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ジョン・レノンの生まれ変わりだと信じていた

始めてここに書く文章で、こんな病的な妄想を垂れ流していていいのかと悩みましたが、ダコタハウスの屋上から飛び降りる思いで書いてみましょう。ジョン・レノン、言わずと知れた20世紀の大スター、本人をして「キリストより有名」と言わしめたカリスマ、唯一無二にしてその影響力はミュージシャンでは比肩するものがいない。その生まれ変わりだと僕が思った(思い込んだ)のには、ある理由があった。

ビートルズ解散からジョン・レノンは一貫して愛と平和の希求を訴え続け、彼のソロ代表曲であるimagineなんて(権力にとって)危険な思想の歌は死後も歌い継がれ、そのメッセージの平易さからか、国境で選手を厳然と区別している東京オリンピック開幕式で平和の歌として嬉々として歌われていたのは記憶に新しいでしょう。「神を信じない」と言ってのけた彼が、マーク・チャップマンに殺されたのは1980年12月8日のこと。世界中が彼の死を悼み、その死をもってジョン・レノンは誰の手にも届かない存在となった。

僕がジョン・レノンを知った、というよりはビートルズに触れたのは小学校の高学年くらい、父のCDの中にあったビートルズのアルバム(なぜかBootlegだった)を聴いたのが契機で、それまでクラシックと日本の歌謡曲にしか馴染みのなかった僕は、文字通り痺れた。音楽によって全身の細胞がふつふつと歓喜し、居ても立っても居られずに内気な少年はスピーカーの前で立ち上がり踊っていた。I've Got a Feeling!!  かっこいい、こんな音楽を自分も弾いてみたい、歌いたい、その強烈な衝動は得体の知れない原動力となり、日頃あまり我がままを言わない僕が親を説得してギターを手に入れるに至った。

友達の少なかった中学生の僕は、休みの日でもずっと家にいて、ビートルズの”A Day in the Life"に合わせてギターをかき鳴らし大声で歌っていた。”Woke up”からの転調がお気に入りだったらしい。田舎だったとはいえ、あんな大音量で歌っていたら家族に注意の一つくらいされそうだが、父も母も不思議と放置していた。

ただ家の中での大ミュージシャンの一面を僕は学校では一切覗かせず、暗いちょっと変な奴という扱いだったために、たまに苛めに近いいじられ方をされることもあった。昼夜逆転はその頃からすでに始まっていて、夜中に聴くラジオや音楽で夢想の中を飛び回り、学校の休み時間には常に机に突っ伏して寝ているような生活だった。話す人がいないというのもあるが、夜の分の睡眠をそこで貪るように補っていたので、いつも寝ている冴えない奴と皆思っていただろう。ただ、机の上では熟睡するに至らず、時折クラスメートの話し声が聞こえてくる。そこにはなかなか辛辣な自分への侮辱の言葉が語られていた。寝ていると思っていたとしても、本人がいるのにそこまで言っちゃうんだ、と彼らの残酷さや無粋さに幻滅しながら授業開始のチャイムが鳴るのを眼を閉じて待っていた。

自分の自信がみるみる減衰していくのがわかる。仲良くはないにしろ、クラスメートが恐るべき悪意に満ちた目で自分を眺め、それを語り合っていたことに僕はショックを受け、益々孤独を深め、本や音楽に傾倒していった。ビートルズ関連の本をかじり、その頃出始めたBBC音源のCDやアンソロジーにも手を出し、貪るようにビートルズに浸っている時にある奇妙な感覚を得た。ジョンが死んだ時、僕はまだ生まれていない。その一年後に生まれたのだが、自分はジョンの生まれ変わりの可能性があるんじゃないか、と。ジョンがすでに亡くなっていたからこそ、ジョンが輪廻転生して僕が生まれてきたとしても矛盾はなかった。このような妄想はひどくなれば統合失調症の一症状となるような妄想知覚と呼ばれるものである。ただ、周囲に悪意の渦巻いている思春期の僕の自我を保つためには、”何か”が必要だった。その”何か”が取り柄のない僕にとっては、ジョンの生まれ変わりだという特別な想いを秘かに胸の内に抱くことだったのだ。しかし、僕の思い込みにはそれなりの訳があった。

