〈対談〉田原総一朗×猪瀬直樹「446人のオーケストラ」が奇跡を起こした。3.11から10年


〈対談〉田原総一朗×猪瀬直樹
「446人のオーケストラ」が奇跡を起こした

なぜ一つのツイートを真実だと判断できたのか

田原
 東日本大震災発生直後から、気仙沼市中央公民館の屋上に取り残された446人を巡るドキュメント、それぞれの人間像に迫る細やかな描写と取材力にとにかく圧倒されました。冒頭に鈴木修一さんという零細企業の社長が出てきますが、彼と猪瀬さんとの繋がりは最後の最後になってようやく明かされる。この構成も非常にスリリングで、とにかく一気に読ませました。当時、猪瀬さんは東京都の副知事でしたね。
猪瀬
 はい、3・11の当日、つけっ放しにしていたNHKで火の海と化した気仙沼が延々と映し出されていた。自衛隊が撮った空撮映像でしたが、津波と共に、とにかくすさまじい勢いの火が、画面いっぱいに広がっていた。自分たちにいったい何ができるだろうかと考えましたが、その一方で、東京では帰宅困難者が溢れかえり、交通網が麻痺し、パニック状態が生じていた。副知事として「今、どこそこで地下鉄の○○線が動き始めた」等々の速報を伝えるべく情報発信を続けていた。都庁のホームページにアクセスが殺到し、パンクしてしまったからです。都庁でツイッター発信ができるのは民間出身の僕しかいない。最新情報を自分のツターを使い、どんどん発信し始めたのです。
田原
 地下鉄が動き始めたのは確か夜九時近くでした。そのときはまだ都庁にいらしたのですね。
猪瀬
 ええ、その日は一晩じゅう都庁にいました。消火や救助・救難は東京消防庁、麻痺しかけている交通の整理は警察、公民館や学校を一時退避の場所として開放するのは教育委員会や都庁の各部局と現場の職員が全力であたっていました。僕は都度つどあがってくる集約された情報が錯綜しないように、まずは正確な情報を伝えることに尽力しました。地下鉄の運行情報を流したところ、一万件ほどのリツイートがあった。実際、帰宅困難者向けに一時収容施設の一覧を都庁のホームページに掲載させたが、テレビでその告知が流れると、アクセス集中で都庁のサイトはパンクしてしまっていた。
 ならば集中を回避できる。ミラーサイトや僕のブログサイトも使いながら、ツイッターを通じて情報を積極的に発信していくことに決めたのです。僕がツイッターを始めたのは、震災から一年ほど前のこと。僕よりツ少し前に田原さんがツイッターを始められましたね。
田原
 そうですね、ジャーナリスト・佐々木俊尚さんと対談したときに、「田原さんもやったほうがいいですよ」と薦められたのです。
猪瀬
 一年前の二〇一〇年三月に田原さんが始めたので、僕もやってみようと思って直後に始めたのです。それから一年が経ち、それなりにフォロー数も増え3・11が発生するや否や、とにかく大量の情報が@inosenaoki宛に入ってきた。
 デマ情報も多くありましたから、とにかくこの情報を精査しなくてはならない。
「ちょっと一回、紙に刷り出してみよう」と、A4判の紙に出力してみました。相当な厚さになった。その束をめくいくくなかで、鈴木修一さんからのツイートにぶつかったのです。
田原
 その元となるツイートが、障害児童施設マザーズホームの園長・内海直子さんからの携帯メールを受け取った息子さんのものだった。
猪瀬
 そうです。当然ながら、鈴木さんがその時点では何者かは分からない。とはいえ、それが僕へ向けられたメッセージであることは間違いない。都庁に詰めている東京消防庁の防災部長をすぐに呼びました。プリントアした、イートを見せて、「どう思う、これは本当の情報だろうか」と議論した。デマばかりのなかで、これは間違いなく事実だろうとの結論に達した。なぜなら主語がはっきりしているし、文章が正確だった。「助けにいくことはできないか」と防災部長と相談し、燃えている範囲を分析しながら、「ヘリは有視界飛行なので、出すとしたら明け方すぐに出したほうがいい」と話がすぐにまとまった。

