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【講演記録】第3回「10日間で作文を上手にする方法」(Part2:講座の要約)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト

講座の要約

第1回の概要

 ふり返れば、2018年6月におこなった第1回は、「言葉の踊り場」と題して、日本語による近現代詩の技術表現史を扱いました。鈴木一平が中心となって、萩原朔太郎や北川冬彦、春山行夫、北園克衛、北原白秋、萩原恭次郎、富岡多恵子、安東次男、田村隆一らの作品や詩論を分析しました。
 西欧詩の形式の輸入として始まった『新体詩抄』(1882)以降、明治の詩人が七五調を頭に置きつつ、「内面」「リズム」と呼んだものは何だったか。その問いを再解釈した大正の詩人がなぜ「純粋なポエジー」「見たままの詩」を目指したか。昭和前期の詩人が「言葉のオブジェ化」や「平面のレイアウト」をどう推し進めたか。戦後の詩人が、行単位の情報量や話者の位置、紙面全体の時間の流れを、いかに細かく気づかい、調製しているか。詩が詩であるために、いかにして「言葉」以外の要素が必要とされたか。その典型的な技術のひとつである「改行」に着目した議論を行いました。


第2回の概要

 第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」は、認知言語学や、時枝誠記・吉本隆明をはじめとする論者らの議論を参照しつつ、視覚詩や俳句・短歌・詩の具体例を検討し、言語表現をめぐる思考と技術の新たな体系化を目指しました。
 議論を主導した山本浩貴の立論では、読み手/書き手が紙面に並べられた文字と向き合うとき、そこには語ごとに相容れない主観性(Subjectivity)が――読み手/書き手がその語から何らかの素材(Material)を抽出し、その語の把捉者の「私」(Personality)を演算しようとするモチベーションが――生じます。
 この動きは、例えばその語が帯びる音数律、配列、順序、頻度、構文法といった、非-言語のフレーム群によって拘束され、多重化されます。物性(Objectivity)と総称されるこのフレーム群は、語が文節に、文節が行に、行が文にと生成されるなかで、紙面にいくつものモチベーションが生成し、膨張し、混淆され、縮減される環境(Environment)として機能します。

 このとき、紙面に展開される「レイアウト」とは、有限の語群に潜在する無数のフレームとモチベーションが交錯する「時空間」の、「圧縮/展開」を起動する「装置」だと見なせるでしょう。その語群を操作する読み手/書き手は、「圧縮/展開」の崩れやもつれ、狂い、外れ、空白によって顕現される事物(Object)と、その「時空間」を抱え込む私(Subject)の所在を観測するでしょう。すなわち、「読み/書くこと」とは――もしくは〈作者〉になるとは――、そのように異種の/複数の/相容れない私(Subject)が行き交う場で、その設計と参与を自身の身体に痛感させることであり、であれば「言語表現を酷使する」ことは、「死なないための家づくり」にほぼ等しい。


第3回の概要

 だとしたら、どうすれば「その上手な方法」を身に着けられるのか? 自然言語処理が膨大な〈作者〉を大量に抽出、変換、移転できるようになり、パーソナルデータの越境取引が国際通商上の冷たい戦争を引き起こし、「読み書きのリテラシー」は「個人」が貧困から脱け出す「技能」だと見なされる世相にあって、動画データと音声認識と物体検出が物理空間を絶え間なく「テキスト」に変換し、配信し、保存する社会で暮らす僕たちは、どんな「部屋」に住み、どんな「じぶん」を作り上げ、誰の「死後」に向けて、何を「教える」ことができるだろうか。
 第3回「10日で文章を上手にスル方法」は、ご来場の方々からたくさんの「声」をいただきながら、みんなで「その方法について考える方法」を話し合いました。「リテラシー」という語が5通りの意味で語られ、「言葉が通じないひと」のことが、ちょっとだけ物議を醸しました。


(関連URLはこちら。第4回連続講座@SCOOLの申込ページに飛びます。)


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第3回目の講座は、2019年2月2日(土)に三鷹の上演スペースSCOOLで行われました。講座の要約、上演用テキスト、書き起こされた対話、ス…

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