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随筆(2020/8/16):「恥ずかしい」という感情と、デリカシーのある接し方、とても大事

1.うぶな、傷つきやすいところ

「恥ずかしい」という感情は、見られたくないところを見られると、こうなる。

たいていそれは、自分に属する、あまり荒波に揉まれていない「うぶなところ」である。

そういう「うぶなところ」は、しばしば、荒波に揉まれると負荷が強すぎて損傷する、「傷つきやすいところ」だ。

2.無責任裂傷殺害正当化括約筋拡張狂人

「負荷による損傷を回復で取り返して、最終的に強靭になる。

経験を得て、それを手札にして、当面の間、少ない外圧内圧で生き残る。

そのためには、経験に伴う、多少の負荷は避けられない。

長期的なメリットを重んじるなら、ここは、やっていきましょう」

という話はもちろんあるが、これにはその場その場でのやり方が欠かせないし、それぞれに適した教育がある。

これが本来得られるべき状況で

「この世界が編み出した効率を、お前らの口ではなく尻から飲み込ませてやる。そんで生き残ったやつだけ仲間にしてやろう。

それが嫌なら、効率は諦めろ。努力と損傷と回復と、そして淘汰だけをされて欲しいんですよ。

口から飲ませろ? 不当な要求をするな! 死ね!」

という無責任裂傷殺害正当化括約筋拡張狂人の言いなりになって、効率の悪い、持ち出しになる、損をする努力と、致命的な損傷と、不十分な回復だけして、当然のように淘汰されたくないじゃないですか。

引継ぎをする指導者が、無責任裂傷殺害正当化括約筋拡張狂人であっては困る。

それでは生まれつき括約筋に拡張性のある人しか生き残らない。そしてそれは生徒の手柄であって、指導者の手柄ではあり得ない。

まして、そういう状況下で誰かが生き残ったのを見て、「自分は指導者、教育者でござい」という顔をするなよな。

お前は、ただの、無責任裂傷殺害正当化括約筋拡張狂人だ。

3.現に荒波に揉まれまくることと、傷つきやすいことは、ふつうに同時に起こり得る

3.1.人間関係の場合

変な話をします。

人間関係に関する心の機能は、仲間内でも、仲間の外でも、それぞれに荒波に揉まれまくるところだ。

が、実は、かなり「傷つきやすいところ」でもあり、鍛えるのは並大抵のことではない。

***

一般に、「他人に」悪者扱いされたり無能扱いされたり二級市民扱いされたりすると、立ち位置はもちろん、精神の安定もかなり「傷つく」じゃないですか。

たいてい、それは、一方的に攻撃された「悲しさ」によるものだ。

そして、もちろん、それと同じくらい、「恥ずかしさ」によるものでもある。

自分の中のあるところを、他人に表に晒されて、見られて、「醜い」「悪い」と評価・査定される。(下手すると、「そこ」は、自覚のあるところでもあったりする)

こんなの、呑み込みたくねえー。逃げてえー。

しかし他人が下した判断は自分ではどうにもならねえー。どこ行ってもついて回る。逃げられねえー。

そういう意味で、自分に取れる選択肢が狭くなる訳だ。場合によると、自分で事態をどうにも出来ねえー。

グワーッ!

