エアフォース1 その5

 天球一面に張り付いた白は、心の空模様を灰色に染めてしまう。もしそこに一点の赤が在りさえすれば、胸を覆った灰色をねずみ色と読み替えるくらいの遊び心も湧き出てくるだろうに。質素という語を象徴する、かの伝統的スタイルのお弁当ですら一粒の赤をその中心に据えているのに。などと愚痴を垂れたくなるような、あるいはそんな気力も湧かぬような曇天の下、彼女は二輪車を漕いでいる。
 
 ややもすると、明朝の出撃に備え待機している氷の兵たちが水属性へとジョブチェンジし、転職した勢いのまま我々の肌を濡らしに降りかかってくるかもしれぬ冷たく重い空気の中、なおも彼女がご機嫌で風を切り進んでいける理由は食欲、ただその一点のみにある。もちろん彼女が心に抱くのはねずみ色であり、その遊び心はちゅうちゅうと鳴き声を上げるなどしていて、上々な様子が見受けられる。
 
 彼女が目的の和食料理店に辿り着いたのは、冷気を優しく震わす彼女の鼻歌が3曲目のイントロを奏で終える頃であった。前奏が終わると同時にステンレス製のボディがさえずり、外れた音でメロディを歌い上げようとするが、彼女の白いスニーカーが両足スタンドを蹴り下ろす棘のある金属音をもって、このいびつな音楽会は閉幕と相成った。
 
 「引」と書かれた正方形のプレートが張られた大きな木製の扉を、小さな両手に力を込めて開くと、かすかに暖かい空気が流れ込んでくる。目の前に現れた障子張りの引き戸からは光、音、熱、あらゆる類のエネルギーが、その奥にある人間の営みの活気がにじみ出ている。それを開けさえすれば、凍えた指先に、飢えたおなかに温度を与えてくれる暖房器具、そして従業員のあたたかさをその身で感じられるのだ。
 
 からからと引き戸を左手で開けると、メープル色の眩い光が彼女の瞳孔を襲った。内装を形作る、鏡のように磨かれた木材たちが放つ煌めきであった。ぴかぴかに目が慣れてくると、正面には廊下が伸びているのがわかった。左右には縦6段の靴箱があり、左端からいろは順に「い」から「む」までの記号が振られている。さながら温泉宿のような見事な土間に見とれてしまいそうなものだが、彼女にはそんな様子は見られない。右側の空いている箱に脱いだものをしまい入れると、松竹錠から木札を抜き取り施錠を完了し、小さな密室を作り上げてしまったのであった。
 
 「ひとりです。」と小さな声で、右のおかあさん指を立てながら告げると、窓際のテーブル席へと案内される。彼女は窓側の方へ詰めて座った後、脱いだ上着を廊下側へそっと寝かせると、そのまま流れるような動きでもってランチメニューを手に取った。宝石みたいにきらきらのお刺身やたくさんのお皿が並ぶ定食など、あれこれ目を引く写真の群れのなか、彼女が探しているのはあつあつのおうどん、ただそれだけである。
 
 他の何にも目移りすることなくえび天の乗った鍋うどんを注文した彼女のあたまの中の舞台は、もちろんかつおだしの香るやさしい塩味への期待の独壇場である。スポットライトの当たらぬあの狭い密室に置き去りにしたスニーカーのことなど、ましてやそれに忍び寄る小さな危機など、見えようはずもないのであった。
 
 その6へ続きます。

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