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イベント「新聞家 VS いぬのせなか座」に向けて

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2018年12月28日(金)18時から三鷹SCOOLにて開催されたイベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」に向けて書かれたメモ… もっと読む
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2018年12月の記事一覧

新聞家さんとのイベントに向けたメモ① 『現代詩手帖』掲載対談についてA

(文責・山本) 2018年12月28日(金)18時から三鷹SCOOLにて開催されるイベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」に向けて、書き溜めてきたメモを少しずつ公開していきたいと思います。 おおまかな流れとしては、まず、発端となった『現代詩手帖』2018年11月号での記事、カニエ・ナハ+村社祐太朗「活躍する語のために」での村社さんの発言を整理するところからはじめます。村社さん自身の理論の整理と、こちらへの直接的な批判や詩

新聞家さんとのイベントに向けたメモ② 『現代詩手帖』掲載対談についてB

(承前)(文責・山本) ☆あなたしか見たことのない語の跳躍にはついていけない 対談相手のカニエ氏が《ここ一、二年のうちに刊行されたものに絞》って選んだ詩集は以下の十冊である。 マーサ・ナカムラ『狸の匣』 野崎有以『長崎まで』 岡本啓『絶景ノート』 暁方ミセイ『魔法の丘』 尾久守侑『国境とJK』 山田亮太『オバマ・グーグル』 萩野なつみ『遠葬』 柴田聡子『さばーく』 鈴木一平『灰と家』 河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』  村社氏による詩への批判をざっ

新聞家さんとのイベントに向けたメモ③ 『現代詩手帖』掲載対談についてC

(承前)(文責・山本) ☆空白・改行について  詩をめぐってなされる、改行や空白をめぐる村社氏の発言についても、同意しがたい箇所が残念ながら多い。第一回で引用した箇所ではあるが、再度引く。 詩人の改行、空白は、個人的すぎるというか、何に要請されて生じているのかよくわからない。私が書くものは基本的に一人語りなので、一人称の小説と文体としては似てしまう。そのときに私の書くものも説明が足りない、空白があいている、文と文の間で説明不足だと言われますが、私の空白は、語を切り詰めた結

新聞家さんとのイベントに向けたメモ④ 『現代詩手帖』掲載対談についてD

(承前)(文責・山本) ☆像、音  また、《どうやっても像を結ばない》という批判と、「音」による動員という問題についても触れておこう。  まず前者については、これもやはり詩への批判の常套句と言えるものだろう。だが、小説でも詩歌でも、像は決して絶対的なものではない。これはたとえば、言語表現における喩を「像」と「意味」の二種類に分けた吉本隆明の議論を参照せずとも明らかなことである。もちろん言語は多くの場合、像を頼りに存在を規定する。しかし、《山》が《途方もなく分厚い》ものである

新聞家さんとのイベントに向けたメモ⑤ エッセイ・ステイトメント等をめぐってA

(承前)(文責・山本)  前回までは、『現代詩手帖』に掲載された対談記事をめぐって書いてきた。ここからは、村社氏の他のエッセイやステイトメントを確認し、そこで論じられている事柄の体系化を試みたい。  村社氏がこれまで発表してきたテクストの多くは、新聞家のホームページで読むことができる。以下で論じる際にもそれぞれにリンクを貼るので、詳細については原典にあたってもらうとして、本稿ではなるべく駆け足で紹介する。  まず最初に取り上げるのは、「「演劇のデザイン」のコンセプト」とい

新聞家さんとのイベントに向けたメモ⑥ エッセイ・ステイトメント等をめぐってB

(承前)(文責・山本)  前回冒頭で触れたが、太田省吾について村社氏は、フェスティバル「これは演劇ではない」関連ペーパーでの連載「走尸行肉」において毎回取り上げている。第一回と第二回は「これは演劇ではない」ウェブサイトからPDFをダウンロードして読むことができる。第三回はまだウェブでは公開されていないが、印刷物としては多くの劇場で配布されているようだ。  その連載での議論を一通り見ておこう。  まず第一回。さっそく太田の言葉が引かれる。 《「私たちの目は、名や意味を見てし

新聞家さんとのイベントに向けたメモ⑦ 補遺(関連テクスト列挙+問いひとつ)

(承前)(文責・山本)  基本的には前回まででイベントに向けたメモは終わりだが、補遺というかたちで、関連する可能性のあるテクストを簡単に数点引いておく。  まず、藤井貞和『文法的詩学その動態』における懸詞をめぐる議論。  ここで藤井貞和は、《作者と別に、また文の論理上の主格と別に、想定される詠み手という存在が考えられる》と記している。詩歌、特に懸詞(相容れないはずの意味が同音によってひとつの表現のなかに同居させられるという技法)が用いられた歌においては、作品を構成する

イベント「新聞家 VS いぬのせなか座」後記①

(文責・山本)  イベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」、ぶじ終わりました。  ご来場いただいたみなさま、そして関わってくださったみなさま、本当にありがとうございました。  対決みたいな感じにならなかった、というのは、ぼくの望みでもありました。もちろん個々人で意見の相違などはあるべきだし、それが当日も明らかになったように思うけれども、表面的なところでプロレス的な戦いをしてもなんの意味もないと考えていたからです。  きっか