僕の父は1980年前後にアメリカのニューヨークに留学をしていた。その頃父は30歳を迎え、母を連れての留学だった。僕の二つ違いの兄と僕は、ニューヨークのブロンクスにあるアルバート・アインシュタイン病院で生まれた。そう、ちょうどその頃、1980年の12月にジョン・レノンはニューヨークのダコタハウス前で凶弾に倒れたのである。そしてその後に彼が倒れた場所からほど近い病院で生まれた僕は、生まれ変わりであってもいいんじゃないか、と思ったのである。

その思い込みは不思議と自分に自信をもたらした。ジョンだったら、鋭い言葉で悪口を言う奴らの間違いを気づかせただろうし、夜中まで鬱々とラジオを聴く自分を肯定的に受け入れてくれただろうし、何より、世界は自分の想いがあれば、いい方向に変えられるかもしれない、と思わせてくれた。特別な存在が自分の中にあって、それが妄想の中で自分を助け、勇気づけてくれる。ひどい仕打ちを受けても、僕の中のジョン・レノンがはじき返してくれたのだ。

イジメやいじりも、自分のアイデンティティクライシスさえも、変な思い込みによって封じ込めることができ、まさにジョン・レノン様々だったわけだが、この思い込みにも終わりは来る。

それは思春期もとうに過ぎた大学の授業で人間の受精について勉強していた時だ。人は十月十日、厳密に言えば最終月経からの280日間の妊娠を経て生まれてくる。その事を習いながら僕はまた、自分の世界に入りこんだ。僕は1981年の9月2日に生まれている。単純に計算したら、ジョンの死んだ日、1980年12月8日に極めて近いんじゃないか、ということだった。生まれ変わりの思い込みを抱えていた僕は興奮したと同時に少し困惑した。言わば、そんなシンクロニシティを授けられてしまったら、本当にその思い込みが強固なものになってしまうと怖くなったのだ。僕は生まれ変わりの思い込みを封印した。すでに嵐の時期は過ぎていたため、思い込み事態が必要なくなっていたことも一因であった。

時が経ち大人になって、ジョンの死後40年が経ったのを機に僕は改めて妊娠時期についてしっかりと調べてみた。最終月経は11月26日だった。それから二週間後に排卵日がくるとしてその日は12月10日とわかった。両親の致した日を調べて何してんだとも思ったが、僕はジョンの死んだ日に受胎した者ではないとわかって、なんだかホッとしたのである。恐らくニューヨークでジョンの受難のニュースを聞いた両親が、命の儚さを憂いて実を結んだ結果が僕だったのだろう。そう考えると、大声で歌っていた僕を注意もせずにいた両親の気持ちも少しばかりわかった気がした。ジョンの死が僕の誕生を促したのなら、それはそれで素晴らしいことだと思った。

さて長々と自分の生まれ変わりの思い込みについて綴ったが、最近になって誰しもそんな思い込みを多少は持っているもんじゃないかと考えている。美輪明宏は天草四郎の生まれ変わりだというのは有名な話で、直木賞をとった佐藤正午の『月の満ち欠け』は恋人が次々に生まれ変わっていく物語で、次に生まれ変わるならこんな顔になりたいランキングなんて身も蓋もないものまである。輪廻転生を受け入れやすい素地があるんだろうが、僕の経験から言えるのは、思春期の残酷な嵐をやり過ごし、確固たる自我を打ちたてるまでは、誰かの生まれ変わりだと思うくらいの幼さは、許容したいってことだ。

#ジョン・レノン #ビートルズ #生まれ変わり

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