東京都から仙台にヘリを飛ばす異例の措置

田原
 結果的には、その措置を講じたのは東京都だけでした。なぜ東京都だけだったのか。
猪瀬
 本来の手続き上は、地元からの要請を受けて出動するのが通例です。しかしながら、あのときは手続きがどうのこうのなんて言っていいらい。ならば手続きを省略してやるしかないと僕は考えたのです。
田原
 鈴木修一さんが猪瀬さん宛にツイートしたのが、ロンドンにいた内海直子さんの息子・内海直仁さんのツイートだった。気仙沼の情報がロンドン経由で届く、この本のドラマチなところの一つですね。
猪瀬
 そのときには、そのような内情は知る由もありません。気仙沼市中央公民館が置かれている状況を伝える百四十字の文字情報でしかなかった。でも5W1Hがキチンとしているし、品格も備わっている。これは救出に向かうしかない。それだけです。
田原
 その時点では十数人の子どもとその園長さんがいるという情報だけで、数百人がいるとは思いもしなかった。結局、ヘリが飛んだのは翌朝でしたね。
猪瀬
 明け方の六時ぐらいです。有視界飛行が可能な朝一番に飛びました。結果として、ゼロ歳から五歳までの幼児は71人いた。3月12日の早朝にヘリが行き、自衛隊の協力もあり、最終的には三日目に全員助けることができた。
田原
 最初の日に助けられたのは50人ぐらいですか。
猪瀬
 そうですね。ただし、救助活動が始まることで「よし、これで助かるんだ」と皆さんを安堵させ、水分の補給もできた。
田原
 ヘリからの救助って、ひとりひとりぶら下がるわけでしょう。
猪瀬
 そうです、ホバリングしながら助けるわけですから、救助初日は50人くらいが精一杯でした。
田原
 ヘリというのは、自衛隊にもあるし、もちろん宮城県にもあるでしょう。他のヘリは、なぜ助けに行けなかったのか。
猪瀬
 それぞれ出払っていたのです。宮城県はヘリが一機しかありませんでしたし、その一機は仙台空港で水に浸かってしまっていた。仙台市は二機持っていたけれど、三陸一帯が大きな被害を受け既に出払っていた。自衛隊は自衛隊で動いていましたけど、翌日の朝はまだ殆ど状況把握のために動いているみたいなものでしたから。
 東京都から仙台にヘリを飛ばすというのは、もしデマ情報だったとしたら本当におかしなことになってしまう。非常に難しい判断でした。
田原
 ヘリが行った翌日の朝の段階では、公民館はまだまだ浸水していた?
猪瀬
 まだ引いていないですね。少しは収まっていたけれど、とても外に出られる状態ではない。ヘリで吊り上げるしかなかった。ですので、乳児や妊婦、お年寄りを優先して助けたのです。その翌日になるとかなり引いた際、避難していた人たちがが協力し合って瓦礫を片付けて、ヘリが着陸できるようなスペースを作ったのです。
田原
 それにしても、取り残された障害児童施設や保育所の人々の対応が見事でした。あんなに大混乱のなかで、一人の犠牲者も出さなかった。最初は公民館の二階にいたけれど、ここまで津波が来る可能性があると感じ、三階へ逃げた。三階でも危ないからとさらに高い屋上に逃げる。この辺りの書き方にとても臨場感がありました。