そういう「グワーッ!」とした感情は、「恥ずかしさ」の一つの形と言っても、差し支えないでしょう。

3.2.自称教育者系無責任放置ネグレクト虐待狂人

もちろん人間関係社交処世の場そのものだ。

こうすればやりやすいやり方とか、こうした方が揉めにくい作法とかある。

これを何も持たずに、徒手空拳で人間関係に放り込まれるの、かなり、キツイ。

***

たいてい、そういうのは、

「死んで覚えろ」

「復活救済措置は特に設けられていない」

「周囲が許さなければ、そいつは社会的に死んだままになる」

「が、それで何ら構わない。これはリアル人生ゲームプレイであるが、人生よりも公正な制裁の方が大事だという評価・査定になっている」

「これは、リアル人生ゲームプレイの仕様として自明視されており、実際にはある意味ルールとして通用しているやつだ」

「生き残ったやつだけが強くて偉い。ハードモード万歳!」

「分かったら受け入れろ。尻を出せ。拡張してやる」

というやつだからだ。そりゃあキツイに決まってる。

***

しかもそれは

「楽しくなりたい」

という本来のゲームプレイの動機に、何を勘違いしたか不誠実に向き合うプレイヤーの、

「劣悪で楽しくないゲームプレイこそ正当な王道」

という、硬派を称した状況判断力の怠慢によるものだ。

ダメだよ。そんなもん。

こんなことしてたら、新規プレイヤーが、リアル人生や社交や処世のゲームプレイを嫌うの、当たり前だよ。

地方ルール含めて既にたくさんルールブックがあるのに、それを盗み見しかさせない先達と、非電源系卓上ゲームとかで絶対に組みたくないじゃん。最悪なプレイ印象になっちゃうよ。それで二度と来なくなるの、あまりにも当たり前すぎるんだよなあ。

***

こういう成り行きを看過する教育者、

「無責任に放置して死なせたら、自分の手を汚さずに、死んだ後も相手を侮辱出来るし、そのようにマウントしている自分は偉い、ということに出来る。

だから、無責任に放置するに決まってんだろ」

という、認知バイアス(生存者バイアス)の塊のようなバカを、ドヤ顔で公言しているに等しい。

少なくとも人間関係においては、こういうやつは、指導者でも教育者でも何でもない。

そもそも、人間関係を教育する能力、なさそうじゃん。

こういう人のやっていること、ネグレクトという、虐待のカテゴリーに含まれる案件だとふつうに思いますよ。しかもドヤ顔でやってるんだ。最悪では?

自称教育者系無責任放置ネグレクト虐待狂人というの、しばしば教育者の中でもいるものですが、教育者を名乗らないで欲しいんですよね…

4.ある種の羞恥心の欠如と、デリカシーのなさ

4.1.ライフハックや何らかの価値観を盾に、デリカシーの無さを正当化するな

そういうことで、他人の「うぶなところ」「傷つきやすいところ」に対する手触りが、異様に雑な人。というのが、かなりいる。

所謂、「デリカシーのない人」のことだ。

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というか、意図的にデリカシーをなくしている人、これがかなりいる。

「そこを攻撃すると、弱いやつが苦しみ、何なら視界からいなくなるから、これこそ楽しい人生をやっていくライフハックである」

「そこを攻撃すると、相手が罰されたような顔になるから、正当な制裁が為されたような気持ちになり、晴れ晴れとする」

「これは相手の心を強くするための正当な修行の作法であるので、やっている自分は偉いし、これを非難するやつは世界を惰弱に導く腐敗分子である」

このいずれかを言い出す人が、あまりにも多いんですよね。

***

一番目は論外で、ライフハックのために他人を攻撃してんじゃねえ。

二番目もダメでしょう。公正な裁きということは、自分の恣意でやって、快楽を汲み出すための、誰もが好き勝手に使える道具じゃねえんだ。

「そういうのは公的な司法関連部局が一元管理的に掌握するものだ。

私闘私刑は、公的な司法関連部局の一元管理がメチャクチャになり、市民生活が荒れまくるので、厳禁

という今の日本の近代刑法の思想に、根本的に反する。

三番目もいけません。ぶっちゃけた話、それは本当に検証された、使い物になる(信用性のある)正当な作法なんですか?

「君らの作法の信用性は、一体どこの誰が保障してくれるのだね?」

と言われた時に、

「先祖代々からこれでやってきたんだ。自分が生き証人だ。

事情はともかく(ともかくじゃねえよそこはかなり大事だろ)他人にも通用するだろう。

もし、通用しなくても、自分の正しさは覆らない。

だから、他人がそれで損害があっても、それは自分の正しさに劣ることだ。

自分は絶対に謝らない」

とか、そういうことを言うんじゃないのか?

それ、損害を受けた他人に言った時に、「はいそうですか」と引き下がってくれるとは、おおよそ考えづらいんですよね。

というか、ふつうは、「盗人猛々しいこと抜かしてんじゃねえ」とキレられると思うんだが…

そういう、他人にとっては、信用性を欠く、改善の試みも為されない、守の正当性も、破や離の試みもない、作法?

中世末期の千利休の「守破離」以降の文化として、端的に言って、これ、単なる退行なのでは?

