C7Cでのトーク

2017年10月21日に行われた、名古屋C7C galleryでのアーティストトークの内容を掲載します。アーキビストの井波吉太郎さん(世田谷文学館学芸員)をお招きしてトークを行いました。


(井波)Bodyscapesは新作のシリーズで、今年に入ってから形にしてましたよ      ね。まだ制作中?

(北沢)まだ制作中で、あと1年は続けると思います。

(井波)今年の6月、東京都美術館で初めてこのシリーズを展示して、今回の個展ではその時に展示した作品もあれば、今回のために作品として形にしたものものある。
どうしてこのシリーズを作ろうと思ったのか。この作品に込めた意味、Bodyscapesで何を表現したかったのか。

(北沢)「この作品のコンセプトは・・・」というふうに話せないので、この作品になったモチベーションを話した方がいいかなと思っています。
今は良くなったけれど、小さい頃からアトピーがひどかった。食べ物に気をつけないといけないし、症状によって身体・精神面が過敏になった。紫外線アレルギーもあり日光にも当たれない。そういう幼少時代を過ごすと、自分の体に執着するようになる。成長してからも体の変化が気になったり、痩せなきゃいけないと強迫観念になって、昔ほどではないけれどそれが今でも続いている。今でも毎日お風呂に1時間は入らないと気が済まないというような。体というものに良くも悪くも執着があります。

(井波)それは、まず自分自身の体に興味がある?人に対しての身体への興味というか。

(北沢)写真を始めてから人の身体に対しての興味を持ちました。

(井波)それまでは内向的に、自分のことに対して悩んでいたと。でも作品に撮るとなると基本的には第三者を撮ったりするから、ちょっとそこは違う。

(北沢)自分にとって写真を撮ることは、人と交わるとか外に出て行くとか、そういうことをしないとできないというのがあるので。
一番最初にできた作品みたいなものが「Identify」というタイトルで、その時に自分自身を表現するみたいなことは完結していたけれど、その次の「CONTACT」というシリーズでもそれがゆるやかに継続していく感じだった。その時は自意識みたいなものを撮っていたと思います。(CONTACTシリーズにある)手の写真も、多分自意識みたいなものを撮っている。

(井波)この手の写真はちょっと今回のシリーズに繋がるよね。

(北沢)そう。手を撮っているから。でも「CONTACT」の時はほとんど一人の被写体しか撮っていない。だけど今回のBodyscapesというシリーズからは複数人を撮るようになった。昔からの変化というと、自意識のようなものが薄れてきていて、何かと何かの関係を考察している。そういう風にシフトしてきたのかなと思います。自分の内面世界だった身体に対する執着が、今は他の人の体に対する興味に変わってきていると言えるのかもしれない。

(井波)「Identify」のシリーズでエプソンカラーイメージングコンテストで優秀賞をとっているのですが、(作品が)やっぱり病んでいるよね。


(北沢)病んでるよね。痛いんです。あの、「痛い」という言葉で思い出したのですが、心みたいなものが痛いと、体のどこかも絶対痛いんです。

(井波)すごく視線が等身大というか。

(北沢)一人の女の子を追いかけている作品なんですよ。

(井波)それに対して自分を重ねまくっているというような、かなり内向的な作品。評論家の飯沢耕太郎の言葉を借りれば私写真的な感じだったと思います。生活感や感性がそのまま表現されている。

(北沢)そのあと1年半くらい引きこもりました。その時に自分の中に溜めみたいなものができた。本もたくさん読んだし、いろいろ考えた。蛹が蝶になるまでの準備期間というか。引きこもるの、いいと思うんですよ。

(井波)北沢さんにとっては自分で自分を構成していく時間だった。その後、「CONTACT」シリーズになるまではちゃんとした作品を作っていなかった。その期間も撮っていたかもしれないけれど、ほとんど発表していない。

(北沢)自分の中ではいろいろ実験しました。スキャナーとプリンターと紙があれば何でもできるとも思っていました。お金がなかったけど、お金がないと工夫しますね。
「CONTACT」を作ったときは、何かと何かの間の揺れみたいなものが気になっていた。夜行バスに乗っているときに、真っ暗な空間で揺れている中で突然昔の忘れていたことを思い出して、振動とか揺れが記憶に関係しているんじゃないかという気づきがあった。作品では何か物越しに撮ったり、モニターに写真を写して複写したりしている。

