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随筆(2022/1/16):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_24)(養育者のパターナリズム)

1_24.養育者のパターナリズム

1_24_1.養育者は、子供の心身の形成のため、「子供の意志とは別に」、あれやこれやをやらねばならない

これまで、共存とそのためのルーチンの話をしました。

さて、家庭や、組織人事において、それぞれの理由で、「その人間関係や集団のことを知らない新人が増える」ことがあります。
家庭だったら、ふつう、子供が増えます。

もちろん、子供は家庭のことなんか何も知らないで生まれてくるし、そんな状態でいきなり家庭のことなんか出来っこありません。
知識がないんだし、引き継ぎされてない。そもそも、心身がそこまで出来ていないんだから、いろんな意味で、そりゃあ出来る訳がない。
というか、下手するとすぐに生きていけなくなる。赤子とはそういう脆弱な生命です。そこから始めなければならない。
まずは、もちろん、生きてもらわねばならない。心身から出来ていってもらわねばならない。
そして、子供の心身は勝手に育つものではない。親等の養育者が育てなければならない。

ということで、養育者は子供の意志「とは別に」、しばしば子供の意志「に反して」、子供に関することで、あれやこれやをやらねばなりません。これをパターナリズムと言います。

1_24_2.各種倫理的価値と子育て

1_24_2_1.なぜ自由価値は子育て「には」あまり役に立たないのか

パターナリズムの前に、子育て「には」あまり役に立たないものとして、自由価値公正価値の話をします。

自由価値について、あんまり肯定的になれていない自分がいます。
それは解放かもしれないが、それが万人への解放であるからこそ、文化破壊者や強者や支配者や徒党の横暴をかなり容易に許すし、それらが蔓延したら直ちに蹂躙される性質のものです。

平たく言うと、「他人にどうこうされない消極的自由」「自分がやる積極的自由」の相克の一パターンがあり、今のもそういう話ですね。私はどちらにも有難み限界を感じています。

これを言うのは本当に嫌なんですが、自由にやるのはいつでもできます。
例えば、「路上で凍死する自由」に、「盗人猛々しい偉そうなやつを襲撃しようとして護衛に返り討ちに遭って袋叩きにされてなぶり殺しにされる自由」

そういう自由、原理原則はともかくとして、嬉しいか嬉しくないかで言うと、何も嬉しくないでしょう。

ぶっちゃけた話、積極的自由をやってメリットがあるのは、それなりの才能のセットがあり、その環境においてその才能が適合していてちゃんと効果があるときだけです。
そういう才能のセットは、まともに与えるのはとてつもなく面倒です。これは養育と教育の話なんだから。
昔ならいざ知らず、そういうことをされないと自由にやっていく才能が確保出来ない、積極的自由価値が高騰した世の中では、養育と教育は積極的自由を支える重要な柱だ。
しかし、これらそのものは何ら積極的自由から導き出されたものではない。それは主に献身によるものだ。献身が積極的自由の前提である場合が、実はかなりよくある。直感には完全に反するけど。
(そして、献身と自由の相性は、実はあまり良くない。この辺の話はまたすぐ後でします)

これに比べたら「路上で凍死する自由」を与えるのはとてつもなくたやすい。これ、献身に比べたら、コストはほぼゼロなんだもんな。

子供に「才能のセット」を特にはプレゼントせず、「路上で凍死する自由」だけを呼吸のようにプレゼントして、気持ちよく正義を味わっている足長おじさん気取り、かなりいます。
当然、子供は、何らやりたいことをやれずに、死ぬ。
禁止ではなく凍死や餓死のせいで、やりたいことの出来ないまま死ぬような状態を、自由と言うのは、単に、「そういう痩せた可能性にしかアクセス出来ないよう、痩せた自由を余儀なくされている」ということでしかないのではないか?
じゃあ、それは、違うのではないか?

というか、何なんだお前ら。
自分のやってる、そして他人にやらせていることの意味合いが分かっているのか。
これが「善い」?
あまりにも欺瞞が過ぎるか、物事が見えてなさ過ぎる。

1_24_2_2.なぜ公正価値は子育て「には」あまり役に立たないのか

また別の話をします。
公正価値「どのような文化圏でも通用する正義」だという、ある種の思想の人、います。

それ、だいぶ無理のある話ですよ。

平たく言って、公正価値「投資すべき原資」も「払うべき報酬」も持たない赤子や子供に対して、信じられないほど厳しい。
当然でしょう。かなり静的なものである地位に付随する「平等」ではなく、かなり動的な投資や取引などの行為に付随する「公正」とは、そういうものなんだから。
(そもそも、これを「信じられないほど厳しい」と思う感性は、それ自体はケア価値の影響下にあるものであって、要するに公正価値ケア価値別物である。ということは当然弁えておいた方がよいでしょう)
少なくとも、そんなものを最重要の基底的な価値とする文化圏は、赤子や子供をまともな主体として想定していないのは明らかだ。
まともにやってれば、公正が赤子や子供に適合しない事例が出て来るのはすぐに分かるし、分かっていようが赤子や子供のことは究極的にはどうでもいいからそのままにしているのだ。
そんな、特定の問題の無視によってしか成り立たないものが「どのような文化圏でも通用する正義」? 何で?

***

まあ、確かにそうだよ。ここの話に、世界的なレベルで、目立つ形で疑問を持たれるようになったのは、かなり最近の話なんだからな。(『児童の権利に関する宣言』は1959年、『児童の権利に関する条約』は1989年)
だが、今は、もう、「それ」以降の時代なんですよね。
もはや、公正価値は、何も考えずに世界的に通用させられる訳ではない。
「公正=正義」というお題目を唱えれば、この問題に向き合わなくていい、などという話は成り立たない。

***

というか、おそらく、公正価値を最重要とする社会では、多くの赤子や子供は、そもそも生まれさせてもらえないだろう。
ある種の手術がどうのこうのの話とはまた別の話として、
「子供を生んで育てること自体がコスト的に割に合わない」
「そもそも個人のサイクルすら回っていないのに、個人を越えたサイクルなんか回したらもっと回らなくなる」
「個人のサイクルに割ける資源は個人を越えたサイクルに吸われて枯渇するので、そもそも個人レベルで死ぬ」

という訳で、そもそも子育てを前提とした結婚等をしない人、今やとてつもなくたくさんいるんですよ。
俺だってそうだ。このゴミみたいな給料で、子育てなどしたら、かなり早い段階で全員死ぬぞ。(お前の身の上話なんか他の人にとってはどうでもよくないか?)

