今日も世界のどこかで誰かが四六時中「テキストする」危険性について:第3回「10日間で作文を上手にする方法」(Part8-5)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト

・テキストをデータ解析(語の関係性の強弱)や、図示(空間的な表現{等高線的な表現とか、時系列とか}にして、発見できた印象的な事例があった
ら教えてください。
・スマホのフリックで書く時と、PCのキーボードで文章を書く時に、感覚が変わったりしませんか。スマホ横書きだと文章の意識が変わる気がします。(かに座)

日常動作としての「テキスト」

「テキストする(texting)」は家庭用コンピュータの普及で新しい語義を与えられた動詞です。時と場合を問わず、画面に向かって文字を入力すること。話し言葉みたいな雑さと速さで使い捨てられる書き言葉。声にならないメッセージの送信。雄弁な沈黙。

日本語に「ながら○○」という造語があるように、「歩きスマホ(texting while  walking)」「雑談中のスマホ(texting while talking)」「運転中のスマホ(texting while driving)」は、マナー違反や危険行為、品位を疑われるふるまいだとされていて、それは何より「テキストする」が、「料理する」ぐらいに日常にありふれた言葉になったことの証でもあります。

端末がちがえば操作感が変わる。そのちがいを言葉にしにくいとしても、その変化は疑いづらいでしょう。画面の大きさ、読字方向、キーボードの間隔、文字の表示サイズ、入力速度、使える文字の選択肢。

何もかもが、それぞれちがいますね。「頭のなかに浮かぶ言葉」と「指で打ち込む文字列」の隔たりが少ないひとほど、ちょっとした差がものすごい断絶みたいに感じられる。そう考えるのは自然なことです。

ゆさぶりをかける道具はたくさんあります。親指シフト、予測入力、辞書登録、ショートカット、外部フォント、自動校正、マークダウン、絵文字、スタンプ、音声認識。

この意味で、入力と表示の一切を司る「画面」とは、UXデザインの魅せ場であり、企業努力の主戦場であり、書き手の「気分」が微細にゆさぶられるデリケートゾーンでもある。


「批評」から「分析」へ

では、そんな「画面」を通した「読み方」はどう変わるのか。その答えは、読書をめぐる思考について浩瀚な大著をものすより、週末にちょっと調べてみたほうが、手軽で確かな、しかもじぶんだけの知識が得られるでしょう。

じぶんの書いたテキストを丸ごとダウンロードできるサービスはかなりありふれています。Twitterのデータポータビリティ機能やGoogle Takeout、LINEのチャットログバックアップ。身近な無料のサービスを使うだけで、分析用データセットが簡単に作れるのです。

そのデータセットをお好みのテキストマイニングツールに放り込んで、形態素解析にかけて、品詞の出現率を調べてみましょう。句読点の出現頻度を比べてみましょう。名詞の漢字・かな・カナ比率を測定してみましょう。レアリティの高い代名詞を、中位水準に決まって現れる動詞を検出してみましょう。係り受けや構文のパターンを導き出しましょう。

すると何が分かるか。

書き方の「癖」が分かる? そう簡単にはいかないかもしれません。端末によって、用いるサービスによって、画面サイズによって、「テキストする」ときの「気分」がちょっとずつ変わるとしたら、何のちがいが、どれだけじぶんに「見えない力」を与えているか、すぐには判別できないでしょう。

「スマホで横書き」するときと、「A6サイズのメモ帳に雑記」するときと、「ポストイットに走り書き」するとき。似た大きさの「画面」に書き込むのだとしても、文具メーカーの基礎研究の題材になるくらい、たくさんの変数に差が生じてくる。

それらの実験環境の差をコントロールして、被験者ごとの印象のばらつきを乗り越えたうえでも、明らかな差が出たとしたら? 