(井波)被写体との間にものを入れていたりする。木やガラスが入っていたりして、すんなりいかない関係性みたいなものがあった。

(北沢)この時も自意識みたいなものが写真に出ていた感じがあります。初期の痛さが残っていた。

(井波)すごく感情が込められた写真も何枚か入っていて、クールな写真とエモーショナルな写真が入り乱れている気がする。

(北沢)被写体との間に物を挟んでいるけど、自意識が写っている。矛盾が私の写真にはずっとある気がしますね。2つの視点があるというか。


(井波)その頃からマーケットに進出して作品を売り始めた。
「趣味でやっている人と作家としてやっている人はどう違うんですか?」とよく聞かれるのですが、キュレーターとしての立場から言うと、展示など外に出す機会を全く設けない人は、いくら技術があっても趣味の領域だと思っています。社会との接点を持たないと、批評も生まれないしお金も生まれない。日曜画家みたいな人は自分の満足としてはいいけれど、外からは認知できないと思う。そういう意味で、北沢さんは社会との接点をどんどん開拓したと思う。

(北沢)そうでもしないと生きていけないというのがあった。もし自分が富豪だったらどうしていたのかなと思いますね。(今のように制作を)していたのかなと。

(井波)湯水のごとく好きなカメラを買い、ブランドの服を買い、適当にぐるぐる歩いて写真撮って終わりだよね。

(北沢)エルメスとか着て、ジムに通ってましたね。

(井波)発表するということをあまりしないかもね。自分の好きな写真を出力して飾って、たまに銀座の高いギャラリーを借りて展示するみたいな。

(北沢)そういうのもいいと思うけど、満たされた生活をしていたら発表しなきゃいけないという欲求が生まれないし、切実な感じが生まれない。自分は昔からいろいろぎりぎりだからどうしても切実な感じになってしまうけれど、それがもしかしたら見ている人の心を貫いたりすることもあるかもしれない。

(井波)その関係性で言うと、この間の美術館の展示(「新章風景#2」)の時からようやく他の人とやるということをし始めて、作家のネットワークの中でグループ展に参加していた。

      

(北沢)作家で仲間作るというのは難しいですよね。皆で展示して、わ〜!みたいな(仲良しな)感じが苦手です。他の作家と仲良くなると作品をちゃんと見れない。「新章風景」のときはそういうのがなかった。それくらいの距離感がいいと思います。

(井波)展示の前に雑誌に載ったりしてタイミングも良かった。トントントンと来て。

(北沢)そんなに来てはいないです。

(井波)「CONTACT」の後は、ガラスに付着したゴミを撮った「DUST」というシリーズの作品を作って、その後「Bodyscapes」になります。先ほどお客さんから質問が来ていましたよね。なぜ手を撮っているんですかと。

(北沢)なんで手を撮っているんだろう。無意識に撮っていたけど、ある人に西洋の絵画の手の表現だけが集められた本を教えてもらった。それによると、手は怒りや喜びや悲しみを表している、みたいに書いてあった。手って身体のパーツの中で身近ですよね。背中とかよりは。手をよく見ません?人の体全体を撮ってそれが不思議なものに見えるようなものが到達点と思っているけれど、身体の中で一番身近な手を撮るのが最初だったのかなと。


(井波)手というものが表現性を持っている、と。あとはシュルレアリスム的なね。

(北沢)マン・レイが好きなんですよ。メトロノームの針の作品に目がついている作品とかありますよね。

(井波)人の体が切断・分離されたような模型を使ったり、個性的なものを作っている。

(北沢)マン・レイの作品は説明ができなくて、説明がいらない。そういうものに惹かれる。なぜ手を撮るのかと聞かれて説明はできない。自分の写真を見て喜びや悲しみが伝わってほしいという思いはないです。自分が撮る写真は感情とか何かが漂白されてしまったみたいになってしまう。頑張れば恋人同士が仲睦まじい雰囲気の写真は撮れるかもしれない。ただ、そういう写真は心身を削らないと撮れないと思ったことがある。

(井波)撮っている時はどういう感情が芽生えている?初期とは違って、一喜一憂するような感情が込められているとは思えない。

(北沢)自分の予想を裏切った光景を目撃したい、自分が一番驚きたいという感情がありますね。撮っている時は、指示を出してモデルの子が動いた一瞬を撮っている。一応演出をするけれど、完璧にそれをやって欲しい、とはならない。

