社会に適合する哀しみについて
上手くやれてしまう哀しみだってある、のかもしれない。
この春から新しい職場に勤めている。簡単に言うとキャリアコンサルタントみたいな仕事だ。
「これがやりたい!」という強い思いがあったわけではない。食っていくために仕方なく就職した。
しかし、働いていて、ふと仕事を楽しんでいる自分に気づく。
そうすると、どうにも、なんとも言えない哀しみを感じる。
萩尾望都の作品に「半神」という短編漫画がある。
十数ページに満たない、とても短い作品だ。
これはとある双子の物語だ。しかしただの双子ではない。2人は物理的にくっついているのだ。ベトちゃんドクちゃんのように。
主人公は双子の片割れ。彼女はとても醜い。しかし高い知性を持っている。
一方、もう1人はとても美しい。しかし、彼女は喋ることができないほど知能が低い。
主人公は、いつも美しい妹と比較される。知性があるので面倒を見させられる。彼女はそのせいで卑屈になる。
ある時、医者がやってきて、こう告げた。
「2人を切り離さなければならない。さもなければ、2人は栄養不足で死んでしまう」
主人公は喜んだ。やっと1人になれるのだ。危険な手術でも構わない。私は孤独が欲しいのだ。
手術は成功して、2人は2人になった。
主人公は片割れに吸われていた栄養が行き届くようになり、日に日に美しくなっていく。
片割れは、日に日に干からびていき、遂には死んでしまう。
主人公は、美しい少女として生まれ変わった。
友人もたくさんできて、ボーイフレンドもできた。
順風満帆だった。
しかし、ある晩鏡を見ると、そこには死んでしまった片割れと同じ顔をした自分がうつっている。
その時はじめて、彼女は孤独を知り、涙さえ流すのだ。
こんな話だ。
生きていくために、なにかを切り捨てることは仕方のないことだ。そんなことでクヨクヨするのは、いささかナイーブすぎる。
しかし時には、失った半身に思いを巡らせてみるのも悪くないかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?