
ジェンダーと認知モデル
このツイートを見て考えるところがあったので少し書いてみます。(考えるところ、といっても別に否定的な意見ではありません。)
時代は確実に変わっている。読売投書。 pic.twitter.com/rtExLXJW0j
— ミスターK (@arapanman) February 11, 2021
新しい人と出会ったときにその人をどのような属性情報で記憶するか、その認知方法は人によって様々だと思います。
個人的な経験として、友人の話の中で自分の知らない登場人物が出てくると、その人が男の人なのか、女の人なのかを無意識のうちに判断しようとしていることがあります。
「ハイヒールのカツカツというような音」が聞こえたら女の人を想像するし、「タンクトップに短パンで遊び回っている人」がいたら男の子を想像します。
しばらく話を聞いていてもそれらしい判断がつかない場合には、「それって男(女)の人?」と聞いたりすることもあります。(この文脈において”男(女)”という書き方をすることも指摘の対象かもしれませんが、古典的な熟語としてどうか許容してください。)
しかしそれくらいに男であるか女であるかという判断基準は、自分自身の中に、そして経験的にはおそらく多くの人の中に染み付いているものだと思います。
様々な属性の中から、他人を索引付けするための材料として、トップダウン的な取捨選択をした場合に、「性別」というのはかなり普遍的に利用される基準だと思います。
例えば頭の中に1,000人の人が記憶されているとして、名前だけが提示されてその人の姿を思い出せない場合、それは男性です、あるいは女性ですと補足されるだけで、多くのケースでおよそ500人まで一気に選択肢を減らすことができるはずです。
こういった多くの人が共有している認知モデルは、社会システムが抜本的に変革しない限りは、なかなか無くならないとは思います。でも同時に、別にそれを根絶やしにする必要もないと思います。
現状、多くの人が男性用トイレを求めていて、多くの人が女性用トイレを求めています。多くの人が男性用更衣室を必要としていて、多くの人が女性用更衣室を必要としています。そういった公共福祉は全体利益が優先されて然るべきというのは揺るがない事実だと思います。
だからこそ、一人ひとりが自分の中に抱えている認知モデルを理解して、それを周囲に押し付けないという意識付けが大切だと思います。
冒頭に引用したツイートの内容に返りますが、「男の人? 女の人?」と聞いた次男にはなんら問題はないと思います。ただそこでたとえば、それを聞かれた次女があまりにも高圧的な態度で弟を詰ってはいけないし、姉にいなされた次男が逆上してもいけません。お互いが一度意見を聞きあった上で、その価値観を理解し合うことが大切です。純粋な疑問を解消するというプロセスが押し殺されてしまうような社会であってはいけないと思います。
本当は小説における一人称とジェンダーの関係についても考えてみたかったんですが、長くなってしまいそうなのでそれはまたいつか。
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