(井波)あとは背景の使い方が上手い。それと、初期の作品から言えるのは、光の使い方が絶妙。

(北沢)背景も含めて人も世界の一部、という考えを自分は元々持っていたということをある時再発見した。あとは、今までやっていた仕事で風景学の先生と関わることがあって、その先生が言うには「風景」と「景色」という言葉は違っていて、「景色」には人がいない。「風」と言う言葉には風貌とか風格など人に関係する意味があって、景色に人が入ると「風景」になるらしい。そういう話を聞いたことも影響して「Body」と「landscape」を合わせて「Bodyscapes」というタイトルにした。


(井波)あとは、あまりトリミングしないよね。偶然と言いながらも、撮っている時にかなり構造をつめている。

(北沢)まず撮る時にたくさん撮ってるじゃないですか。後からトリミングするのは面倒臭いし、撮ったときにほとんど完璧に撮りたい。原型から変えないから、Photoshopの技術が全く上がらないんですよね。

(井波)それはすごく職人的でアナログ的。結構皆トリミングしていて、そうすると余計なものを消した感が出る。その場でそれだけ詰めているというのが作家として写真に対する姿勢としては結構重要だなと思う。完璧ではないにしろ、常に頭の中に「こういうものにしたい」という意識がないと決断できないし、瞬間で決断しないといけないから。

(北沢)写真の瞬発力って鍛えられますよね。1ヶ月くらい撮らないと鈍ってしまうから、スポーツと近い。このシリーズの撮影も、複数人のモデルさんに来てもらって、時間も決めて限られた中で撮るということをして、自分にプレッシャーをかけています。

(井波)あと、今後の話を。次の野望や予定。

(北沢)あ、ちょっと待って。今日思ったんですよ。人間は素直に物事を言わないとだめだなと。私は色々ごまかしてしまうことが多いんです。社会人時代は人に合わせたり、やりたくないこともやって、でもそれが組織だと思っていたんだけど、今自分がやっているのはこういうことなので。
素直に自分の気持ちを伝えるとか、本当に好きな人に好きと伝えるようなことは大人になると難しいと思うけど、やった方がいいと思いました。

(井波)ストレスを溜めないために?

(北沢)自分の心からの思いを相手に心から伝えると言うことを最近していなくて、そういうエネルギーを使うことをした方がいいと思って。

(井波)それは(インタビューの)ブログにも繋がる?

(北沢)それは分からない。インタビューのようなものを始めた元々のきっかけは、あの、人にご飯に誘われたりするじゃないですか。それが人によっては行きたくないなー、だるいなーと。でも自分が変化するための機会でもあると思っていたから、この時間をどうにかして生かさないといけないなと思って行っていたんですよ。インタビューという体で録音して話を聞くと相手の話をちゃんと聞くし、面白く聞こえるし自分の人生に活かせる。マイナスをどうにかしてプラスにしなきゃいけないというのがあって始めました。
私はすごく言葉に左右されるんですよ。いつも物事を言語化できないというのがあって、言語化できないことで想像力が止まらない良さがある反面、言語化することで揺れ動いているものがある程度固まって意思や態度に繋がる。 もやっとしたイメージが明確になることもある。
あとは、インタビュイーは男性に限っていることに気づいた。写真に撮る対象は女性です。男性の容姿とかを魅力的だと思ったことがあまりないんです。でも、視覚的なものを埋葬して、内面から触れていくと対象が魅力的に見えることに気づいた。

(井波)言語そのものには性別がないからね。

(北沢)写真を撮る対象を女性に限っているのは、外側から見えないものに触れていきたいみたいな気持ちがある。

(井波)それは、同性として憧れとかフェミニズムみたいなものがある?撮りやすいとか。

(北沢)憧れとかフェミニズムみたいなものはない。撮りやすいのは、体の構造が(自分と)一緒だから。

(井波)ある意味写真って開放している部分があるじゃない。撮っている時はかなり無防備で野生的。そういう意味ではやりやすいのだろうと思う。

(北沢)写真についてはうまく説明できないけど、インタビューでは見ることを殺すことで男性性みたいなものをなくして、同じ人間なんだみたいな感じを感じたいのかもしれない。

(井波)インタビューは想像ではないじゃない。写真で表現していることは現実ではあるけれど、比較的抽象的だったり頭の中だったりして、組み替えを恣意的に行っている。テキストの世界とビジュアライズされた世界のギャップは面白い。両義的でなく、相互互換でない感じが面白い。
客観視した時に、写真とインタビューは直接的には関係性が見出せない。そのさらに中間にある何かが新境地かもしれない。でも、自分の中でしっくりきているということはそれを行き来することに刺激があって、行き来することはフィールドがあるはず。じわじわ繋がるのか、繋がらないまままた一つのフィールドが存在し始めて、独立したものが生まれるはず。
来年の予定は?

