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随筆(2020/9/12):勇気ではなく、欲望による、「やっていきましょう」の精神(下)行政罰と、民事罰と、刑事罰を、避ける

9.他人を巻き込みたくないが、たいてい、巻き込まざるを得ない

そして、そういう偵察なり威力偵察なり、見切り発車ぶっつけ本番なり、繰り返しやり直しなりを、連発する。という覚悟を決める場合。
ごく当たり前の話なのですが、こういう声が聞こえてくることがあります。

「もし、えげつないレベルの失敗をした場合、他人を巻き込んでしまって、自分自身は社会生命が断たれて、広域的に破滅するんじゃないか?
だったら、いくら何でも、慎重にならざるを得ないぞ。
事前情報がないまま、他人の巻き添えと自分の社会生命をガン無視して突っ込むの、愚の骨頂だ。

え?
「要は勇気がないんでしょ」?
アホか???
自分の社会生命が断たれるのはそりゃあ怖いが、それだけじゃないんだぞ。
他人の巻き添えがかかっとるんやぞ。
それは、自分一人のことより、もっとずっとおぞましいことだろうが。
自分のことは当然責任取らなきゃならねえが、他人の巻き添えを平然と起こした奴の責任、とてつもなく重いんだぞ。分かっているのか?

自分の耳には、あいつらの言い様は、「そんなことはどうでもいい。現にうまくいったではないか」と言ってるようにしか聞こえない。
だとしたらあまりにも脳内の倫理観の治安が悪すぎる。無責任もいいところだ。
この手の生存者バイアス塗れの狂人の言うこと、何も参考にならねえ

ええ、まあ、それは、分かるんですよ。ごもっとも。

***

でも、他人を巻き込みたくないが、たいてい、巻き込まざるを得ない。
世俗世間人の社会ですので、そこでなんかやる以上、人を巻き込む可能性は、かなりある。それは、そういうものだ、と見た方がいい。

大事なのは、
他人を巻き込むのはやむをえないにせよ、どこからがギリギリアウトで、どこまではギリギリセーフか
ということであり、それに尽きます。

10.個別の個人のニーズや、特殊な仲間内の内輪の話は、一般常識と区別が難しい。そこら辺の混沌から出た禁止は、結果的には何もかもを禁じることになる

巻き込まれる人それぞれによって、何がどうしても許せないかは、違う。

それは当たり前だが、言う側は当然、自分のニーズを重く見て、あることをしないように相手に要求している訳だ。
しかも、ここからがマズイ話だが、言う側自分のニーズと、世俗世間一般の常識を、究極的には見分けられないから、聞く側は当然これを
「ああ、この手のことは、『常に』『全く』やってはいけないことなのだな」
と学習する訳だ。
これでは、「これをするな」と言われた側にとっては、何をやっても全てリスクだ。

「そんなアホな話があるか。分からないのか?」
と言われるかも知れない。
そうじゃない。むしろ、当たり前の話なんですよ。こんなの。
何しろ、
「この手のことを、『こういうとき』に、『こんな形』でやってはいけない」
というの、言う側はふつう言わないからね。
だって、言う値打ちが感じられないもんな。
「とにかく何でもいいからやめろ」
と思うのが自然だし、その辺の解像度を上げるコストを、今困っている身で、さらに身を切って割きたくないじゃん。

でも、残念ながら、困ってる人が説明しないと、聞く側にもし聞く気があったとしても、困っている人のお望み通りにはやれない。
というか、やることなすことデタラメになるだろう。

そもそも、言う側と、聞く側では、見えているものが違う。
聞く側は、言う側の説明を受けないと、言う側の認識がまるで理解できない。
これが基本中の基本だ。そしてこれは、解決の不可能な構造的な問題だ。
というか、
「共通認識が成り立っていないことが、そもそもの揉める理由である」
ということが強く疑われる場合、
「共通認識が当然成り立っている」
という前提で臨んだらダメなんですよ。
その共通認識が成り立ってないことが、問題の要になっているんだから、これだけは絶対に避けなければならない道理だ。

「知らないとちゃんとやれない。
説明をしないと相手に伝わらない。
しくさの暗示は説明の明示より説明力が極端に低い。
なのに、しぐさに頼る人は、そこの説明力を極端に見誤る」