***

そういう訳で、公正価値を、赤子や子供や、その養育者に要求しても、しょうがないことの方が多い。それをどうするのか?
公正価値が赤子や子供を締め出すくらいなんだから、締め出した側の公正価値が赤子や子供を救済することなどまず不可能だ。そもそもそれが可能なら、最初から締め出すなよな。という話はかなり避けがたく思う。

これを回避するためには、公正価値を劣後させて、ケア価値の顕われとしての「献身」を主体にしなければならない。
だが…そこで、パターナリズムの話が、どうしても避けがたく出て来てしまうんですよね(後述)。

1_24_2_3.子育て「には」極めて役立つケア価値としての養育者の献身

という訳で、子育てにおいて、公正「以外」の価値観は、どうしたって、要ります。
今までの書きぶりでだいたい分かるでしょうが、実は、ここで、献身の話が活きてくるのです。

赤子や子供は断固としてそこにいるんだから、出来れば、せめて、家庭に適応してもらわなきゃならない。
そのためにも、生きて育ってもらわなきゃならない。
まずは、引き継ぎなどという高等な芸当ではなく、心身の形成のため、先にいる人たちがなんかしなきゃならない。
ミルクは作らなきゃならんし、哺乳瓶の乳首は煮沸せなならんし、尻は拭わなならんし、大きめの段差からは落ちないようにせなならん訳です。
それは、子供の意志「とは別のこと」だし、しばしば子供の意志「に反する」だろう。そして、そんなことは百も承知だ。

これ、当然、赤子や子供は、何らの返礼も出来る訳がありません。
でも、養育者は、やるんですよ。
これには十数年(か数十年)程度の、絶望的な金銭的コスト労力が必要になります。

***

金銭的コストのことを考えると、稼得者にとっては、このタイミングで職場を放逐されたら全員餓死なので、絶対に放逐されないようにしなければならなくなります。
上意に対して絶対服従を余儀なくされますし、社内政治に極端に鋭敏になります。
また、職場はそれに乗っかって、際限なく働かせようとします。かなり厳しい時期が続くでしょう。
そして、稼いだ金は、よりクオリティの高い子育てのために吹っ飛んでいく。自分の金? 小遣いの間違いでは?
そういう小遣いを、仕事で発狂しそうな精神の平衡を保つために使ったら、それは子育ての観点からは言い逃れのしようもなく明確に「邪悪」なので、そういうこともやりづらい。
そのうち心がどんどん死んでいくか、逆にどんどん開き直って「は? 殺すぞ」という感情になっていく。

***

労力のことを考えると、当然これは死ぬほど面倒です。24時間7日間体制を十数年(か数十年)やるんだから。
「ワンオペ新人コンビニ店長がバイトシバキアゲ熟練鬼コンビニ店長になるまで」に匹敵する、絶望的な労苦と絶望がある。
本部のエージェント(稼得者)ゴミみたいな予算しか持ってこないし、何も分かってないくせに一丁前な口も利きやがる。
当然、「は? 殺すぞ」という感情になっていく。

***

赤子? 子供? 報いている訳がない。
自分のことを思い返してみましょう。報いましたか? 十分には報いていないと思いますよ。
「子供の笑顔が報酬だ」というお話、ダメですよ。少なくとも子供の側が言うのは。精神論で搾取を正当化するやつを、搾取する側が言い出すな。完全に盗人猛々しい。

***

それに、これはそもそも、そういう話じゃないんですよ。これは公正の話じゃないんだから。献身の話なんだから。
だから、搾取がどうとか、正当化がどうとか、そういう言い訳じみた姿勢そのものをやめましょう。筋違いもいいところだ。みっともない。
「報いて返せ」というの、何度も言っているが、無理な要求だ。だって、子供のままでは「出来ない」し「やれない」んだから。

そして、そんなことを養育者は子供に強いる訳にはいかない。
繰り返すけど、そんなことは、たいていの養育者は、百も承知でやってるんだ。

「育ててやったんだ。報いろ」
という養育者、そういう気持ちが湧いてくるのは百歩譲っても、本当に気を付けた方がいいですよ。
その理屈を、
「子供は何らかの報酬のために産まれてきたのではない。報いさせるのは筋違いである。
子供は当面の間、報いる能力をも欠くから、ますます報いさせてはならない」
という理屈に優先させて、実現させようとしたら、どうなるか。

いまだに育っていない子供を、高速で早いうちに使い潰す道具にするか、特殊な市場における商品としてマネタイズするか。という、そういう人権侵害の類型の話になってくる。
これは、たいへんむごいが、ある。

そして、今の話は、一歩間違えれば直ちにこれになる性質のものだ。そんなこと考えたくもないだろうが、考えないとますますこれになっていく。そういう成り行きのものでもある。

***

そういうことで、子育ては、まず、直接的、間接的、様々な形での、献身です。

1_24_2_4.養育者の献身のダークサイドを安易に考えると、自分が養育者になった時にドツボにハマる

さて、パターナリズムは、公正価値成り立たなくても(成り立つ訳がない)、赤子や子供の生存と生活のサイクルを回すための献身ではあります。

が、どう贔屓目に見ても、対等と呼べるようなものではない。
また、どう言い訳しようが、子供の自由意志の毀損に他なりません。

ということで、これが大嫌いな人、たくさんいます。

が、多分これを嫌う彼ら自身は、養育者になった瞬間、直ちに子供に対して対等もへったくれもなくパターナリズム丸出しになるでしょうね。
まさか自分がそんなことをするとは思ってもみなかったから、何の対策もなく、そのままパターナリズムの沼へ引きずり込まれるし、当然その際に我が子を一緒に引きずり込んでいくでしょう。