(北沢)来年はわからないです。

(お客さん)最近気になっているニュースってありますか?

(北沢)古いかもしれないけど、パリのテロが起きた時は気になって調べたり、9.11について調べたり、宗教関係の事件に興味がある。連続殺人犯す人はどういう環境に育ってそうなったのかとか、北九州一家連続殺人事件については学生のとき本を買って読んだ。人間の奥深い何かが気になる。
政治とかは、今は自分の問題として考えられない。興味あります?当事者意識があるということ?

(お客さん)個人の一人一人が集まった集団が社会じゃないですか。社会とか国は概念だけど、実態は個人の集合体にすぎないと思っていて、個人の意思が反映されていく過程に興味がある。
自分も宗教に興味があって、インタビューや対話って、宗教家とか哲学家の過去の人がみんなやってたなということを思い出した。プラトンやアリストテレス、釈尊も説法も対談だし。過去の人たちは対談して真理を会得しようとしたのか、真理を悟った人たちが誰か対象を教化しようとしたのか、いろんな思惑があるなと思っています。
先ほどのインタビューの話で、対話することで異性の相互理解をするという話をしていたけれど、相互理解を超えた目的だったり、北沢さんが男性を教化しようとか明確な意図があってやっているのか。意図を引き出したいのか、何もない状態でお互いで何かを導き出したいのか、気になりました。

(北沢)後者の方です。何もない状態で、ミルフィーユのような会話が一番大事だと思っていて、そこから大事な何かが見える。
最近、自分は根本的には人には影響されていないかもと思ったんです。それでも人と関わることって大事だなと、何もない状態で話してお互い生み出したいという気持ちでやっています。こういうことを続けていたら政治とかに興味が湧くかもしれない。自分の切実な何かとつながるかもしれないから。

(井波)人の話を聞いて、その時分からなかったことをすごく調べたりしているよね。新たな世界を開いていくのは面白いよね。ノーマルな感じではない人ばかりにインタビューしているけどね。

(北沢)そんなことないですよ。どんな人の話でも興味を持って聞くと面白い。
根本的には人には影響されないと思っているけど、でも写真を撮るために人と会ったりしている。期待していないと言いつつ何かがあるとずっと思っていて、それが自分の写真の矛盾性に繋がっている気がしますね。
あと、善・悪とか聖・俗について考えていて、自分の中にも善・悪と聖・俗があって、自分が見た対象の中にも善・悪や聖・俗がある。俗っぽい場所に行ったり、そういう人と会うと疲れて寝込んでしまうんです。友達に話したら、哲学の世界では善と悪や聖と俗が相互に及ぼしあっていて一つなんだという話を聞きました。それを聞いて、俗なものがあるからこそ聖的なものがより際立つのだと思っている。両方大事なのかなというのを最近感じている。
あと、作品は聖なるものから生まれてほしいと思っています。

(お客さん)写真家以外で影響受けた人っていますか?

(北沢)マツコデラックスのロボットを作った石黒浩さん。石黒さんのインタビューから「とにかく自分の頭で徹底的に考えることが大事だ。人の言うことは疑う。」というメッセージを受け取った。疑うためには自分がかなり努力しないといけないということを言っているんだけど、そうだなと。

(お客さん)最初、作品をどう見ていいのか分からなかったけど、お話の中で「この写真を見て楽しくなってほしいとかは思わない」と仰られていたのと、「漂白された」という表現がしっくりくるなと思いました。

(北沢)「漂白」という言葉は今日だけ限定のインタビュー冊子に載っているインタビューから引用したものです。そのインタビュイーからは、私の写真は「意図がはぎとられている」、「人を造作物のように撮っている」とも言われたのだけど、自分の写真にはそれに加えてノイズとか、何かの揺れ動きみたいなものも入っていると思います。

(お客さん)社会とつながる自分の作品というのはどういう風に広がっていくものなのかなと。

(井波)僕の立場から言うと、とにかく見せる。展示など生で見せたり、本を作って流通させる。そうでないと評価ができない。

(北沢)一人一人に見てもらうことが大事だと思っているのだけど、そういうのを井波さんが代わりにやってくれた部分もある。

(井波)キュレーターという仕事は作家がいないと食べていけない仕事。お金もかかるけれど、なんでもいいから見せていくということにコミットしていかないと、作り続けてもストックが溜まるだけ。社会との関係をどうしていくか。展示をして、意見を聞いたりして自分のフィードバックに生かしていくのが重要だと思う。

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