見出し画像

随筆(2020/09/14):「犯罪は悪い」という話は、「刑法や警察が信頼に値しない」時に、無意味無価値になる

1.「犯罪は悪い」という話は、「刑法や警察が信頼に値しない」時に、無意味無価値になる

(注:今回の記事にはグロ画像が含まれています。閲覧注意)

あんまり政治の話をする気にはなれないのですが、BLM(Black Lives Matter。「黒人が生きてるってことを粗略に考えてやがんじゃねえぞ」)運動について考えていました。

事の始まり黒人の犯罪者の逮捕の際の不手際による死亡事故だったので、黒人を批判する時に
「犯罪は悪い」
という話が出てきます。

それそのものはもちろん当たり前なのですが、

「そういう話が通用するのは、刑法警察運用の制度に、それほど疑義がない場合に限られるんだよな。
アメリカ? そこが一番疑わしいという前提で、ヴィジランテ(自警団)が今でもたくさんいるんじゃねえか。
だから、『犯罪が悪い』以前に、『犯罪を定める刑法や、その運用に係る警察が、信頼に値しない』アメリカで、『犯罪が悪い』という理屈が、持ちこたえられる訳、なくないか?

という、おそろしく冷たい気持ちが湧いてきてしまうんですよ。

(道徳的な罪の話は基本的には一切しません。主軸は明確に「法定の」犯罪の話です)
(また、アメリカのBLMそのものの評価の話もしません。
口幅ったいからです。
いつから日本はアメリカの政治風土を査定出来る立場になった?)

2.鎌倉末期めいた「ナメられたら殺す」の世界に、現に逆戻りしている場合に、治安の良い社会のいろいろが、通用するとは到底思えん

「なぜお前らはナメられるのか。それはお前らに脆弱性があるからだ。反省しろ」
という人たちが、
「相手をナメることで、平然とした顔で脆弱性の押し付けを、しばしば刑法制度や、その実践である警察運用制度として、正当化している」
の、循環論法ですよ。
そういう循環論法、行政においては、場合によっては全く価値を持たないんだからな。
(この件については後で詰めます)

***

そもそも、これ、ナメられる側としては、
「ナメられたら殺す」
となるの、まあ当たり前でしょう。

***

もうちょっと治安が安定していればよかったのでしょうが、そうではなく、警察運用に信頼がなく、法運用が貫徹出来ないなら、
「犯罪は悪い」
という当たり前の話自体、
「法も警察も信頼ならない」
という現実の前では、ゴミ以下の価値しかありません。

個々の犯罪の定義そのものが、立法命令規則制定デタラメさの影響をモロに受けて、刑法警察運用によってデタラメに扱われている場合が、残念ながらよくあります。
そういう時は、刑法警察運用まるで信頼されていない
その帰結として、犯罪による逮捕訴訟刑罰妥当性すらもまるで信頼されてない
治安地獄になる。

そんな中で、
「犯罪は悪い」
という話、かなり非現実的な話であると言えるでしょう。

犯罪の前提の妥当性が疑わしいのなら、犯罪が悪さに包含されているかどうかすら怪しい。
その犯罪は、後述するが、「気に入らない相手を合法的に犯罪者として人権を制限したいので、誰かから任意に人権を与奪させろ」という発想から出ている可能性が、かなり高い。
この発想、ふつうは暴虐の支配者層が言うことで、直球の人権蹂躙ですよ。「何かすることを許したくない、妨げたい」というの、権威自由の倫理からすると、はっきりと「悪い」。
こういう言い方、悪者を作っているようで、本当にやりたくないのだが。
「悪い」暴虐の支配者層が定める犯罪の定義を、どこまで信頼出来る? 無理でしょ。

「悪いことに含まれているかどうかすら怪しい犯罪」、もちろん直感には完全に反するんですよ。
でも、「悪さに包含されているかどうかすら怪しげな事態」を、安易に犯罪にしたら、それは直ちに「悪いかどうかすら怪しげな犯罪」になる。これは避けられない。

「悪いものの中でも特に悪いものが犯罪として定められる」というのがふつうの考え方だが、これはふつう、立法側がまともな神経でそのように立法するから、結果的にそうなるのであって、断じて自動的になるのではない。
じゃあ、立法側がおかしな神経でそうでない立法をするなら?
そんなやつの立法によって定義された、刑法も犯罪も刑罰も、まともな神経ではまともに受け入れられない。
どうしてもそれはただの、倫理を欠く、悪しき暴虐でしかなくなり、だからこそ秒で守られなくなるだろう。
残念ながら、これ、自業自得としか言えないじゃないですか。

犯罪を本当に「特に悪い」ものとして位置付けたいのなら、ここでこんなバグった反例を作った時点で、ふつうそれが刑法体系そのものの信頼をほぼゼロにする、極めて典型的な脆弱性となってしまう。
「犯罪には、悪いかどうかが怪しいものも含まれている」
と思われるの、まあ嫌だと思うんですよ。
だが、じゃあ、わざわざ反例を作る愚劣な立法や命令規則制定をするな。そういうところだぞ。

