言語表現力について考える

日本語から外国語への翻訳に絡めて何度か表現力について書いていますが、今日は言語表現力について自身の考えを整理するために書いてみたいと思います。

まず、基本的な考えとして、日本語であれ外国語であれ、言語表現力が高いかどうかの尺度というのは同じであると私は思っています。

これは、言葉を覚えていく過程を考えてみればよく分かるのですが、例えば、私がタイ語を勉強し始めたころのことを考えてみると、最初はまず言葉そのものを知らないですから、新しい言葉や言い回しを覚えていくことから始まります。私が通った学校で言うと最初の2か月(1月80時間)ぐらいがこの段階にあたり、2か月過ぎた頃には片言ながら言いたいことが少しずつ言えるようになります。

もちろん3か月目に入っても新しい言葉も言い回しもどんどん出てくるのですが、最初の2か月と決定的に違うのは、表現が一段階細かいものになるということです。つまり、基本的な動作や状態を表す言葉だけではなく、説明する言葉、いわゆる、形容詞や副詞のような言葉がだんだんと出てくるようになります。

さらに一段階学習が進むと、今度は文章が少しずつ長くなっていきます。例えば、最初だったら、「私にはタイ人の友達がいます(ผมมีเพื่อนคนไทย)」だったのが、「私には、5年前に日本に留学したことがあるタイ人の女性の友達がいます(ผมมีเพื่อนผู้หญิงคนไทยที่เคยไปศึกษาที่ญี่ปุ่นเมื่อ 5 ปีที่แล้ว)」のように表現が少しずつ長く複雑になっていきます。

こうした学習を重ねていくと、だんだんと細かいことが言えるようになっていき、語彙も増えていきます。そして、細かいことや込み入ったことが言えるようになってきたら、後は自己学習で表現力を高めていくことができます。私の思うにですが、語学学校に何年も通っても表現力はある段階で頭打ちになって、そこからは学校の勉強だけではそれほど上がらないと思います。

そして、自分で表現力を高めていくとそのうちに気付くことがあります。それは、同じような内容を言う場合でも、最初は1つの言い方しか知らなかったのに、だんだんと何通りかの言い方ができるようになることです。これは母語でも同じことだと思います。ここまで来ると、ようやく表現力が付いてきたと言える段階かなと思います。

ただし、何通りかの言い方ができるようになっても最初はその使い分け、つまり、微妙なニュアンスの違いまでは正確に分からないので、ここでいったん壁にぶつかります。母語である日本語で言うと、こうした微妙なニュアンスの違いはもうほぼ感覚的なものですので、学校で勉強して身に付くものではありません。

この壁を乗り越えてはじめて、かなり高いレベルでの表現力が付いたと言えると思います。私が日本語からタイ語への翻訳をしていて、まだまだプロの翻訳者としては表現力が足りないなあと思うのは、自分で訳していて気付くのですが、どうしても表現がワンパターンになりがちになることです。日本語でもその他の言語でも同じでしょうが、何か文章を書く時と言うのは、同じような意味であってもたいてい無意識のうちに微妙に言い方を変えてみたりするものですが、私はタイ語の表現力という点においてこの部分がまだ足りないなと思っています。それでも、昔と比べればずいぶんタイ語らしい表現ができるようにはなってきたと自分でも思いますが、表現力が高まれば高まるほど、逆に自分の表現力のなさが見えてきます。いわゆる無知の知というやつです。

とりあえず、ようやく終盤にさしかかってきた今の仕事が終わったら、アウトプットのレベルを高めるために、タイ語のインプットに努めたいなと考えています。

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