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移民としてのスーパーマン(と鉄腕アトム)―「スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン」

「スーパーマン スマッシュ・ザ・クラン」が傑作だった。
本作のテーマは「移民と差別」。「移民としてのスーパーマン」は、切り口としては邦訳アメコミでは「ヒットマン」などで描かれているが、本作ではそれが前面に押し出されている。

1946年、チャイナタウンからメトロポリスに引っ越してきた中国系アメリカ人の少女が主人公。彼らを排斥しようとするクラン(つまりはKKK)と、ヒーロー活動を始めたばかりのスーパーマンが対決する。

マイノリティである主人公家族が社会参加する難しさや思春期の子どもが抱える孤独感と、自分が異星人(=移民)であることに悩む若きスーパーマンが重ね併せて描写されているのが、とてもよい。クランが、スーパーマンを「白人の優越性の象徴」と見ているところや、中国系とアフリカ系の人種的マイノリティ同士で差別意識をもつところ、中国系の友だちがいるのに親がKKKで悩む子どもなど、差別構造の複雑さをしっかりと描いている。主人公の友だちが父親から「KKKのコスチュームを着ているときは、俺をパパではなくグランド・スコーピオンと呼べ」と言われるシーンがあり、タランティーノ版の「ジャンゴ」に出てくる情けないKKKを思い出して、不謹慎ながら笑ってしまった。


本作のスーパーマンを読んで、ぼくは鉄腕アトムを連想した。人間をはるかに超越した能力と高い倫理観をもちつつ、半分は人間・半分は非人間であるため、アイデンティティに苦悩し、それゆえに他者との融和の象徴ともなりえる存在。日本人アーティストのグリヒルさんの、マンガっぽい描線がそう思わせているのもあるだろう。

どちらのキャラも歴史が長く、設定が後付けされていたり、さまざまなテーマで作品が描かれていたりするので一概には言えないのはわかった上で書くが、スーパーマンと鉄腕アトムという、日米のマンガ・コミックのヒーローの代表が、似たような背景を持つキャラクターなのはとてもおもしろい。

夏目房之介は『手塚治虫はどこにいる』等のなかで、鉄腕アトムをはじめとする手塚作品の内容と描線を分析して、そこに「両義性」(例えばアトムであれば「人間」の心を持った「ロボット」であるということ)を見いだし、その後の日本マンガにも受け継がれていったと言っている。ただ、スーパーマンも両義性を備えていることを考えると、マンガ・コミックというジャンルや形式が本質的にそういう想像力を喚起するのかもしれない。

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