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「バランスのとれた標準体型」みたいな文章を目指したい?:第3回「10日間で作文を上手にする方法」(Part8-4)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使するためのレイアウト

分析・描写と試考のバランス(29 years old.)

連続講座の第3回では、会場のみなさんにポストイットを1枚配って、ふだん文章を読み・書きするときに悩んでいること、考えていることを自由に書いてもらいました。

外出先で椅子に座らされて、机なしで文字を手書きすると、思いのほか肘や肩に負荷がかかるもので、そのちょっとした変化が文体に緊張を与える気がする。たいてい消せない筆記具を使うからかもしれないけど。書き損じのプレッシャーが、文字入力より増えて。じっくり考えて書くには、少し酷な環境だったかもしれないと反省しています。


「標準体型」を気にしない度胸

そのことを受け止めつつ、いまの僕にできるもっとも積極的な助言はこうです。気にしないで

「話すように書く」だけで文章が仕上がる能力者ならともかく、たいていの場合は「書かないとまとまらないこと」を「書いてみる」ために「書く」のだから、全体の「バランス」がいまいちで、「あとで書きなおす工程」が生じるのは、もう仕方のないことです。

それに、理想のプロポーションはそのひとが持って生まれた骨格と肉づきで決まるわけで、大量の文例のパターン解析から「標準的なバランス」が導き出せたとしても、無理やりじぶんに合わない体型に近づこうとしないほうがいい。描写だらけでもいいし、分析しすぎでもいいし、思考が止まらないのもひとつの魅力的な「書き方」です。

「それでは多くのひとに当たり前に読まれない」とお思いの方もいるでしょうけど、「多くのひとに当たり前に読まれるスタイル」なんて、「学校指定の制服」とか「会議で悪目立ちしないための背広とネクタイ」とか「企業文化に強いられたハイヒール」みたいに、ひとつの「様式化されたドレスコード」に過ぎないですよ。

「バランス」という語の後ろに隠れた「標準」を志す向きには要注意です。その意義を見出すなら、それは「バラバラの考えを持ったみんなが目線を合わせる」ことにあって、「たったひとつの決まりにみんなを従わせる」ことではない。そう思えるくらいの余裕と度胸を持ちたいものです。


じぶんに合わないフォームに縛られない

「型」を知っておくと便利だし、「お作法」に通じたほうが恥をかかない。「定番」が分かれば「あえて」外せるし、「標準」を体得できれば「バランス」に迷わない。もちろんその通り。その通りなんです。

だけど、あらゆるひとが文章表現史を受け継ぐために書くわけじゃないのだし。由来がなんであれ、じぶんでもよく知らないうちになんとなく定められた「ちょうどよさ」に従い、守り、則ることが何をもたらすのか。その姿勢は市場の安全に、共同体の平和に、慣習の持続に、伝統の保守に貢献することでもある。

高度に体系化された「決まり」のディフェンスとメンテナンスに打ち込むことが、何よりたのしいマネージャ気質の性格ならさておき、だれに頼まれてもいないのに、「きちんとしてない」ことを気に病んでもつらいだけ。あまりに無作法だと心の健康を保ちづらいですけど、他人に強いるなんてもってのほかです。

くどくどと言いましたけど、ここで僕が話すことは、模範でも正解でも最適でもありません。そのつもりでよく注意して、くれぐれも、しつこく疑うように聞いてください。


「犬」が「犬」であること

分析、描写、思考のバランスをどう調節すればいいか。この問いに答えるには、まず、文章表現を解説するときの、ありきたりな「言葉の区別」の考えを、頭から離さないといけません。

分析とは何か、描写とは何か、思考とは何か。「〇〇とは▲▲である」に任意の名詞を代入すると分かります。冗談ですけど、「分析とは犬であり、描写とは猫であり、思考とは猿である」――と書いて、読んでみましょう。

すると、「犬」「猫」「猿」に読み手が抱く思い出とイメージが入力されて、「たしかに犬はXXXなところがあるし、分析のYYYなところにも通じるところがあるな」とか思い浮かべちゃいますね。もっと強い言葉で例示しましょうか。「分析とは与党であり、描写とは野党であり、思考とは第三勢力である」――と書くと、どうでしょう。「分析とは描写であり、描写とは思考であり、思考とは分析である」――と書くと? 「分析とは記述であり、描写とは記述であり、思考とは記述である」――とも書けますね。しかもこれらの語の「結びつき」は、そのひとが暮らす文化圏によって大ちがいでしょう?