これでは話にならない。

***

ここで、
「このくらいは分かっていて当たり前だろう」
という信頼が、実は危ない。
それは言う立場の側
「説明したくないなあ」
と思った時に出てくる、
「このくらいは分かっていてくれないかな」
という横着で勝手な期待と、見分けなんかつかねーんだよな。

「自分の頭で想像せえ」?
いやいやいや。
相手の行為がダメなのに、相手の想像力が信頼できるの、全くない話ではないが、かなり異常な発想ですよ。
これは、しばしば、説明したくない横着を正当化しているだけでしょう。

「聞き返せばええやん。質問しろ」?
自分が相手に
「質問すればちゃんと答えてくれる人だ」
思われてない時点で、こんな話してるの、間抜けの極みだ。
ふつう、言う側が聞く側を結局は何も信頼していないのと同じで、聞く側も言う側をまるで信頼していない。ガーガーわめく親くらいには面倒がられているし、
「何を質問しても回答しても話が通じないやつだ。
じゃあ、話をするだけの地位、認めがたいではないか」
ともふつうに思われている。よくあることだ。

「世俗世間的な常識で考えろ」?
私はこういう話を何一つ信用しない。
言うまでもないことだが、こんなセリフが出て来るということは、これを言う人たちと、これを聞いている人たちの間で、トラブルが発生しているからだ。
さらに言うと、言う側と聞く側の常識がかけ離れているせいだ。
で、言う側は、自分たちの仲間内の常識と、世俗世間的な常識を、究極的には見分けられない。
しばしば、それは、自分たちの仲間内の常識ではあっても、世俗世間的な常識ではない。
さっきと似たような構図が、ここでも出て来る。
そして、繰り返すが、これはふつう、解決の不可能な、構造的な問題だ。

***

そういういろいろの帰結で、当然ながら、一般的な規範みたいな面して、膨大な「あれをするな、これをするな」を呑み込まされると、最終的にそれらの総和として、

何もしなければ怒られはしない。
とはいえもちろん、何もしないやつはまともな人間と見なされない

という、どちらを選んでも不幸になる二者択一を、多数の言う側に強いられているということになる訳だ。

じゃあ、『粗略に扱って良い子ちゃん』をやるか、そういうのに自我ある心身が耐えられなくなったら、どんだけ怒られようがガン無視してやっていくしかなくなっちゃうんですよね。
後者、もちろん、メチャクチャ迷惑ですよ。
でも、前者をすると、『都合は良い子ちゃん』扱いされるが、まともな人間と見なされないんだからな。自我が生えていたら、そりゃあこんなもん嫌なことだろう。

良い子をやりながら実践する?
それ、あらかじめ答えが見えている人にしか不可能な要求でしょう。
そしてもちろん、たいていはそんな状況ではありませんので…
そういう状況で、既知の貧弱な正解に囲まれて、既知の問題を何も突破出来ないと、そのまま死んで行くので…

11.行政罰と、民事罰と、刑事罰と、それらの事件に巻き込まれることと、後遺症を残すことと、死ぬことは、とにかく避けねばならない

「ったくよぉ~、本当に分かってねえんだな。
巻き込まれた側は、そんな話とは何ら関係なく、まずは巻き込んだ側をたいそう恨むんだ。
された側の気持ちを考えろ

「この節では正にその話をするんだよ」

「?」

訴訟の話だよ。それが訴訟に値すると信じるのなら、裁きに遭わせてやりたいという気持ちが強いのなら、それは、やれる訳だ

「は!? 何言ってやがる!? 精神の平穏なり静謐なりということが、何にも分かってねえな!?

「は・あ・あああー!?

分かってないのはどっちなんですかねえー!?

