長野高校の後輩諸君へ。甲子園をめぐる慶應高校との因縁、身近な近現代史を知ろう。

 甲子園の決勝で慶應高校が仙台育英を破り107年振りの優勝、と大騒ぎです。
 なにしろ107年前の1916年(大正5年)は「昭和どころか大正だったのか」「寺内正毅内閣時代、“平民宰相“原敬の前だ」と驚いたりします。そもそも第一次世界大戦の最中でした。

 僕が高校に入学したのは1962年(昭和37年)です。その年の夏、我が母校・県立長野高校が県大会でまさかの優勝、甲子園に出場となります。地元新聞に「41年振り、2回目出場!」の見出しが踊ってました。1962−41=1921年です。大正10年に甲子園初出場、じつに11月の原敬首相暗殺の直前、そのころは旧制長野中学である。
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 公立の進学校でもあったので野球部員は14人しかいない。ベンチ用員が4人足りず慌てて1年生の僕の中学時代の同級生がにわか野球部員になって甲子園に行くのです。皮肉なことに中学時代に誰もがいちばん野球が上手いと一目置かれていたヤツがいて、プロを目指してわざわざ東京の早稲田実業へ進学するが、全国から優秀な生徒が集まるのでついにベンチ入りも出来ず甲子園にも行けなかった。野球いまいちの連中が補欠で甲子園の土を踏んだ。

 41年前の大正時代を記憶している者も少なく長野市内は大騒ぎになり、商店街も記念セールをやり、その勢いでいまでいうクラウドファンディングのかたちて集めた資金で臨時列車を仕立て甲子園に向かった。1年生の僕も応援のために列車に乗った。何とSLでした。さすがにSLは滅びかけていたが臨時編成なので古い機関車を使ったようだ。いまなら高速バスだろうが、臨時列車は通常の編成の合間を走るので、よくわからない駅で長く停まったりすぐ発車したり。なかなか発車しない駅でステテコ姿でホームではねを伸ばしていたおっさんたちは急に発車した列車においてきぼりになった。ホームを走って追いかけるが遠ざかっていく姿が哀れでも滑稽で思わず笑ってしまった。そんな感じの珍道中で1日かけて大阪へとたどり着いた。
 大正も遠いが61年前の昭和37年もけっこう遠い昔なのである。

 どこへ泊まるのか。それすらわからなかった。どこかの公立高校の体育館に着いた。硬い体育館の板の間でマグロのように雑魚寝をしたのが初めての大阪体験なのでした。 
 翌日の甲子園、暑さはいまと変わりない。我慢できないぐらいだが、熱気がまさった。引き返すわけにいかないわけだし。
 1回戦の組み合わせが慶應高校だった。慶應高校の前評判は優勝候補ではない、ということでそれなら勝てるかもしれない、だった。しかし、試合が始まってみると、県大会では爆発的な打線で知られた我が校のチームはまったく打てない。甲子園の空気に飲み込まれてしまったのだろう。
 慶應高校に3対0でなす術もなく負けた。僕は球場を出る慶應高校の野球部員に、2回戦を僕のたちの代わりに頑張ったください、と握手したのを憶えている。 

 その2回戦、慶應高校は作新学院に7対0で完敗している。もっとも作新学院がこの大会の優勝校だから慶應高校にとっては事実上の決勝戦であったのだろう。
 というわけで慶應高校の皆さん、あらためて優勝おめでとう。そして甲子園の常連でもない、野球部員でもない地方の

高校1年生、15歳の甲子園をめぐる片隅のエビソードでした。
 当時の甲子園出場校はわずか30校のみ狭き門だった。

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