じぶんを測る「ものさし」は自前がいい

文章の性質をずばりと言い当てたっぽい命題は、その命題に使われる語義のぶれがひとによって差があるから、話し相手との間で安定した「納得感」を形づくるのはむずかしく、ともすれば論争のための論争に陥りがちです。もちろん座興と歓談の素材にはなります。即興芝居だと割り切ればたのしめるでしょう。だけど緻密な気づきを促すのには向きません。

説明が長いとか、会話だらけだとか、感想と事実が切り分けられていないとか、テキストのレビューで決まり文句のようによく言われる紋切型はあって、昔もいまもはびこっています。

知ったような顔で口にされる割りに、そのくせ読み手の所感をざっくり述べるに留まる言いがかり。やたらと深刻に真に受けるのではなくて、にわか仕込みの知識をひけらかしたいのだな、くらいに優しく受け止めてあげたい。

そのうえで、何を言われたかは文字通りに覚えておいて、「うち」に戻ってから、「じぶん」で書いた文章がどんな言葉の組み合わせで成り立っているかを点検してみる。それくらいの付き合い方のほうがストレスを抱えずに済むのでしょう。


文体選択のトリレンマ仮説

ひとつの可能性として、質問者は、「分析、描写、思考がひとつのトリレンマを形成すると考えていた」と想像してみます。

きっとそのとき、a.分析、b.描写、c.思考は、3つの円みたいに互いに重なり合っていた。分析的な描写(a  & b)、描写的な思考(b & c)、思考的な分析(c & a)もあれば、極めて分析的な分析(just a)、描写的な描写(just b)、思考的な思考(just c)もあった。

それぞれどういった文章の性質を指すかはさておき、「トリレンマ」なのだとすると、分析的、描写的、思考的の3つを同時に満たす記述はむずかしい。裏を返せば、分析的でも描写的でも思考的でもない記述も成り立ちづらい。どれかふたつを強調すると、残るひとつができなくなる。

だから分量のコントロールを意識しなくちゃいけなくて、となると一文ごとの性質よりも、それらを組み合わせたトータルのバランスこそが気がかりになる。モード選択をしないと、ゲームが先に進まない。さて、どうするか。


じっさいに試してみましょう

原義を辿ろうにも憶測の域を出られませんから、じっさいの文章を例に考えてみます。ただ、他人が書いた文章をその題材にするのは気が引けます。ためらいなく添削できる、じぶんのテキストから引用してみます。

ここで大事なのは、それぞれの語が「何を意味しうるか」よりも、「あらゆる文章はこの3種類に分けられる(または、どれにも当てはまらない)」と考えたとき、どのような効果が生じるかです。だから、前もって用意した「3種類の区分」に一文ずつを仕分けていくのではなく、まずはその文章の性質をよく見てみて、「区分」のちがいが明らかになるような「書き換え」を試してみます。


文例1:「考えてる風」に「動き」を取りいれる

まずはひとつめ。

現代の平均的な日本人は、文字による情報摂取を行わないとすれば、その生涯に1億8,750万枚の原稿用紙に目を通すのと同じくらいの情報量を消費でき、文字による情報摂取を行うとすれば、少なくとも200万冊くらいの情報量を消費できる。もちろん、これらの主張は、ひとが飽きたり、疲れたり、休んだりすることを考えに入れられていない。文字による認知が、視覚による認知一般と比べて、ひとの記憶に定着する確率がどれだけ高いのかも分からない。そもそも、ひとは、働いたり、食べたり、愛したりするので、その時間を文字列の消費だと見なすかどうかで、この議論がどれだけの奥行きを持つかも変わってしまう。
(出所:笠井康平『私的なものへの配慮No.3』注釈 125)

この文章には「主張、認知、議論、確率」といった無生物主語が多く、人物を主語に立てるときも「日本人、ひと」と抽象化されています。「~とすれば、もちろん、考えに入れる、比べて、分からない、そもそも、見なす」といった、論立てによく使われる言い回しも特徴的です。

そしてもうひとつ、動作を表す言葉もが多く見られて、動詞としてそのまま使われたり(通す、行う、飽き、疲れ、休み、入れ、働き、定着し、食べ、愛し、持ち、変わり)、名詞化されている(情報摂取、消費、記憶)。

試しにそれらの動詞を含む文章をそぎ落として、熟語による名詞化を避けた書き方をしてみると、

現代の平均的な日本人は、死ぬまでに何も「読む」ことがなくても、原稿用紙にして約1億8,750万枚分の情報量を扱う。「読む」が「見る」と比べて、どれだけ「忘れにくい」のかはさておき。

「動作」よりも「指摘」のトーンが前に出てきて、何かを論説する文章に似てくる。この変化がより分析的なのか、描写的なのか、思考的なのかは読み手次第だとしても、「動詞」の増減が全体の「感じ」を変えたことは明らかでしょう。