4.2.人間性破壊検査サディスティック吸血鬼狂人

これらとは別に、

「他人の瑞々しい活きた「うぶさ」「傷つきやすさ」「恥ずかしそうな反応」だけに興味がある」

という、人間性破壊検査サディスティック吸血鬼狂人も、かなりいます。

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いや、そういう人たちが、カサカサに乾いた、摩耗した人生だったというのなら、それはまあ、もちろん、「大変でしたね」とは思いますよ。

だが、じゃあ、「他人から生き血を吸ってもいいよね」という話が、どこからポップアップしたのか、まるで分からない。

そういう、「江戸の敵を長崎で討つ」やり口、自分の中では収支は合うかもしれないが、他人Aにとっては見も知らぬ他人Bのとばっちりでしかなく、要するに単なる損害だ。受け入れられる訳がない。

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瑞々しい生気を、自分に与えて欲しい、沸き立たせて欲しいなら、そう正面からちゃんと言いなよ。

自分のニーズが過不足なく伝わるように。そして相手を怒らせて拒絶されないように。それに限らず、失礼のないように。

「自分はイキイキとしたハツラツさを取り戻したい。

のびのびと楽しく遊べば、少しは生気を取り戻すかもしれない。

だから、ご協力をお願いします

もしご協力して下さるのなら、これはあなたの善意であり、たいへんに有難い

感謝の気持ちを込めて、形にしてのお礼は、ちゃんとする。

少なくとも迷惑はかけない。

かけたらノシつけて払う。

イエスかノーか保留か、そこはあなたのご一存にお任せします

このくらい当然に言えなきゃダメ(本当はもっともっと言葉を選んで尽くすことになる)。

4.3.鈍感な人というのは、いる(自分もそうである可能性については、ちゃんと弁えておいた方がいいですよ)

「そもそも自分の「うぶなところ」「傷つきやすいところ」も、他人の「うぶなところ」「傷つきやすいところ」にも興味がない」

という人も、かなりいる。

多分、傷つかずに生きてきたか、傷ついてもその傷を覚えてられなかったんだろうな(覚えてたら、どうしても何らかの形で恨みが残るから、そこは重大な識別ポイントだ)。

後者だったらメチャクチャ困る。この手の人、「そういうのはダメ」と叱っても、覚えないもん。

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記憶に残り、行動を是正し、恨みを残さない、そういう叱り方も、もちろんやり方や作法があります。

その上で、それをしても、忘れる、覚えが悪い、ということは、やはりある。

私も何度か言われたし、自分の中でそのベクトルに思考回路が通った時、初めて

「ハー! そういうことかよ! やっと分かったわ! 今まで分からなかった訳だ!

じゃあ今後は仕組みが分かったから、避けて通れるな。気を付けよう。頑張るぞう。

いやー、関係者各位には、たいへんご迷惑をおかけしました。

だが、その説明じゃ、分からんよ。こんなん。もうちょっと筋道立てて、簡単に説明しろや」

となったし、思考回路が通ったのはそれまでのお叱りとは全く関係のないことに起因するものだった(こういうことはよくあることだ)。

***

もちろん、自分の思考回路が通っていないがために、周囲に迷惑がかかっている。という話は、非常によくある話だし、改善が強く望ましいことだ。

そこは、正面から学習していくか、前提となりそうな気配のあるものを学習していくか、そういうので、やっていきましょう。

人生経験にある程度の指向性を持たせて、

「自分の意志で、この辺のスキルが伸びて、あれやこれが人生で出来るようになった」

となれば、そりゃあその方面はかなり自由自在ですよ。

始まりは他人のためであり、余儀なくされたものでもあり、自由意志としては純度が低かったのだとしても、です。

それに、人間関係でのデリカシーの習得によるコストはいつか、デリケートな人間関係の有難みがやってきたら、膨大なノシつけてリターンとして返ってくるからね。

上っ面の人間関係ではない、デリケートな人間関係をしていたら、それは、いずれ、避けがたくやってくる。ワクワクして、待ちましょう

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それはそれとして、周囲としては、「そういうのはダメ」繰り返し言うことには、即効性があるかも知れないし、かなり後になってから意味が通ることだってありうる。

