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大人になってから初めて見た千と千尋の神隠し

今まで何回か観たことはあるが、最後に観たのはいつだったか覚えていない。多分、ここ10年は1回も観ていない。ストーリーは何となく覚えているが、よく理解しないまま見ていたと思う。そして僕はこの作品がそこまで好きでもなかったし、何故世界的に評価されたのかもよく分からなかった。豚になったお父さんお母さんや、暴れるカオナシなど、少し気持ち悪いと思う描写がいくつかあることもあって、(金曜ロードショーで放送されることがあっても)いつからか観るのを避けていたのかもしれない。しかし今日、24歳になった今改めて観れば何か違う受け止め方ができるかもしれないと思い、映画館へ観に行った。

映像、声、音楽、ストーリーで構成された映画をただ言葉だけで表していくのはかなり情報量を圧縮する行為であり、言葉の力を過大評価していることになるのかもしれない。しかし、本作品のテーマは名前、言葉の持つ力であり、だからこそ言葉で感想を表現することに意味があるのではないかと思ったのでnoteに書くことにした。僕自身は言葉の力をあまり高く評価していない。暗黙知や感覚、直観の方がよっぽど人間の持つ能力の中で優れている(生きていく上で役に立つ)と思っている。さらには、この先AI技術が発達した遠い未来では言葉を介さずとも思考の伝達ができるようになるかもしれない。そうなった世界では言葉は今以上に無力かもしれない。つまり客観的に見て言葉は大したものではない。しかし本作品でも言葉の持つ力が論理的に語られているわけではなく、神隠しという極めて非合理的な現象の上で訴えられている。つまりフィクションなわけだ。フィクションは信じるものだ。

豚になった両親とならなかった千尋

神様の食べ物を勝手に食べてしまったために豚にされた千尋の両親だが、ここには社会風刺的な面を感じた。屋台の食べ物を食べ始めた直後、まだ姿は豚になっていないときから既に実質的には豚だったように思えた。目の前の食べ物に思考停止状態で食らいつく姿は家畜そのものである。子供(千尋)の持つ絶妙な感覚、屋台を前にして何かやばいんじゃないかと思っているあの感覚は大人になった両親からはもう失われてしまっているのだ。知覚の喪失と思考の停止、現代の典型的な大人の欠陥を表しているように思った。思えば最初の車を停めてからトンネルをくぐって屋台へ向かっていくシーンでも、両親は千尋のことをほったらかして自分の思うままに歩いていってしまい、娘に注意を払おうとしない、まさに知覚の喪失と思考の停止が現れていた。

カオナシと金に群がる従業員

宮崎駿監督が「現代の若者をイメージした」と語るカオナシ。自身のアイデンティティーを見失い、社会との接続感も失ったカオナシはスポットが当たることも多く、そのキャラクターが際立って理解されやすい。(僕が子供の頃に観たときはよく分かっていなかったが。)一方、カオナシがばらまく砂金に群がる油屋の従業員たちはなかなか注目されづらい。しかし僕は、カオナシよりもむしろ大勢の従業員の方に絶望感を抱いた。(リンを除いて)みんな同じような顔をしていて、同じように金に群がる。餌に群がる豚と本質的に何も違わない。この様を子供の頃に観たときにはそこまで違和感を感じなかったが、今回観たときには酷く醜い光景に感じてしまった。僕は普段拝金主義者のことを少し軽蔑して生きている。いつからそうなってしまったのかなと思っていたが、それが子供の頃に観た本作品だったのではないかと今日気づいた。金を一切欲しがらない千尋を見て、何となくこの子は正しいと感じたからだ。千と千尋を見て植え付けられた価値観を、再び千と千尋を見て認識させられたようだ。

一度あったことは忘れないものさ
思い出せないだけで
(銭婆のセリフ)

千尋の成長

最初は恐怖と不安で押しつぶされそうになっていた千尋が、次第に自信をもって迷わず前に進むようになっていく。水道管の上を渡っていくシーンなど、運よく上手く行ったところもあるが、それが必然のように感じる。それは千尋が迷わず決断を下し続けた結果だ。ゾーン状態に入っていたようだ。脳波で、ガンマ波に入る直前には強い不安に襲われるらしいのだが、それに近いものを千尋の精神の変遷に感じた。終盤の気持ちのブレなさは悟りの境地のようだった。若い人たちに希望を持ってもらいたいという宮崎駿監督の思いが感じられる部分でもあった。

千尋とハク

自分を助けてくれた恩を返すためにハクを必死に助けようとする千尋の姿は素晴らしいのだが、ここで重要な視点を忘れていた。最初に助けたのはハクなのだ。千尋が油屋に迷い込んだときもそうだし、幼少の頃千尋が川に溺れたときもハクがまず助けてくれたのだ。何が言いたいのかというと、恩返しをできるということは、最初に恩をくれた人がいるということだ。この世界が返報性の原理で成り立っていることは間違いないが、最初にgiveする人がいてこそ回っていくのだ。(おそらく、1人目のgiverが最初から見返りを求めていたとしたら上手く回っていかない。)ハクが初めに千尋を助けた理由はわからない。理由は無いかもしれない。助ける理由は無くても助けるということの重要さを気づかされた。

名前、言葉

この作品の主題である。小学生の頃、国語の授業で「言葉が先か、物が先か」というような問題が提起された評論を読んだことを覚えている。言葉は単なる記号でしかない。しかも解像度はとても低い。そんな印象をそのときから僕は持っていた。いや、実際その通りなのであるが、ハクが名前を思い出したとき、僕は心の底から感動した。言葉に霊的な力が宿っているように感じた。自分に名前があるということ、その名前を覚えているということ。それがどんなに素晴らしいことなのかをこの作品は教えてくれたと思う。さらには、言葉によって人の心は動かされるのだということを、本作品とその主題歌から体感することができた。またその裏返しで、言葉の暴力というものもやはり存在するのだ。言葉で人は死んでしまう。言葉は単なる記号だ。しかしその記号と、私たちの感情は切っても切り離せなくなっている。良い意味でも悪い意味でも。

言葉を扱うことは、人と接することであり、自分を導く行為だ。丁寧に、大事に扱っていきたい。

果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
/ いつも何度でも

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