(この世の終わりのような表情でギャーと泣きわめく我が子)
「うるせえ、ガタガタ言わずに大人しくしろ、少しは言葉通りに意図通りに素直に言うことを聞け」という感情しかなくなった養育者)

1_24_3.「なぜ基本的人権が子供においてはある程度しか認められていないことがよくあるのか」という問題を、パターナリズムの視点で考える

1_24_3_1.基本的人権が、子供においては、ある程度しか認められていないのは、何故か。ポイントはどこか

さて、基本的人権が、子供においては、ある程度しか認められていないのは、何故か。という話を、ちょっと考えてみましょう。
ここは、パターナリズムと、非常に密接に関係しているところです。

基本的人権の特に核心となるもの。もうちょっと言うと、
「基本的人権はある種の地位、権利である。
人間社会の一員、集合の要素であるということで、行為主体としての地位を認められている。
また、行為主体であることを無視して、誰かや何かの道具として扱われることは、認められていない」
「当然、主体なんだからまずは自由だし、主体同士だからまずは平等ということになる」
「自由意志に基づく契約以外で、何かをさせられる謂れは、ふつうない」
「契約の内容があまりにも抑圧的・搾取的で受け入れがたいなら、自由意志に基づいてこれを解消されても、そんなことは当たり前である」
ということを、果たして認められているかどうか。

これと、「大人と対等に扱われる」ということは、意味合いに若干のズレがあります。
とはいえ、基本的人権の核心の一つである「平等」に着目すれば、対等と平等は、対人関係か対世間かだけが違って、実質同じことを志向しています。

***

子供の基本的人権が制限されているのは何故か。ポイントはどこか。

「養育者も子供も、特にお互いで契約などしていないのに、現にあるものとして、広義の親子関係を余儀なくされている」

「子供は、行為主体としての能力が不足していると見なされているため、行為主体としての地位を認められていない」

「人間関係を解消されたら、子供が生きていくのはかなり困難になるため、子供は人間関係を丸呑みしなければならないし、養育者も人間関係を丸投げ出来ない(役所案件になったら違うけど)」

大体この辺なんですよね。

1_24_3_2.「養育者も子供も、特にお互いで契約などしていないのに、現にあるものとして、広義の親子関係を余儀なくされている」(が、多くの大人は「それはやって当たり前だ」と思っているから、ふつうにやっている)

「養育者も子供も、特にお互いで契約などしていないのに、現にあるものとして、広義の親子関係を余儀なくされている」
という話は、先の記事でも書いたのですが、ふつう、今の日本では、大多数の子供は、生まれてから同意なく家族に組み込まれたのだ。
そういう意味では、厳密な意味では、子供は自発的な家族の成員ではないのだ。
家族としての義務においても、自発的な家族の成員と、非自発的な家族の成員が、家族に対して同等の義務を負う、という話にはならない。

そもそも、養育者子供も、特にお互いで契約をしている訳ではない。
同意も契約もへったくれもない。とにかく相手が目の前に現にいるので、うまくやっていかねばならない。
そういう、広義の親子関係余儀なくされている訳だ。

***

しかし、もちろん、多くの大人「それはやって当たり前だ」と思っているから、ふつうにやっている。
大したものですね。
だからここは問題になることは少ない。


「当たり前のことだろうが。わざわざおどろおどろしく言うことか?」
ふつうの養育者舌打ちしたくなるだろうが、ちょっと待って欲しいのです。
「問題になることは少ない」だけで、「問題がない」訳ではない。

ぶっちゃけ、こういう状況になった瞬間、秒でトンズラこく父親失格者はたくさんいて、結果としてシングルマザーがたくさんいる訳です。
である以上、舌打ちすると、その唾はシングルマザーの逆鱗に向かって飛んでしまう訳です。
お前らは当たり前じゃない異常者だからこんな目に遭っているのだし、それは社会から外れた反社会的人間への罰なんだよ(嘲笑)
という意味合いで悪意を以て取られても、挙句何ならここでブチギレられても、何一つしょうがないと思いますね。
というか、こういう舌打ちをすると、シングルマザーに唾を吐く「ために」舌打ちをする邪悪生物たちと、外形的に全く区別がつかなくなる。
もちろんこうなったら、言った人の「そういうつもりではなかった」などという話は、一ミリも斟酌されない。
これは、だから、やめた方がいい振る舞いです。

1_24_3_3.「行為主体としての能力が不足していると見なされているため、行為主体としての地位を認められていない」(ということは世界的にはもはや採用されていない)

他の二つについては、考えを進める際に便利な「杖」が、実はあります。

***

さっきもちょろっと書いた、児童の権利、子どもの権利の話をします。

子どもの権利は一般的には二種類に分類される。一つは子どもを自己決定権を持つ人間として法の下に擁護するものであり、もう一つは依存するがゆえに加えられる害から子どもを守る目的で社会に請求を行うものである。前者は権限拡大の権利と呼ばれ、後者は保護の権利と呼ばれている

権限拡大の権利は比較的理解しやすいでしょう。
ここは通常考えられる、大人にもある人権、特に「国家による介入を拒否することを本質とする」「自由に物事を考え、自由に行動できる権利」、自由権と、趣旨としては大きく外れてはいない。というか、大きく外れないようにすることがポイントなのでしょう。

これを見る限り、
「能力が不足しようが何だろうが、自己決定権はあるものであり、断固保障する」。
そういう話に見えます。
「行為主体としての能力が不足していると見なされているため、行為主体としての地位を認められていない」
という話は、世界的にはもはや採用されていない。
少なくとも、
「行為主体としての能力が不足している」
という理由で、
「その分だけ、自己決定権が保障されなくても、差し支えない」
という扱いは、世界的にはもはや採用されていない。