僻地としての気仙沼、海洋都市としての気仙沼

田原
 作家・猪瀬直樹が、ノンフィクション作品として、なぜ、この事象に挑もうと思ったのか、詳しく聞かせて欲しいです。
猪瀬
 震災から一年ほど経ったときに、保育所の所長さんと障害児童施設の園長さんの二人がわざわざ都庁を訪ねてきて、「命が助かりました」と感謝してくださった。そこで、初めてあの日の詳しい経緯を聞いたのです。
田原
 そのことがきっかけとなっているのに、この作品には副知事・猪瀬直樹は殆ど出てこない。それはなぜですか。
猪瀬
 あの日の出来事を知れば知るほど、そこにいたそれぞれの皆さんがいかに知恵を出し合っていたかが見えてきたのです。情報を掴んで救出のきっかけをつくったのは僕だけれど、そんなことよりも、公民館に取り残されていた皆さんがどれだけ工夫して助け合ったかということを重点的に書きたかった。
田原
 確かに、誰かの英断というより、ひとりひとりの結束の物語ですね。子どもたちを、おんぶ紐を使って引き上げる際の連係など、見事としか言い様がない。
猪瀬
 フェンスを飛び越えるのに椅子を置いたり、消火器でフェンスの鍵を壊した鉄梯子に摑まる為に机を置いたり、板金屋さんが斜め屋根に穴をあけたり……その場で独自に編み出した解決策が積み重なってこそ命を守ることができた。
田原
 もうすぐ津波が来る、その大騒ぎのなかで、よくぞ協力し合えるものですね。
猪瀬
 ふだんから訓練していたからでしょう。ヒアリングを重ねてよく分かりましたが、近所の住民たちの結束力がとにかく強い地域です。製氷工場や魚の加工工場などが多い一帯で、その多くが共働きであり家族労働ですから、保育園も満杯だったし、保護者同士の連係も強かった。地縁が作り上げた脱出劇だったのです。
田原
 女性がリーダーシップを発揮しているのも興味深い。
猪瀬
 土建屋、倉庫屋、工務店……たくさんの中小零細企業が登場します。そこでは奥さんたちも働いていて、生活者としてのたくましさを持っていた。それぞれの知恵を出し合うことに日頃から慣れていたのです。
田原
 この気仙沼は、宮城県でもだいぶ僻地にありますね。
猪瀬
 気仙沼というのは陸地としては僻地なんです。しかし、海洋を中心に眺めると開けた場所なのです。気仙沼の湾を軸に捉え直してみると、見え方がガラリと変わる。気仙沼湾は、カツオ、サンマ、マグロなど漁獲高として日本有数の港です。
 港が海に開けているという発想は、実際に現地を歩いてみるまでは持てなかった。
「割烹世界」という料亭が気仙沼にありました。残念ながら津波で流されてしまったのだけれど、後日、仮設で営業を再開した「世界」の壁に貼られた写真を見たら、赤坂の料亭みたいな灯籠があった。それだけ色々な国の人たちが出入りしている場所だったのですね。僕が行ったときも、ある飲み屋さんに入ったら、鹿児島から来た漁師が横でお酒を飲んでいた。遠洋漁業もやっていますから、大西洋やインド洋など、ごく当たり前に行き来している。日常的に世界中と交流している場所だったのです。
田原
 海を軸に考えてみれば、これほど世界へ広がっている場所もなかった、と。
 僻地にある気仙沼の情報を、ロンドンの宝石街で活躍している子息が職んだ、というのは、この海洋都市・気仙沼で起きた話として、何だか象徴的ですね。
猪瀬
 そうなのです。
 その後、日本ユニセフ協会がお金を出したり寄付も集まったりして、津波で流されてしまった保育所と障害児童施設が再建されました。高台に再建できる目処が立ち、震災から一年半後ぐらいのタイミングで落成するので、その式典に来て欲しいと言われ、妻と共に訪ねました。それぞれの方々から詳しい話を聞いて、あらためて、一人も亡くならなかった事実に感動しました。この人たちの努力、生き残るために踏ん張った経験を何とか形にしたい、と強く思ったのです。ちっちゃい子どもたちが、手づくりのキラキラモールを振りながら繰り返し「ありがとう」と踊って迎えてくれたんです。思わず涙が出てしまいました。 