***

で、メチャクチャ嫌な話ですが、そんな状況下だと、警察が信頼ならねえんで、「悪そうだ」と勝手に判断した相手を、自警団が私刑(リンチ)で吊るし殺すことが、ふつうに発生しますし、というか横行します。 
これでは、刑法にない倫理的な罪をもって吊るし殺していたり、もっと悪い時には気分で吊るし殺しているのと、原理的には何も区別がつかねえ。話にならねえ。

(歴史的には黒人はしばしば自警団吊るし殺されて来た側で、その不信は根深いと考えるのが自然なのですが、もちろん黒人が暴動を起こして誰かの生命身体財産を破壊することも、別に正当化や肯定は出来ないんだよなと考えてしまいます。
そういう意味で、BLM運動には、だいぶ距離を感じる

(というか、私はアメリカ自警団の文化を、
司法警察信頼を得られなかったし、紛争解決を仕切れなかったので、紛争解決の仕方も鎌倉末期どころか平安後期みたいに自力救済にならざるを得ないが、それにまつわる問題も当然もりもり食らっている
パターンの一種という風に見ているので、
司法警察紛争解決完全に仕切って、比較的スムーズ
な今の日本の地方公僕をやっていると、あまり自力救済型のアメリカの紛争解決システムに乗れないんですよ

(お前はいつから他所様の政治体系に上から目線で口出し出来るようになった? 口幅ったいぞ)

***

公僕としての反省としては、刑法を立法する議会や、裁判所や、警官等の公僕が信頼ならないとこうなるんです。
行政の話だけすると、行政は市民からの不信の制度的な突き付けによって健全性を保たれるが、市民からの信頼がないとなると、そもそも存続すら危うい。何なら「役所の役人や警察の警官等の公僕が」真っ先に虐殺されるまである。

というか、だから、選挙による、長や議員の、人事権に係る操作は、非常に効果的なんだ。
信頼ならない長や議員ではなく、まだしも信頼できる長や議員が、政策を左右する立場に就けるからね。
信頼ならない長や議員わざわざ吊るす必要がなくなる。これはお互いにとって、命のかかったとてつもないメリットだ。

そして、市民のかなりの多人数の行うデモによる
「我々市民行政警察信頼してねえし、協力など真っ平御免だし、非協力の限りを尽くす」
という意思表示は、犯罪行為に発展しなくとも、行政や警察にとって、十分に脅威なのです。
支持されていない役所の役人や警察の警官など、自警団にとってはおもちゃ人間松明か、人間てるてる坊主でしかない。
正に人間松明人間てるてる坊主として面白おかしく遊ばれてしまうことでしょう。
そしてそれが当たり前になるでしょう。

そうなる前に、役所警察が、というかその上の議会や委員会が、
「これはまずそうだ。どうすれば収まる?」
と考える。デモをしている人たちの要求真剣になる。ここが非常に大事です。

(なお、
「あえて動員しなければ成り立たない、参加者の大半が自発性を欠く類いのデモ」
に対して、役所や警察や、長や議会や委員会は、
「それ、一部の煽動者のニーズでしかないじゃん。譲れない切実なニーズがあるとは到底思えないので、まともに聞く気になれねえ」
と、完全に塩対応になります。当たり前だけど)

(なお、私も、労働三法の保護を、つまりは人権不十分にしか持たない、公僕ではありますが、依然として労働者の端くれでもある訳です。
なので、高度な技術を要する追加作業タダ働きでやらせる職場に対しては、メチャクチャ文句があります。
しかし、労働組合には
「職場がタダで浮かせた支出の浮きを、それなりの割合で労働者(俺)に寄越せ」
という交渉を期待しているのであって、その他のことには何も興味がない訳です。
まして、ニーズと関係ない非自発的なデモ動員、やる訳がない

「デモで生命身体財産の破壊が相手方に意識されてるの、犯罪行為として問えないのか」?
今までの話を繰り返すことになるが、実際には、そういう運用にならねえし、現になってねえんだから、その話、ゴミ以下の価値しかねえんだよな。

だから、そうなる「前に」、交渉は、妥協点レベルまで、飲まなきゃならんのよね。

「それは脅迫であり、犯罪行為だ」?
これをそのように定式化することには、大きな問題があります。
要は、その理屈を採用すると、役人や警官は、自分達がある日全ギレした市民に吊るし殺されるリスクを、まるで予測出来なくなる。
そういう最悪なリスクを、役人や警官は負いたくない。
あらかじめ「ここは譲れないが、そうでないところは、本当に突っ張るべきか検討する」判断をしなければならない。
そういう判断を、情報面でまず妨げるような立法は、まあ忌まわしいですね。
役人や警官が吊るし殺されると嬉しい、覚悟完了した議員、あまりいないと思う
のです。
が、結果だけ見れば、死地と知らせずに、無言で死地に追いやったのと同じですよ。
立法にまつわるリスクの話もしたいのですが、ここは後で説明します)

***

とりあえず、

「ナメるな。
ナメた上で不利益を押し付けるな。
特に、他の人ならふつうにやれたはずのことが、自分たちの場合はやれないし、罰の対象になる。というクソみたいな不利益を、余儀なくさせるな」