この辺は、日本の民法で、制限行為能力者としての未成年者のことを考えてみると、
「日本の民法での、未成年者の行為能力制限の度合いは、果たして世界的見地から正当と見なしうる程度のものか」
という話が避けられなくなります。これについては宿題とします(俺の)。

1_24_3_4.「人間関係を解消されたら、子供が生きていくのはかなり困難になるため、子供は人間関係を丸呑みしなければならないし、養育者も人間関係を丸投げ出来ない(役所案件になったら違うけど)」(ということは、あるものとして受け止め、そして困ったことなので、うまくやっていくように考えよう)

保護の権利は、大人にもある人権と、子どもの権利を別つ、かなり顕著なポイントです。
こちらは趣旨から言っても、「国家(と近似する誰か)に依拠してその実現が図られる」「社会を生きていく上で人間が人間らしく生きるための権利」、社会権なのですが、「依存するがゆえに加えられる害」という説明が非常に目を引きます。
生活保護・雇用・労働組合や、もっと子どもの権利に寄せると、教育についての社会権案件でも、もちろんこれは大事な側面です。というか、その側面をうまく表現しようとすると、「依存するがゆえに加えられる害」という表現になるんでしょうね。
おそらく決定的に大事なのが、一般に、福祉事務所雇用側私生活に立ち入る度合いそれほどえげつなくない。えげつなくなることはもちろんあるが、そうなるとしばしば訴訟になり、福祉事務所や雇用側が敗訴等する可能性も割とある。
これと比較して、養育者私生活に立ち入る度合いについて考えてみましょう。圧倒的に介入の度合いは高い。しかもこれがおかしいとはあまり思われていない。そもそも訴訟になりづらい。この辺は、子供に特有の、かなり顕著な事情と言えます。
ここら辺、もろに
「人間関係を解消されたら、子供が生きていくのはかなり困難になるため、子供は人間関係を丸呑みしなければならないし、養育者も人間関係を丸投げ出来ない(役所案件になったら違うけど)」
というやつです。

さっきの話と違うのは、
「行為主体としての地位は認めなきゃならない。「行為主体としての能力が不足している」ことをもって、「その分だけ、自己決定権が保障されなくても、差し支えない」という話は、そもそも前提から容認されない」
が、こっちの話は
「依存するがゆえに加えられる害」の問題は、あるものとして受け止め、そして困ったことなので、うまくやっていくように考えよう」
というスタンスであることです。
つまり、
「そんなもん、認めない、なくす」
という方針を採っていない。
たいていそういう人は、依存を断つと、死ぬのだから。
「殺すと善い」という大将首無双人間の言うことを、社会権で採用したら、アウシュビッツ強制収容所と同じように、皆殺しという話に帰結する。
ここは決定的な違いです。
気を付けないとかなりマズくなるところです。

***

また、子どもの権利においては、『子どもの最善の利益』という基本原則があります。

子どもの最善の利益(こどものさいぜんのりえき)または最善の利益は、子どもの福祉に関する広い範囲の問題を決定するために、ほとんどの裁判所が準拠する原則である。国際人権条約の一つである「児童の権利に関する条約」に於いて基本原則として掲げられて以降、障害のある人の権利条約やジョグジャカルタ原則に於いても採用されている。

ちなみに、イギリス法体系では、子どもの最善の利益達成されているかを評価する基準があります。便利なので、これを参考にしてみましょう。

イギリス法では、子どもの法律1989の1(1)項は、全ての法的手続きにおいて、子どもの利益は、裁判所の最高の関心事であると定めている。そしてs1(2)項は、時間が長くかかることは子どもの利益をゆがめることと、裁判所は「子どもの福祉のチェックリスト」を考慮することが必要であると示している。
・関係する個々の子どもの願いや感情(子どもの年齢や理解力を考慮して確認)
・現在と将来の子どもの身体、感情、教育について必要なこと
・現在と将来の子どもの環境の変化が子どもに及ぼすと予想される影響
・子どもの年齢、性、背景事情、その他裁判所が適切に考慮すべき特徴
・子どもがこれまでに受けた害と、子どもが現在と将来に害を受ける危険性
・子どもが必要とすることを、それぞれの親や裁判所が適当と考える人は、どの程度満たすことができるか
・子どもの法律1989の下で、問題となる司法手続きにおいて、裁判所に対して利用可能な法的権限の範囲
この福祉のチェックリストは、子どもや青年の望むこと、感情、必要とすることを考慮している。このチェックリストによる分析は、子どもの人権に対する考慮を、その他の全ての考慮に対して、常に優先させることを確実なものにしている。この福祉のチェックリストは、裁判手続きに関与する若い人が充分に安全を守られて市民としての権利が促進されることを確実なものにするために、当該の問題に関して考慮を必要とする包括的なリストを提供している。

論点が大きく二つに分かれます。
内面的な「願い」や「感情」の話と、外形的な「必要なこと」や「害」の話です。

子供が「違法薬物が自分にハッピーをもたらしてくれるので、違法薬物を寄越せ」とか言い出したら、それは外形的に違法なので、まあ通らないでしょう。
「就労支援などくそめんどくさいから要らない」とかだともう少し微妙になるかな。

でも、内面的には望んでないことを、外形的にさせることを、素通ししてはいけない。内面は考慮しなければならない。というのは、かなり重要な論点です。
こんなの本人は望んでないし、有り難いとも思わない。そういうことをパターナリスティックにさせておいて、周囲が「メデタシメデタシ」というの、もう話としては通らない。そういうことなのでしょうね。
それは、ボロボロの人形を飾り雛人形にしただけだ。どちらかというと、それを愛でる周囲の都合だろ。本人の都合はどこにある? 「本人の都合がない幸福」? 何寝言いってんだ、としか言えねえが…

本人の納得とか、そういう話ですらない。それは本人に余儀なくさせるというやり方で浸透させることが可能だからだ。
本人の「やりたいこと」を、それが現行法で制約がない限り、制約のないように、支援しなければならない。

