の孤独死や学生・社会人の自殺はまさしくそうです。コミュニティのつながりが希薄化してきたことは個人として自由でもありますが、人間はどこまでいってもコミュニティに所属し続けます。

しばしば相反する個人と社会のあり方ですが、個人とコミュニティであれば協働することは可能だと私は考えます。信頼し楽しめるコミュニティ、それは個人としての思いやりの相互関係により築けると思うのです。それをテクノロジーの力を借りて行うことは、インターネットによってグローバル化が進んだことと同じように実現可能だと思います。私はスマートマスクによって異文化理解を促進させたいのです。

荀子

荀子は性悪説から人為(人の手が加わっていること)の重要性を説きました。善悪の問題は別にして、少なくとも人為が悪いと言えることはないと思います。むしろ世界がより良くなっていることはデータで明らかです。これから求められていることは、再度の悲観的世界に結びつけることなく平和な世界を目指し続けることでしょう。それはスマートマスクのコミュニケーションによって始まると信じてます。

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