文例2:「手順の描写」に分析を挿しはさむ

もうひとつ見てみましょう。

トマト(1/2個)、なす(1/2個)、ベーコン(50g)、豆腐(半丁)をサイコロ大に切り、たっぷりのオリーブオイルで炒める。香ばしさを出したいときはベーコンから入れ、軽く焦がすくらいまで火を通す。なすは、オリーブオイルがたっぷり使えるなら、揚げ焼きにすると中まで味がしみ込む。豆腐はよく水を切ること。そのためだけにキッチンペーパーを買うかは、その日の気分に任せたい。炒める前に、小麦粉(薄力粉)を薄くまぶしてもよい。豆腐ステーキのようになって、食感がおもしろくなる。トマトは最後に入れること。熱すると、くずれやすいため。いやなら、他の具材に火が通ったあと、弱火から中火にして、混ぜ合わせるくらいでいい。また、酸味・甘みの強弱によって、お好みで分量を変えること。
(出所:笠井康平『私的なものへの配慮No.3』注釈 499)

食べものの名前(トマト、なす、ベーコン、豆腐、オリーブオイル、小麦粉(薄力粉)、ステーキ)が頻出しています。調理動作を表す動詞がほぼ一文ごとに使われていて、(切る、炒める、出す、焦がす、通す、揚げる、焼く、しみ込む、買う、まぶす、入れる熱する、崩れる、混ぜ合わせる)、さじ加減を示す語もたっぷりです(サイコロ大、たっぷり、軽く、よく、強弱)。

味の表現はむしろ少なくて(香ばしさ、おもしろさ、酸味、甘み)、文末はしばしば指図や要望で終わるわりに(~くらい、~たい、~てもよい、~すること)、登場人物が主語に立たないので、行為者の姿がぼんやりしています。この文章から食べものの名前と、調理動作をなくして見ると、こんな風に変わります。

具材はサイコロ大で、オリーブオイルはたっぷりがいい。軽く焦がすくらいの香ばしさで、中まで味がしみ込んで。食感はおもしろくしたいけど、くずれやすいのはいやだな。酸味・甘みの強弱は、その日の好みで。

口うるさい喫食者の顔が表に出てきました。イタリア料理が食べたいのでしょう。「白身魚とズッキーニのオリーブオイル焼き」なんてよさそうです。下味はほどほどにして、ソースはあと漬けにし、少しずつ選べるようだと喜ぶかもしれない。


実践の結果から分かること

ふたつの文例とその書き換えから見えてくるのは、「分析、描写、思考」といったなんらかの「区分」を考えるとき、その「仕切り方」を決めるには、文章の細部まで立ち入って、そこで何が起きているかをよく観察したほうが無難だということです。

それに、「観察」から得た何らかの規則性を種として、じぶんなりの「仕切り方」を考え出すときには、「分けるひと」が「どうしたいか」によって、大きく結果が変わって来る。よほど注意深くないと、「ちょうどいいバランス」を目指したいときには、本人でも気づかないうちに「理想のじぶん」が投影されがちなのでしょう。

その気持ちの裏返しで、「いま、書いているもの」が「理想に近づいていない」と思えてきて、「もっといいバランス」がないかと悩んでしまう。じぶんでじぶんの文章を書き換えてみて痛烈に感じるのは、ある時点で「ベストのバランス」だと思えても、しばらくすると「なんだかおかしい」気がしてくるし、「こう直したほうがいい」という判断には、きっと不朽の根拠みたいなものはなくて、「周りの様子」や「切り出したときの見え方」によって、いくらでも簡単に変わって行く。これはもうどうしようもないことなのかもしれません。人類が時間の不可逆性を乗り越えられないように。


その「悩み」をいつ考えるか

文字入力に使われる主要なデバイスがまだ原稿用紙だったころ――と書くときの、「原」「稿」「用」の3文字に省略された執筆と添削の作業フローは、キーボードと液晶画面の発明によって大きく効率化されました。

テキストエディタやアウトライナーといった専用ソフトウェアも洗練されて、それらの道具に慣れれば「書くこと」がすこぶる捗るようになった。だけどその分、書き慣れないままで悪戦苦闘するつらさも広がっていますね。

筆選びと手入れの苦労はあったにせよ、作文といえば手書きが主流だった時代には、オリジナル(原)なドラフト(稿)は、清書(浄書)につなげるための素材で、粗削りのままでかまわなかった。筆記に用いる文字にしたって、他人には解読できないくらいのくずし方で、勢い任せにくしゃくしゃ書いてしまえるのに。

同じことは画面にテキストを打ち込むときにも言えるはずで、書きたいものにふさわしい文体で、叙述の種類に適度なばらつきがあって、語り口はほどよく乱雑、出だしは遠すぎず近すぎず、トータルの分量もぴったりで……なんて、書いている最中は考えないほうがいいのだとは言えそうです。

まとまった文章を書くとき、細部のバランスはどうあるべきか。この問いがより切実に響くのは、編集・構成まで辿りついたあとのことで、そこでようやく書き手を悩ますものなのでしょう。「初稿をもっときちんと書けばよかった!」と。そのことを受け止めつつ、いまの僕にできるもっとも積極的な助言はこうです。気にしないで。(文:笠井康平)


食事どきの数十分を楽しく過ごせれば、別に何をしたっていいの。
(出所:笠井康平『私的なものへの配慮No.3』注釈 499)


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