養育者が、子供の生存を越えて、人生を謳歌させたり、やりたいことを成し遂げたりさせなかったりする。
それどころか、人生をドブの味にしたり、自分の人生で成し遂げたいことを諦めさせて、死に際に絶望の果てに死なせたりする。
そういうの、ダメな養育者ムーブですよ。
養育者の仕事は飼い殺しではないが…?
そんなことしながら「私が育てました(飼い殺しにしておいて)」って顔するの、かなりマズイと言えるでしょう。

1_24_4.パターナリズムはともかく、家父長制の消費期限は、もう切れていると考えるべきではないか

1_24_4_1.個人的なレベルにおいて、いい大人である他者の意思決定に対して、誰かが介入・代理・妨害することに、正当な理由はふつう存在しない

ちなみに、パターナリズムとよく混同されている、当然ながら密接な関係もある、家父長制の話を、したいと思います。

先に言うと、私は家父長制について、かなり否定的な印象を抱いています。
パターナリズムにはまだ意義が残っているかもしれないが、家父長制にはもはやそれすら残っていないだろう。
パターナリズムと違い、家父長制は、そもそもの前提に対する、大きな勘違いや固定観念によって成り立っているものだからだ。
そういう見方をしています。

子供に対して養育者であると言うことと、それをはるかに拡張して、配偶者や、少し前までだと執事や家政婦や、大昔だと奴隷の「主人」であるということは、違う。昔はこれは正当化されていたかも知れないが、今やもうそんな話は、2022年現在の日本では成り立っていない。

そもそも、配偶者や執事や家政婦や奴隷は、精神的な「「やろう」という意志」や「「やるぞ」という意思決定」や「「やる」という行為」において、基本的には不足はない訳だ。
「精神機能に不足がある」と考えるべき謂れがない。ある訳がない。なのに、他人の精神機能に係る、意志や意思決定や行為に、自分が介入するの、おかしいに決まっとるやろ。
「謂れはある」? 何で? それ、騙されてるぞ。誰がそんな寝言を吹き込んだ?
「勘違いや固定観念」と私が言っているのは、ここだ。

自分で決める能力に、確かにたいてい不足のある子供に対して、養育者であること出来るし、望ましくはないながらも、やむを得ない程度には必要でもある。
が、それ以外の「子供のみならず」「多くの場合は大人にも及ぶ」家父長制が、なぜ正当化されるのか、よく分からない。

そもそも、本当のことを言えば、自分で決める能力にたいてい不足のある子供に対して、養育者がやるべきことは、意思決定支援であろう。
判断前の適切なタイミングで判断材料をちゃんと伝え、誘導をしないようにして、信頼関係の構築の上で「周囲と関係なしに、傾向としてどういう風にしたいか、あるいはもっと具体的にどうしたいか、本心を訊きたい」という断りを入れて本人の本心を訊く。
よく養育者がやるような、意思決定の代理をすることなどは、意思決定支援の手段の一つに過ぎない。そういう位置付けのものだ。
である以上、意思決定支援の趣旨に「反する」状況下では、意思決定の代理なんかしてはならないのだ。こんなもん筋違いもいいところですよ。
え? そんなこと考えてすらいなかった? ダメでしょう。それは。
まして、代理のくせに、意思決定を妨害するに至っては、お話にならない。

まして、そういう話ですらない、いい大人である配偶者等に対して、意思決定に対する介入や代理や妨害を正当化できる理由、何もないですね。
特に、個人的なレベルにおいては、こんなもん通ると思う方がおかしい。
他人の行為が自分の損や害になるなら、抗えばいいが、それとて常に通るという甘い話はない。他人のやることは、当然ながら他人の脳髄の仕切りなんだもん。当たり前だ。
まして、自分が、他人の脳髄や行為を、リモコンのように自在に動かせる訳がない。そういうリモコン的モデル、本質的に、成り立たない。そんなものを自明だと思う方がおかしい。そんな雑な予想も、期待も、裏切られて当然のものだ。
ここはとても気を付けなければならないポイントです。

1_24_4_2.「面倒な作業がリーダーシップを担保している」という仮説は別に成り立たない

もちろん、家庭は、それを維持するためのルーチンがあり、仕事組織であることを兼ねる。
それは、「売り物にはならないが、組織自体が回る程度の、財物やサービス行為を生産する」という恒常性を主眼とした仕事組織だ。
つまり、「財やサービスを増やす」というタイプの会社みたいな利潤追求を主眼とした、ふつう我々がイメージするような仕事組織とは区別される。
だが、財やサービスを生産していることには何ら変わりはない訳だし、じゃあ仕事組織としか言えないでしょうね。

仕事組織において、リーダーシップということは、「自ら動いて、仕事組織のやるべきことの方向性を示して、成員にそのようにさせる」ということだ(リードするんだから)。
そういう意味では、組織的な意志や意思決定や行為については、リーダーがやるのはもっともな話だ。
もちろん、組織的なそれらと、成員のそれらが違う時に、リーダーが前者を後者に優先させるべく、成員に働きかけるの、ごく当たり前であると言える。そういう役目なんだから。

だが、リーダーシップと、「面倒な作業をしているかどうか」と言うことには、突き詰めれば関係がない。
面倒な作業をしている人には、リードする権利も能力もある、と思いたいだろう。
が、面倒な作業は、リーダーシップの基盤「であったり」「なかったりする」。というか、「そうでない」こと、かなり多い。

そもそも、そう言う人たち、家計、ちゃんと、つけていますか? 明らかに面倒な作業だから、自分じゃない人につけてもらっているんじゃないですか?