ユダヤ人相手のビジネスで鍛えてきたからこその文章力

猪瀬
 もう一つ、書くきっかけがあったとすれば、二〇一二年夏に、ロンドンオリンピックの視察に行ったときのことです。
田原
 二〇二〇年、東京にオリンピックを招致するための渡英ですね。
猪瀬
 はい。その視察の合い間に、ツイートをした子息・内海直仁さんに会いにいったのです。「いったいどういう青年なのか」と興味があった。訪ねていくと、一昔前の秋葉原みたいな感じというか、いわゆるブランドじゃない宝石店が雑然と何十軒もずらりと並んでいる街並でした。仕事場を覗くと、そのエリアはユダヤ人が仕切っているエリアと理解できた。そこに彼は工房を持ち、宝石を加工して販売していた。三十歳すぎくらいで若いのに、現地人も雇って成功しているように見えました。端的に訊いたわけです、「なぜ君はロンドンに来たの?」と。
田原
 あんな僻地から、なぜロンドンへ、と。
猪瀬
 すると、「気仙沼は世界からさまざまな人が来ているところでした。そうい環境に慣れているから、自分としては、ロンドンに行くという選択肢に違和感がなかったし、ごくふつうの気分だった」とさらりと言うのです。これには驚きました。
 彼は、一関高専という五年制の高等専門学校に行き、そこを三年でやめてロンドンに渡った。父親が船乗りだったことも大きいのでしょう。外国航路の船員だった父が、横浜や神戸などに寄港する度に、家族全員でその寄港地まで出掛けていき、ホテルに泊まり、海外で見聞きした話を聞いてきたという。
田原
 なるほど、それは面白い。つまり、彼にしてみれば、気仙沼が僻地であるという感覚を少しも持たずに過ごしていた。
猪瀬
 ロンドンには靴職人になりたいと思って行ったそうですが、そのうちに宝石加工に流れて成功していった。あの宝石街で日本人に求められるのは、馴れ合いの人情でなくユダヤ人相手に説得するロジックです。納得させるだけの理屈を言い、これがいかにいい商品か説明できなければビジネスは成り立たない。それで「あ、そうか」と僕は思った。つまり、あのツイッターの文章の精度は、彼がユダヤ人相手のビジネスで鍛えてきたからこその文章力によるものなのだと。
田原
 百四十字のなかに、そのエッセンスが詰まっていた。気仙沼の中央公民館に避難しているという母親からの情報をキャッチした彼の文章力がこの救出劇の肝となった。素晴らしいドラマです。
猪瀬
 公民館に集まっている人たちの多くは、お年寄りでも若い人でも、皆さん携人-帯電話からショートメールを打ったことでしょう。基地局も地震直後は生きていましたから、電池が徐々に減ってきたとはいえ、メールで辛うじて伝わるケースもあったはず。でも、そういう情報はどこかで止まってしまう。少なくとも行政レベルまでには伝わらなかった。ロンドンに住む息子さんが母親から情報を得て、正確な文章で拡散させた。これが全てのきっかけとなった。
田原
 ロンドンの直仁さんは、テレビなどで気仙沼が大変なことになっているというのは知っていたのですよね。
猪瀬
 ちょうど地震が来たときは、ロンドンは起床時間にあたります。ユーストリームがNHKの火災映像を流しており、彼はそれを見ることができた。
田原
 気仙沼が火の海だという事実は、ロンドンにも届いていた。だからこそ、懸命なツイートができた。
猪瀬
 息子さんは少ない情報のなかで、映像を見ながらこの危機をどう伝えればいいか考え抜いてッターを打た。母親の「火の海もがんばる」といール、ロンドンの息子のツイッター、その息子のトを、中小零細の従業員十人ほどの会社の鈴木修一という人がたまたまキャッチした。キチしてい人は他にもいっぱいいたけれど、それを僕に宛てて打ってきたのは彼しかいなかた。大事なのは、一人でも欠けては届かなかったということ。つまりこれは命を絶やさないためのツイートだったのです。
 鈴木さんは若いときにはヤンキーで、働き始めてからは仙台に赴任して派手な生活をし、バブルが崩壊してから東京へ戻った。借金にまみれて三十万の給料のうち二十万を借金の支払いにあてるような生活を続けてきた。事務機の据え付けを生業にして、ギリギリの生活をしていた。少しずつ借金を返していくという慎ましい生活を必死にしているオヤジだからこそ、「この危機を誰かに伝えなければいけない」と思って、僕のところへ伝えてきたのでしょう。