という話は、

「これをやる気がない限り、その行政区画は、鎌倉末期の日本と同じ治安の悪さしかもたらされないだろう」

という話を暗に意味するくらいには、非常に大事な話だ。

***

ここを達成しない限り、そういう人達に対する福祉はなくならないだろう。
まして、その福祉「特権」と見なすの、

「そもそも不利益取り扱いをやめない限り、行政はそれを補償するための福祉をやめないぞ。福祉とはそういうものだからだ。
平等の観点から福祉をなくしたいのなら、平等の観点から不利益取り扱いをやめろ」

という話にしかなり得ないんですよ。
ここに触らないでいる限り、実際の格差と、見た目の不公正感と、治安の悪さだけが、果てしなく強まって深まっていく。
ここは、真剣にならねばならない。特に、福祉行政と警察行政は。

3.「気に入らない相手を合法的に犯罪者として人権を制限したい」動機、誰かから任意に人権を与奪出来て当然だと勘違いしてやしまいか。それ、致命的ですよ

同時に、我々も公僕であるので、
「気に入らない相手を合法的に犯罪者として人権を制限したい。そいつらを、シュラスコやケバブや北京ダックめいて、串刺しにさせろ。吊るさせろ。焼かせろ。
それを妨げる行政や警察は、正義の地上代行者として責を果たしておらず不正であるから(???)、シュラスコやケバブや北京ダックめいて串刺しにして吊るして焼く。
それが嫌なら、言いなりになれ」
という要求は、今度はそれこそ人権や治安のことを考えたら、絶対に飲めないわけです。さっきもちょろっと書いたけど。

そもそも、
「気に入らない相手を合法的に犯罪者として人権を制限したい」
という、誰かから任意に人権を与奪出来る勘違いしてやがる、人権の意義を欠片も理解していないクソみたいな動機がある訳です。
そして、私は公僕なので、こういう姿勢を心底忌み嫌っています。
まして、
「そういう動機で、摘発の基準を雑に緩くする、立法や命令規則制定を行う」
ことに、完全に拒絶の態度しか取れません。

表現の自由関連でも、政治的正しさ関連でも、フェミニズム関連でも、
「気に入らない相手を合法的に犯罪者として人権を制限したい」
というのがまかり通ることが一番良くない。

犯罪者扱いすることは、ふつうは誰かの人権を合法的に任意に与奪するための、一番現実的な手段だ。
そして、かなり多くの人が失念しているが、人権とは、かなり長い間、「身体の自由」を特に重い比重で意識していたものだったはずだ。
特に身体刑(中でも死刑)を手段とした、恣意的な刑法の運用は、当初の人権思想家が、非常に忌み嫌っていた、呪わしいものだったはずだ。
今でも独裁国家ではこれが横行しているんだから、何ら昔の話ではない。
そして、そこにおいては、身体の自由は、ふつう、守られていないではないか。何かあると処刑されるではないか。
それを見て、我々は、
「ああ、この行政区画では、『人権』は、守られていないなあ」
と感じる訳ではないか。
要は、
「誰かの人権を合法的に任意に与奪する」
という動機で、犯罪や刑罰に係る立法や命令規則制定を行う時点で、人権は基本的に丸っきり尊重されていない。

そして、あまり認める人はいないと思うが、日本の治安は、まあ、いい方でしょう。
これは、何度も繰り返すが、刑法や警察運用が、誰かたちの恣意によってデタラメにされていないことに基づく信頼があるからだ(恣意であることもそうだが、デタラメであることの方が、より怖い。対処の仕様がないからだ)。
だから、これを失いたくないなら、刑法や警察の側は、市民からの信頼を失わないようにしなければならないし、それと同じくらい、嫌いなやつの人権を与え奪うために、刑法や警察の運用を恣意的に行わないよう、腹を括らねばならない。
これを粗略にしたら、日本は十年単位で、鎌倉末期と同等に落ちるだろう。

4.循環論法ごときで、人権の制限のために、公権力や刑法や警察運用を壟断したら、それらの信頼は失墜するから、期待とは全く逆に、治安は超高速で壊れる

それに、正しさの前提を担保できない、空虚な理屈そのものが、ある種の人たち(特に予算が問われる、政策における、参与機関や諮問機関)にとっては、文句無しに直ちに除くべき脆弱性です。
だって、これ、予算にいっちょかみして税金を横取りして、同様に公権力に横から手を突っ込んで勝手に使うための、クソみたいな言い訳にしか聞こえないんだから。

いいですか。

「なぜお前らはナメられるのか。それはお前らに脆弱性があるからだ。反省しろ。
かつ、我々は相手をナメることで、平然とした顔で脆弱性の押し付けを、しばしば刑法制度や、その実践である警察運用制度として、正当化する」

という、自己撞着的な循環論法を振り回す人、やめた方がいいですよ。
下手すると、いつか自分が除かれますよ。それも、身体の自由絡みで。
出来ればこういう事態は避けていきたんですよ。人権を守らせない手段として、かなり最速かつ最悪のやり口だから。
本当に気を付けていきましょう。

応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。