挙句、その家計をつけている人が、リーダーではない、ということはザラにある。
電子化やアプリ導入をしていない場合、あんなにもクソ面倒な作業なのにな。
「面倒な作業がリーダーシップを担保している」
という仮説を採用するのなら、家計担当者がリーダーじゃないのは、これはだいぶおかしな話ですよ。

もし、これに
「別におかしくはない」
と言いたくなるのなら、
「「面倒な作業がリーダーシップを担保している」という仮説は間違いであり、これを元にしても、リーダーシップに関する主張は何も出来ない」
という話も、
「面倒な作業は、何らリーダーシップの決め手にならない」
という話も、
「面倒な作業を盾に、リーダーシップを持とうとするやつは、そもそもお門違いである」
という話からも、これはどうしても逃げられないと思いますよ。

***

面倒な作業以外で、誰かがリーダーであることを保証する要件としては、社内政治や、もうちょっとエレガントには、内規がそうだ。

で、特に、家庭は、組合会社役所と違い、普通は内規のようなものはない。

だったら、ますます、家庭においては、誰かがリーダーであることの「理由となるもの」はないように見える。
リーダーは、それらの理由とは、特に何の関係もなく、決まる。

「従来、夫や父が代表者であったから」
というの、内規としての力をもはや失いつつある。そんなものは理由にならない。
「なる」と「思っている」人たちは勝手にすればいいが、「なる」と「思っていない」人たちには絶対に通じない説明だ。ということは当然理解しておいた方がよいでしょう。

1_24_4_3.法人等の代表者や世帯主は、最終的には最終承認/拒否の際か、対外的役所手続上でしか、意味がない

それに、メチャメチャぶっちゃけると、ほとんどの場合、法人等の代表者や、世帯主は、最終承認/拒否責任者対外的な窓口として必要なのであって、自ら動いて方向性を示して成員にそのようにさせるリーダーとして必要なのではない。

実際には、典型的には国家がそうだが、リーダーに出来ることはそれほど多くなく、たくさんの役人がルーチンを組織的にやる方が、いろいろ出来る。
結果的にリーダーはどんどん実権を失っていく。
最終承認/拒否責任者や対外的な窓口としての役目は残るが、それ以外の役割は、他の担当者によって、分散代替可能だ。と言う話は避けられないように思う。

そもそも、「リードできる才能があるかどうか」などという話自体が、「法人等の代表者や、世帯主であること」とは、基本的には独立の、というか「あまり関係のない話」なのではないか。という疑いは、持っておいた方がよいかと思います。私は持ってる。
というか、能力のある人が馬車馬として使い潰されることも、偉い椅子に据えられた人が碌なことをしないで偉そうにし続けることも、どちらもざらにあるだろう。
能力と地位が一体だと思っている人、だいぶハッピーな世界観してんな。

1_24_5.いともたやすく行われるえげつない職場と子育て側の相克

1_24_5_1.飲み会に出ないで職場に干されるのと、養育者の付き合いを蹴っ飛ばしてムラハチされるの、同じ

やや話はズレますが、子育て中に飲み会に行く養育者、いるじゃないですか。
これに、「子育てのことが何も分かっとらん」腸の煮えくり返る人はたくさんいるでしょうし、多くの人はこれに賛同するでしょう。

が、飲み会に出ないで自宅帰還で子育てを全ツッパする人、職場の人間関係を、それも、だいぶ劣後するとはいえ、多くの職場にとっては冠婚葬祭や人事異動の次に来る程度のイベント(というか、職場で過ごしていたら、ふつう、他にイベントなんてないでしょう)を、拒絶してる訳です。
何かというと、これ、「職場がムラハチにしたわけでもないのに」「自分の方から職場の方をムラハチにしたことを示した」とふつう解釈される訳です。

「私はお前らの仲間の誘いは受けないし、こちらから願い下げだ。
だが手当は寄越せ。お前らの人間関係や集団のことなど、知ったことではないが、仕事組織だろ。金だけ寄越せや。当たり前やろ。
たかが集金装置の歯車ごときが、人間様の私相手に、利いた風な口を利くんじゃあない」

と、まあ聞こえている訳です。

あなたの職場でこんな人がいたら、どうなると思う? 仕事組織の人間関係にもよるが、まあ、決して少なくないケースとして、「異常者であると判断され」「心情的には職場の一員と見なされなくなる」じゃないですか。
そんな厄介者、「何かあったら優先的にクビにされる側になる」可能性はかなり高いでしょう。
稼得のことを考えると、これはかなり看過しがたいレベルでヤバイと言えます。

「職場での人間関係を断ちながら仕事をする」のには、「こども園や幼稚園での養育者同士の交友関係を断ちながら子育てをする」のと近似した効果があります。
ふつうに考えて、尻尾は振らなければならない。こんなもん社交や処世の基本だ。このシリーズの初っ端で言ったが、小学生ですらやっている。

***

まあ、俺は養育者になったら、おそらく帰って子育てをするんですが…
おそらく職場からは
「あの人は仕事はやってるが、人間関係をやらないから、馬車馬のように使い潰してよい。何勝手に潰れてやがる。いいから働け。馬車馬が人間様みたいな顔をしてるんじゃあない」
と思われている気配がかなり強いので、おそらくますます干されるでしょうね。

で、干されてもやるんですよ。何言ってるの? 当たり前じゃん。

1_24_5_2.職場は、職員が職場以外の何かに忠誠を尽くすと、そいつをクビ側の箱に入れるし、趨勢としてはこれはどうあったって避けられない

飲み会のことだけじゃないんですよ。
職場は、人間関係を捨象したとしても、仕事組織であるからには、仕事はしなければならないんです。
だから、職場のために全リソースを費やして、たくさん生産し、効率を改善する人を厚遇するし、そうでない人は冷遇する。
で、職場のリソースを給与や手当で食いつぶしてマイナスにする人のことは、出来れば追放したい訳です。
職場は、個々人に何もかも捧げさせたいし、そうでない人、それに反する人は、「何かあったら優先的にクビを切る側」にするんですよ。

個々人「働いている目的は子供のためであって、職場は道具だ」と思うかもしれませんが、そういう人は潜在的にはクビの側です。

恐ろしい話ですが、クビにされる側は、ふつうはしかるべき労基署にも裁判所にも行ってる余裕がありません。
そういうのには気合いも金も手間もものすごくかかる。と思っちゃうからです。