「災後社会」をどう構築するか

田原
 本文内でも引用しているけれど、吉村昭の代表作の一つ『三陸海岸大津波』、これは明治・昭和時代の大津波を描いていますが、猪瀬さんのこの作品と比べると「三陸とは何か」の変遷が見えてくる。これもたいへん勉強になった。
猪瀬
 三陸というのは後からできた地名で、本来そんな呼び名はなかったのです。 吉村さんが書いたあの明治の大津波を伝える新聞記事で、初めて三陸地方という言葉が拡がったそうです。
田原
 そうか、すっかり大昔から三陸って言っていると思っていた。
猪瀬
 三陸というエリアが行政エリアとしてでき上がってくるのはその頃なんです。
田原
 それにしても、本当に偶然の偶然の偶然というか、いくつもの偶然が重なり、そして、それぞれが持ち場持ち場で全力投球している。いわば見事なオーケストラ。 「446人のオーケストラ」です。
猪瀬
 一つの情報が偶然の必然のように適確にリレーされたということ。そして「オーケストラ」が存在した。これは奇跡なんです。当時の都知事・石原慎太郎にこの話をしたら、「俺、その話知っている」と言うわけです。1950年代のフランス映画に「空と海の間に」という作品があるという。北氷洋の沖合で嵐で遭難した船がSOSを打って、そのSOSを素人のアマチュア無線が拾って、アメリカやソ連など全世界に拡がっていく。鉄のカーテンがあったときにも、アマチュア無線はソ連とすらつながっていた。結局一晩で救助の手が打たれたという。直仁さんの父親が船乗りになった時代、日本は貿易立国で、小さな貨物船が5万トンのタンカーになり、30万トンのタンカーになった。世界中の色々な資源を輸入して加工してというサイクルがあった。でも、グローバル経済のなかで、船そのものは船籍をリベリアやパナマのようなタックスヘイブン国や海運規制の緩やかな国に置く便宜置籍船となり、日本人の船員が要らなくなってくる。それでお父さんは陸に上がるわけです。逆に、息子が世界へ飛び立つ。
田原
 日本列島と太平洋をネガとポジで切り替えて見ると、気仙沼というのは世界に開かれている、という言い方がとにかく印象的だった。孤立しているように見える僻地が、海洋をポジにしたら最も世界に開けた、と。
猪瀬
 日本という場所は、ガラパゴスはガラパゴスだったけれど、江戸時代の鎖国から明治時代には海運国に転じた。世界に冠たる海運を持つようになり、それが日露戦争の勝因ともなった。真珠湾攻撃や戦艦大和にしても、日本は、海に対する認識が強かった。
田原
 海と陸、地方と都会、そのネガポジを反転させる手法が見事でした。この手のノンフィクションは、どうしても「大変だ、悲惨だ」という話になりがちだけれど、猪瀬さんのノンフィクションは、とにかく「よくやった」と称えたくなる、逞しい物語です。
猪瀬
 二〇一五年三月で震災から丸四年が経ちます。この前、東浩紀さんと話していたら、震災後に叢生した若い力によるNPOやSNSを通じたクラウドファンディングなど新しい可能性を模索した取り組みは、おおよそ三年でひと回りしたとい復興予算は五年間の予定です。五年間分だけ用意してあるので、あと一年で終わってしまうわけです。3・11という出来事をこのまま風化させてはいけない。 復興をどう構築するべきなのか、原発など様々な問題も含めて「災後社会」という言葉を僕も含めて使っていたのだけれど、どうにも曖昧になってしまった。
田原
 水没したなかにポツンと残された気仙沼市中央公民館の446人が見せてくれた個人の努力と知恵の出し合い。3・11を描いたノンフィクションとして、こんなに前向きな作品は初めてかもしれません。この作品が読まれることで、3・11が語り継がれていけばいい、そう強く思いました。 



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