それは個人の独自の特異さではなくて、あなたは本当に「ツールに書かされている」のかもしれない。iPhoneに、Microsoft Wordに、Gmailに、Facebookに、Yahoo!ニュースのコメント欄に、WorkFlowyに。

事実を知るには労力がかかり、その労を惜しむ限りは、思いつきとレトリックを武器にした言い争いを延々と繰り広げるほかないのでしょう。しかしそのようにして、何と何の組み合わせが、「書き方/読み方」の体験を総合的に形づくるのかを細かく検証できる。

読み終えるのに何日もかかるくらい大量の文字数でも、何千人ものひとが書いた雑多なテキストの集合体でも。端末で読み・書くことが当たり前になった時代の、これだけはどうやら進歩なのでしょう。

偉人の評定が市場価値を持たなくなったとは思いませんが、言いっぱなしの放言に耳を傾けるひとはやがて減っていき、きちんとした実験計画、データ準備、分析手法の適用を経たあとに、鋭い深い考察の出番がやってくる。そんな将来への期待だけは捨てずにいられそうな気がする。

「商業化」というと、表現スタイルを大衆化する「安易さ」が注目されがちですけど、生産工程が標準化され、組織化できることの「簡便さ」にも目を向けたいもの。「書くこと」の世界でも、地味で無名の改善と、伝説的なスキャンダルを何度もくり返すにつれ、「書き手」の「役割」と「工程」は変わっていくはずだし、いつまでも何も変われないのなら、いずれ社会に取り残されるのかもしれない。


「確かな感じ」を科学する

歓迎するかは人それぞれだとしても、気軽に「テキスト」の素質を知るにはうってつけの時代になりました。クリックひとつで性格診断ができ、人物像を推測でき、広告効果を試算できる――精度を気にしなければ。これは世界を小さく、狭く、詳しく見たときの話。

他方で、より大きく、広く、ざっくり見ると、媒体の差がぼくたちの読字体験に致命的な隔たりを生み出したとはどうも考えづらい。(紙面を含む)端末(デバイス)を使った「表示法」よりも、身体(フィジカル)を使った「読書法」を新しくするほうが、基本的な読み書き能力(リテラシー)を高める「教育」を広めたほうが、「読む」行為にはっきりした効果をもたらすんじゃないか。それがぼくの(未検証の)実感です。

「入れ物」を変えれば「中身」がまるで見違える。それはいくらか事実でしょうけど、数十年単位で起きる「文体のモード」の変質と比べて、デバイスの手ざわりは――石か、竹か、紙か、端末か――、画面のこだわりは――組版は、装幀は、造本は――、繊細な印象を決定づけるじつに重要な要素であるだけに、読字体験の全体に占めるシェアはどうしても低くなる。

読み手が没頭すればするほど、古語/新語の知識を仕入れるほど、その文字列がこの世に生み出し、留める意味は、叙景は、情報は、時間や空間のずれをものともせず、危ういほどの「確かな感じ」をぼくたちに伝えてくれる。

その変化が、ぼくたちに伝わる「確かな感じ」にどう影響するのか。無数にありうるパラメータのうち、何が、どれだけ「読み心地」に貢献するのか。その成分分析を試みることは、「読み書き」の認知と作用のプロセスを機械学習アルゴリズムに再現するのと同じくらい、スリリングな研究領域になるはずです。

先行研究は山ほどあって紹介しきれませんが、我田引水を許してもらえるなら、吉田恭大『光と私語』は、ひとつの参考になるだろうと思います(と、言いたいがために10万字くらい書いたのでした)。


「潜水艦」で知の考古学

書かれた文字の歴史語りに欠かせない要素技術の考案と普及にともなって、「文体のモード」は大きく変わりました。音数律の発見、敬体の誕生、かな・カナの発明、仮名づかりの規範化、和漢混交文の登場、句読点と改行の普及、ふりがなの出現、話し言葉の取り入れ、英数字の混ぜ込み、写真・動画の添付、絵文字・イラストの挿入。

ぼくがいつか試してみたいのは、1000年単位で起きたこれらの変遷を、「文体のモード」の差異を超えて、たったひとつの冴えた指標ですっきりと分析することです。

今日も世界のどこかで誰かが四六時中「テキストする」危険性について語り合っています。その主張には道理があるし、怠惰を戒めるような快さがある。

だれのどの言葉を信じようと人の勝手ですけど、それらしく聞こえる、ちょっと気取った言葉づかいの、なんだか信用できそうな、美しく心地よいレトリックを駆使すること。それなら僕にもすぐできます。だれでも多少の努力を積めば、さほど苦労せずにできるようになる。

でも、それは「戯言」の域を出ない。少しでも真実であることを、あまりにも端からあきらめている。そう痛感する悔しさを忘れずにいたいのです。世間体という地獄の炎に焼かれて、傲岸不遜の怪物として、不機嫌を持て余して生きるのはいやだから。(文:笠井康平)


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