それに、広義のお通夜やお葬式の時に似た精神状態で、職場とバチバチに戦う気力、ふつうはないでしょう。
(ある人もいますが、そういう人が「戦わないやつはくたばれ」とか言い出すのを見ると、かなり厳しい顔になりますね。
そりゃあ戦う気にならんわ。こんな風に他人をナメ倒す人と、自分が同じような存在になるの、嫌ですよ。

「お通夜やお葬式をうっちゃって、まずは親の仇の大将首を獲りに行く」というのは、ある種カッコイイが、それを万人に要求しちゃいけない

だから、「職場は、職員が職場以外の何かに忠誠を尽くすと、そいつをクビ側の箱に入れる」というの、趨勢としてはこれはどうあったって避けられない。

1_24_5_3.職場は子育てのことを理解しない。「職場にとって、子育て側とは、潜在的には有害な存在である」。配慮なんかする訳がない

もちろん職場子育てのことなんか何も分かってないからそんなことを言うのです。
職場は、あくまで、金を稼ぐというルーチンを持つ組織に過ぎない。そこに、子育ての機能は、基本的には備わっていない。その程度のものだ。

で、ここから地獄の話をします。
言うまでもないことですが(言ったけど)、職場は仕事組織です。
政府や地方自治体がガチャガチャ言ってる子育て政策のことなんか、基本的に「外部」の話なのです。上の話は、要するにそういう話である。
そして、もっとぶっちゃけると、利害が相反するから、子育てに協力的な訳がない。

子育てのために、人が抜けて、仕事はどうしても滞る。
これを避けるためには、他の人員には、生産量が上がらないにもかかわらず、過大な努力を強いることになるだろう。人はますます壊れて抜ける。
職場は仕事組織だから、生産量を上げるために馬車馬をさせるのは大好きだ。
だが、生産量が上がらないし効率も改善しないのに、馬車馬をさせることに、当然何の意義も感じていない。職場にとってはこんなもん迷惑でしかない。

これを配置換えでどうにかすること自体が困難だ。だって、それまでも配置換えで最適化していたんだから。
人が抜けて配置換えしたらより最適化された? そんな甘い話はまずない。
というか、抜けたらお得な人なんて、そもそも職場にとって最初からクビの側だ。
そんな人が何か言っても、職場としては「うるせーボケ誰が聞くか」でしかないんですよね。これは怖いぞ。そういう人には信頼がない。まして、地位だの、発言権だの、ある訳がない。

ここから、子育て側にとってはケア価値を欠くおぞましい発想でしょうが、職場にとってみれば効率価値からしたらごく当たり前の発想が出てきます。
要するに、少なくともお偉方や人事にとっては(しばしば同一だが)、
「職場にとって、子育て側とは、潜在的には有害な存在である」
ということです。

***

これを倫理的に肯定も否定もしません。複数の倫理が走っていたら、それは当然この手の事態になるのであり、そこで

「は? こちらの倫理は倫理に他ならず、お前らの倫理は倫理ではない。これ以外に何がある?
お前らがその倫理もどきをやることで、こちらにはデメリットしかないんだから、やるな、と言っているのだ。まだ分からんのか。

メリットの生産のために欠かせない? そもそもそのメリットをこちらも受けている? 給料? 家事? はああ?
そんなものがデメリットを覆すメリットだと正気で思うか?
デメリットで苦しんでいる人によくもそんなくそたわけたことが言えるな。
頭悪いんじゃないの?
いいからそのメリットは別の手段で作って寄越すんだよ。それ以外に何かあると本気で思っているのか?

は? そんな方法はない? また呼吸のように言い訳ばかり言う。メリットよりデメリットの方が耐え難いんだから、いいから直ちにそのデメリットをもたらすムーブを止めろ。後の事は知らねえ。
というか、後で問題になったら随時解決しろ。
という話にしかならないし、それでまた問題が発生したらチクタクバンバンみたいに無限に直すんだよ。

他人に迷惑かけておいて、今さら、コストは割きたくない、これ以上の損害損失は耐えられない? じゃあ、せめてリソース全部吐き出して死ねよ。
バァカ」

という話、まあ、気持ちはよく分かりますが、どっちが言ったとしても、無理な話ですよ。
優しさとは、相手が苦しまず、喜ぶように、余裕かリソースを適正に費やして、手間をかけてサービスか財を作って、受け取れる形で渡す。ということです。
パターナリズムも、相手が喜ぶかはともかく、相手に利しているから、優しさの文脈で一応は正当化される。

つまり?
財やリソースを生産するプロセスを破壊したらダメだ。ということです。

構造的に生産の度合いが消費の度合いより小さく、だから当然目減りしていく乏しい財や手間をかけて、いつか枯渇して、空気が止まってバタバタと窒息して最終的に全滅することを考え、何より嫌がる人、います。

そういう人が、

「プロセスの維持・拡大に割くリソースを、全て放棄して、こちらに直接渡せ。
は? そんなことしたら、プロセスの維持が不可能になって、その後窒息するだけだ?
お前の発言に信憑性があるとどうして思った?
はっきり言うが、こちらは当然それを言い訳として聞くし、そもそも信頼を毀つムーブをしたのもそっちなら、これを覆すムーブを一切してないのもお前なんだよなあ?
いいからリソース全部吐き出せ。死ね」


という話、まあ聞けない話ですよ。聞いてあげたいんだけどね。皆死ぬからね。そんな無責任なことなんか出来ないよ。
そんなものは責任ではない? ええー? それはいくら何でも無理な話だよ…

1_24_5_4.お偉方を子育て側が「仕事に全て捧げてここまできたイビツな仕事ブロイラーごときが」と「否定」したら、そりゃあ話なんか聞かれる訳がない

「お偉方は子供の養育者じゃないんか。自分が何者なのか分かってねえ。バカが。自分で育ててないやつらが言いそうな寝言だ」

こう思うじゃないですか。
これ、ヒラに言うならまだ通るんですが、お偉方に言って、通じる訳がないですよね。

***

お偉方は何でお偉方であるかというと、「職場に貢献した」と人事に認められたからなんですよ。
もっと言うと、子育てとか、「職場以外のこと」に費やせるリソースを、ふつうにサクリファイスして「職場」のために費やせる人が、出世する訳です。