「面倒な案件でごたごた抜かすやつは袋叩きにして黙らせる」
という圧
があるから、黙ってしまう人が出てくる訳だろうが。
お前らはそれを絶対に否定しないし、少なくともダメージから守るつもりがねーから、不確定なリスクではなく、高確率で予想される面倒ごと面倒がって、深く考えずに安易に黙らせようとしてるんだろうが。

当然、誰かを袋叩きにする人は、その誰かにとっちゃ、に決まってる。
もちろん、これを肯定する人敵の味方だ。
ついでに、これを黙認する人は、敵ではないかもしれないが、味方でもない、いてもいなくてもいい、ただのドテカボチャだ。

「これをやったやつと言ったやつは根こそぎ名誉毀損で訴えてやる。
ボコるのは弁護士の技能と実践だが、断固として私の感情と意思だ。
当然、自分の舌禍で高い代償を払う覚悟は、出来ているんだろうな」

ブチギレる人、世の中にはたくさんいるんだよ。当たり前だろうが。

それを、おためごかしで黙らせようというやつ、何一つ信頼に値しねえよ。

平穏や静謐を送りたい人のみならず、ノシつけて返させたい人がいる。それを見ないふりしてんじゃねーぞ。

本人が楽になりたいという話はもっともだよ。
そりゃあ、平穏や静謐が直ちに欲しい人は、それに何ら効いて来ない話に、苛立つかもしれないよ。

だが、「平穏や静謐になりたい」という気持ちに加えて、「自分の願い事が叶って欲しい」という気持ち決して見落とさないように、あくまで訴訟のオプションは絶対に示すんだよ。
ノシつけて返させたい人を目の前にして、要するにその話をとにかく全部塞き止めたのだとしたら、その人たちは絶望と諦めに身をよじって、首括って死ぬこともありうる。
というか、ごくふつうにありふれたパターンだろうが。
そういうの容認出来る訳がねーんだよ。

明らかにさっきまで、お前の視界に、そういう人たち、存在しないことになってただろ。
で? 正に今、
「そんなことはどうでもいい」
とは、よもや言うまいな?

歩行困難な相手から車椅子をあらかじめ隠しておいて、
「もう歩かないでいいんだよ」
というやつ、クッソ優しいっすね。
俺はそういうの御免蒙るんだよ。クソが

***

まあ、そういう訳で(どういう訳だよ)、他人を巻き込むことで、許されるところ許されないところを見分ける、非常に分かりやすい一線の基準があります。
「自分のやることが、端から見れば、逮捕や訴訟したくなるようなものであるかどうか、冷静に考えねばならない」
ということです。
要は、それが、
「外形的なレベルで、行政や司法にかかる罪や罰を問われるもの」
なら、それは端的に、
「してはならない」
決め打ちで見立てて、それをとにかく避けて動く。これが肝心です。

***

少なくとも、許せないものの一部に対して、公からの罰がある訳だ。
逆に言えば、公からの罰があるものは、少なくとも、許されないものの、明確な一部である。
見分け方としては非常に分かりやすいものでしょう。

世俗世間全体について、それなりの責任感を持って考えてはいる、公の機関。
その中でも、行政司法にかかるを問われるものは、それ自体、余程のことだと見るべきです。

***

「どう見ても納得の行かない罪や罰もある」?
それは投票の時に考慮した方がいいですね。
立法民選代議制議会は、市民代議士を介して、法の体系そのもの
「でも、これやけど、ここに、クソがこびりついとんのや」
異議申立てを行える、非常に強力な対法体系制度です。
だから、法の体系そのものをシメるために作られた上位概念であり、対法体系制度の極みである憲法で、しばしば制度として強烈に守られているんだろうな。
(これも、ある種、三権分立の意義の一つであると言えるでしょう)

でも、を、特にに係るところを、正当な手段で覆せないなら、そこは従わなければならない。

***

つまりは、こうです。

第一に、とにかく、やらねば、話にならない。

第二に、世俗世間やっていく以上、行政罰と、民事罰と、刑事罰は、とにかく避けねばならない。
世俗世間に責任を負う、行政や司法が、罪として扱い、罰を下すくらいには、それらは「許されていないこと」である。

また、罪や罰の概念で発生を抑止しようと思うくらいには、行政罰・民事罰・刑事罰問われるような事件は、巻き込まれた側にとって、大きなダメージをもたらすことである。
まして、ダメージが大きすぎて、後遺症が残ったり、あるいは死ぬの、最悪だ。真っ平御免だ。

だから、法定問われるものを、やるのも、食らうのも、避けていく。

第三に、この二つをクリアした上で、ようやく、
「やったことにどれだけの成果が伴ったか」
が問われるフェーズに入ることが出来る。
全て、ここからの話だ。

そんな感じですね。
(いじょうです)
(案外今回は手短に終わったな)
(上中下もやっておいて短いとか、正気かオメー…)

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