後者の場合、直接世の中の仕組みを分からせることが出来る場合と、別件で世の中の仕組みが分かってから初めて付随的に分かる、という場合がある。

最後のケースであることが強く疑われる場合、それ以上言っても正の効果は期待できない。

「私は、そういうのはダメ、と言った。

出来れば、今は理解出来なくても、頭の片隅に引っかかっていて欲しい。

それはそれとして、今後この話はスッパリやめる」

と宣言して、スッパリやめときましょう。

こんなことを続けていても、お互いの精神衛生上、良くないですよ。

***

あと、それ以上に、

「デザイナーベイビーでない自分にも、そういう鈍感なところは、ある」

という覚悟は、あらかじめ決めておいた方がいいでしょう。

おそらく、誰しも、他の誰かにとっては、信じがたいくらい腹立たしい鈍感なやつだったりするのです。

***

そもそも言葉でなく仕草で伝える人もいて、

「明示しない意図を、暗示したから伝わって当然、伝われなければ相手がおかしいとする文化、本当にそういうところがコミュ障ムーブの塊なんですよね。

余程明示出来ない事情がある場合以外は、そういうのマジでやめた方がいいですよ。コミュ障としか思われないからです。

ましてドヤ顔でやらない方がいいですよ。みっともないとしか思われないもの」

という思いもかなり強いのだが、まあそこはいいでしょう。

とにかく、それは、相手が鈍感だというより、自分が卑怯なだけです。

そこは、きちんと気を付けて、区別を付けましょう。

5.「恥ずかしい」という感情が、強い人と、弱い人は、社交や処世で困ったことになる

世の中には、「恥ずかしい」という感情が、強い人と、弱い人がいる。

どちらも社交や処世はかなり難しくなる。

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恥ずかしすぎると、

「逃げられない、選択肢がない、どうにも出来ない」

という気持ちになり、動けなくなる。

「予めこれを避ける」

という適応が出来ていれば、これはもちろん、社交にも処世にも大幅に寄与するだろう。というか、おそらく、これが、羞恥心の、一番適応的な在り方であろう。

では、何らかの理由で、予めこれを避けられなかったら? もちろん、社交や処世はものすごく損なわれる。

そりゃそうだ。動けないんだからな。

さて困った。

***

恥ずかしさがないと、恥ずかしがり屋とはやっていけなくなる。

それに、そもそも、他人の「うぶなところ」「傷つきやすいところ」に対する手触りが、異様に雑な人。これは端的に言って、外ならぬ相手その人に、危害を加えている。ということにしかならない。

これを何らかの理屈で肯定するの、かなり無理があるのではないでしょうか。上でもいくつかパターンがあったが、どうも全部ダメそうに見える。

6.デリカシー、面倒だろうが何だろうが、やらねばならない

そこに気を付けて丁寧に取り扱おうとする、「デリカシー」ということが、上っ面でない、踏み込んだ人間関係においては、大事なのです。

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親子だったら、生まれた時点で、人間関係は踏み込んだものにならざるを得ない。

自我が固まっていない間も、曖昧な意志で、踏み込んだ人間関係を、おっかなびっくりやっていくことになる(ここの試行錯誤、きちんとやっておくべきだったな)。

大人になってからは、自分の意志で、踏み込んだ人間関係を、やっていくことになる。

後になればなるほど、デリカシーは猛烈に要請されてくる。

「だから親というものはデリカシーがないのか」? ヒッ(怖いのでコメントは謹んで控えさせて頂きます))

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「恥ずかしい」ということには、心の「うぶな」「傷つきやすい」「柔らかなところ」に関する感情であって、大事な意味がある。

心の「うぶな」「傷つきやすい」「柔らかなところ」への手触りが悪いと、そりゃ心の柔らかなところで成り立つ関わり方は出来なくなるし、そういうのがしたい時にメチャクチャガッカリする。

***

「恥ずかしがり屋、面倒臭いやつだなあ」?

それは、うっかり、口にしちゃダメなことですよ。

人の心が弱っていると、面倒臭がりになる。単に自分こそが、「心の弱った面倒臭がり」なだけかも知れないので…

***

そんな訳で、気を付けて、やっていきましょう。

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