これは、職場の身になってみれば、至極当たり前です。リソースをたくさん振り分けて、たくさん成果を出した方が、そりゃあ評価されるに決まってる。
そのリソースが元々「職場以外のためのもの」であり、「職場」に「費やされる」「べきでなかったもの」「であろうが」、そんなことは基本的には頓着しない。職場にとっては、その辺の、自分に関係のない御託は、基本的に価値がない。投入されたリソースが、仕事を円滑に出来るくらい潤沢だったか。という話の方が、余程重要なことだ。

そんなことの積み重ねとして、ごく当たり前の成り行きとして、職場のために働くと賞賛され、職場のために働かなくて子育てをすると「リソース泥棒」として侮辱される。
子育てに対して侮辱した人は糺されもせず、むしろ「成員の一員としての利害関係を弁えて、それに則って「リソース泥棒」を罰した人」として褒められる。
当然、侮辱された人は、「リソース泥棒」と見なされているから、慰められもしない。

じゃあ「最初から」職場のためだけに働き、他のことは考えもしないのが、職場で稼得するには最適解になる。そりゃそうだろうなあ。

***

で、そういう人たちに、「お偉方は子供の養育者じゃないんか」という類いの説得、通じる訳がない。
その人たちは「仕事以外何もかも犠牲にすることを要求されてきたし、それに応えて、ここまで来た」仕事ブロイラーたちだ。
「仕事以外を犠牲にした」人たちに、「仕事以外を犠牲にするな」という説得が、何で通じると思った?
その人たちは「子育てもすっ飛ばして専門化することで勝ってきた、ニッチで強い人たち」だぞ?
そんな、何でも屋になることが許される(ふつう、何でも屋は、それなりの余裕がなければ、なれない)、甘ったれたジェネラリストの理屈、鼻で嗤うだろう。
(後述するが)そうした人たちは、何ならこれで子供を大学まで送り出せているのだ。それはとてつもないことで、それを今更バカにしても、そりゃあ鼻で嗤うさ。タイミング的にも、十数年くらい「遅い」説得でしょう。「今更何だ」という話にしかならない。

こういう、タイミングの遅いコミュニケーションをする人、います。
色恋沙汰では、これですれ違いが生じ、辛くなるやつですね。
よくあるあれです。
で、会社のコミュニケーションの齟齬は、色恋沙汰と違い、地位と収入がかかっています。辛さのレベルがシャレになりません。

1_24_5_5.金銭的コストの人が労力コストの人を蔑んではならないように、労力コストの人が金銭的コストの人を蔑んでははならない

まして、その仕事ブロイラーたちの高給は、かなりの部分が子育てに対する金銭的コストとして消えているのです。
労力まで払っているかは知らないが。
もちろん、労力がなければ、実践としては何も出来ませんが、だからってそのためのリソースである金銭的コストを低く見るの、かなりヤバイと言えるでしょう。
いいですか。こんなことやってたら、「金銭的コストを負担するやつは立場の低い卑しいザコ」ということになってしまいます。実際、そう思われているし、何ならあなたもそう思っていることでしょう。
だが、じゃあ、「卑しい」とされた人が、「こんなナメたことを抜かす人のため」に、何で金銭的コストを負担すると思う?

もし、金銭的コストの比重の大きい人の収入が、仕事で発狂しそうな精神の平衡を保つために、部分的または全体的に使われていたとしましょう。
そんな「遊興費ごとき」のために、本丸の子育てのために費やせたはずの金銭的コストが、子育てのために費やされなくなっている。
これ、ケア価値や子育ての観点からは、もちろん「邪悪」ですよ。

でも、この観点を押し通すと、
「働け。稼ぎは出来るだけ子育てのために使え。
遊ぶな。その程度で発狂するくらいなら黙って発狂しろ。
何? 本当に発狂した? 何本当に発狂してんだ軟弱者が。
そんなことで発狂するんじゃあない」
という、支離滅裂な思考・発言みたいなことになる。これは避けがたい。人類皆イボグリくん。

支離滅裂な思考・発言私利私欲他人の迷惑しかない、「この主人公、殺すしかないんだが、どうやったら死ぬんだろう」という感情しか湧いて来ない、山上たつひこ『イボグリくん』

で、こんなもん、価値観としてはある種の「麗しい」綺麗事かも知れないが、もちろん完全に頭おかしい。
仕事ブロイラーが、こういうことを言う親に、どんな感情を持つかというと、
「頑張ったら罰が与えられた」
とか、
「盗人猛々しい」
とか、その手のやつになるんですね。

「人の仕事に敬意を表したくない」人を非難しながら、「自分は人の仕事に敬意を示さないし、何なら蔑む」の、まあ、ふつうに報復の対象になるでしょうね。本当に気を付けた方がいいですよ。

分業は大事ですよ。それをやらない限り、いつまでももたもたと片付かないんだから。
その上で、「他の人の仕事をナメるな」ということは、これは絶対に守らなきゃならない。
これをどちらもしないで、「分業そのものが邪悪」というの、一見麗しいですが、石器時代以前の正義でしかない。ダメですよ。そんなの。

1_24_5_6.絶対に駄サイクルに加担しないようにしていこうな

こうして、子育て側がとやかく言えば言うほど、職場は態度を硬化させるようになっている。
利害の相反する相手から、敵対的な言動をされたら、まあ、そりゃあ、「こいつは敵対的である」という解釈が、まずポップアップするに決まってる。
もちろんこれは「利益の相反する相手がする、敵対的な言動、誰が言うことを聞くと思った?」という反発につながる。
これは、こういう成り行きです。こうして駄サイクルが出来る。絶対にこの駄サイクルに加担しないようにしていこうな。

(続く)

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