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随筆(2020/10/9):自然法や人権の実在論など、本当はどうだってよいのだ(それはなぜか)

1.「自然法も人権も否定するとなると、お前らが困るんだぞ」という言葉には脆弱性があり、少なくとも「自然法や人権の実在論」という袋小路は避けねばならない

自然法人権否定するとなると、お前らが困るんだぞ」 という話を見て、公僕としてはいろいろ思うところがある。

否定というところで、実在論の話を持ち込んできて、「実在しないから否定する」という立場の人、かなりいる。

この人が実在論を想定しているかどうかは知らない。そうではないことを祈る。それは袋小路だからだ。それについて、これから書くんですね)

2.自然法や人権の実在論など、本当はどうだってよいのだ(それはなぜか)

正直、自然法や人権の実在論など、本当はどうだってよいのだ。仮定でいいんですよ。数学と同じで。

自然法人権は、機能しない困るから、『未来に実現することが仮定されるもの』として要請されるのであって、実在するかどうかなんかどうでもよくて、仮定でもいいんだよな。と同じだ。そこで仮定を嫌って実在にこだわるから突っ込まれるのだ」 と、私は考えているんですね。

数学で、というものは、説明には猛烈に便利な用語ですし、理にもかなっていますが、ふつう全部ZFC公理系という仮定で成り立っているものです。 で、じゃあ、 「架空のものだから説明に使うには怪しげなものであり、そんなものに頼ってはならない」 という話、論外でしょう。自然科学すら組めなくなる。

仮定だけで理論組んで、説明に向くかどうか見る、数学理論物理学の態度は、「開き直り」に見えるかもしれないが、少なくとも過去や現在において現実にあるかどうか不可欠なのではないような、記述的じゃない系の、倫理学法学などのジャンルの人は、これを「開き直り」と思ってちゃダメなんですよ。大事な話だ。

あと、カント『純粋理性批判』で、について、 『観測される事実と、理論上の要請は、別々の間接的なものであり、直結しない。 神は理論上の要請でしかない。 だから、神を仮定すればよいのだ。 それを越えて、神に観測的実在まで要請するの、無駄』 つって、神の実在の立場を一蹴したの、大事。

自然法や人権に対する私の立場は、「それが要請されているから、これが実在するか否かという話は一蹴して、『あった場合有難いし、ないと人が困るから、採用して、実現を目指そう。ただし組み方が下手だと、困った社会制度になるから、役に立ってちゃんと回るよう理にかなうように組もう』というところだけ見るべきというもの」です。

要は、要請されているかどうかのフェーズで、仮定か実在かの話にこだわるの、無駄なんだ。 「こうすれば困らなくなるから、こういう約束事にしましょう」 という、仮定でいいのだ。 もちろん複数約束事衝突して有害なら、それは調整せなならん。 法学も数学もカント神学も、そういう立場でしょう。

3. 「今要請されるかどうか」 の話に、 「元々はこうだったからだ」 という理屈、関係ない

そもそも、 「今要請されるかどうか」 の話に、 「元々はこうだったからだ」 という理屈、よく考えたら関係ないですよね。

「実現してない実現させたいもの」「いつか実現させるべきものとして仮定する」べきなのであって、それが「実在するから正しい」という理屈に持ち込むのはよくない。

実在するかどうかはどうでもいいということは、実在するかどうかは怪しいのだし、そこで実在にこだわってしまうと、「実在せんやんけ。嘘つきは信頼に値しない」と突っ込まれる。で、不信も、伝える真実を成り立たせる時に、その基盤としての人の信頼物事の信用を大いに損なう。こんなことを、「真実を伝えようとする」側が、何でやるんだろうな。恐ろしいことだ。

この手の実在論を持ち込むの、反例で脅かされる脆弱性を、わざわざ作る宿痾なので、本当にやめた方がいいですよ。 「だが、今、ここで、正に、要請される」 それでいいじゃないですか…

平たく言えば、「数は実在しない」 というのと 「数は説明に役立つ」 というのと 「数は理屈にかなう」 というのと 「数論と論理学の間にはなんらかの問題がある」 という話、区別される。 実在仮定の話をする限り、この手の話は、ある。 自然法も人権も、もそうだ。 実在論にこだわらない。

4.仮定のものに実在を要請するの、反例とやらに信頼を毀損されるから、ダメなしぐさだ

仮定のものに実在を要請するの、ダメなしぐさだ。特に、人権に関しては。 「自然法や人権が実在するか(これは極めて疑わしい)」という話、本質的にどうでもよくて、「自然法や人権が要請されるか(これは猛烈に要請される)」という話こそが大事なのだ。そしてこれらは決定的に違う。

残念ながら、人権の、特にかなり大事なものである私有財産権においては、反例とやらは、明らかに実在する。「人類が生じた時から備わっていて当然のもの」という、世俗世間でよく言われる話は、様々な証拠から、疑わしい。

例えば、遊動型バンド社会狩猟採集民古代国家(クニ)首長制社会部族社会(ムラ)以前のほとんどの社会で、確認されているあり方は、まずこれだ)では、私有財産権忌まわしいもの、反価値的なもので、共有が正しかった。「皆で共有をしろ。ガメてんじゃねーぞ」とこうなる。私有財産権はおそろしく限定的にしか認められていないか、まるで認められていないか、というケースが極めて多い。

だからって、今、私有財産権を否定できないだろう。私有財産権は明らかに強く要請されているし、これがなくなると猛烈に困る。言うまでもないことだ。

だから、 「最初の在り方をねじまげさせない」 という、世俗世間で人権を説明する時に用いられる(し、学者もこれを特に妨げない)理屈、貫徹出来ない。 「これは今要請されるから仮定する。 で、仮定には誠実であらねばならない。 そうやって、最終的に要請と仮定が合わないなら、要請か仮定かのいずれかは諦めざるを得ない」 という態度の方が、明確に「誠実」であろう。

たかが単なる実在論の周辺をうろついて満足せず、幽霊みたいな仮定に対しても、「誠実」に行きましょう。それは結局、単にクソリアリズムをやるだけでなく、ここではないどこかに「行く」、ここにはない何かを「創る」なら、避けられなくなってくるだろう。そんな感じ。

(いじょうです)

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