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息子先生 (大切なものを大切にする編)

大切なものを大切にするって、当たり前のことなんだけど、大切なものが人によって違うのだ。

それを知らないと、なんで私の大切なものを〜とか、なんで私を大切にしてくれないんだ〜とか、なんで、そんなもの大切にするんだ〜などなど。

大切にしていること、大切にしている気持ちは、ちゃんとわかるように伝えなければ伝わらないのだ。

そんなこと、わかっているつもりでいたが、それは私の視点からの世界の出来事だった。

息子先生、口を酸っぱくして、立ち位置や視点の話をしてくれるのだが、懲りずに何度でも話してくれる。

偉大だなぁとも、懲りないなぁとも笑(おまえが成長しろと突っ込まれている案件)

大切なことが、人それぞれだということは、理解している、常識だって育った環境で大きく違うのだから、当然、大切にしていることも違っている。

私の大切さと相手の大切は、どちらも大切なのだ。

大切なことが違っていても、相手がそれを大切にしていることは、わかるはずなのだが、視点が自分にあると、これがなかなかわからないのだ。

苦笑する。

今まで、私は、たいがいのことを、いいよいいよと言ってきた。

まぁ、気にならないからなのだという私の勝手な思い込みで生きていた。

息子先生は、気にならないのではなく、流しているだけだと教えてくれる。

首根っこつかんで離さない。

夕飯にビールなんぞ飲んで、気持ちよくなって話が弾んで、眠くなって床暖に転がると

「座れ❗️話は終わってない」と

え〜〜〜すこぶるいい気分なのに、

「俺は、空間に話しているのか?まだ、話は終わっていない。寝るな!」と

毎日、懲りもせず、飽きもせず繰り広げられる日常の光景だ。

3日間連続で続いた日には、両手をあげて降参しました。

椅子に居住まい正して座り直し、早く終わらないかと小学生のように頷く。

見透かされる。

「早く終わらないかと適当に聞き流しているだろうけど、あなたの人生は、人に寄り添わずに流しているでしょう。」とのご指摘。

まぁ、その通りですが、いけませんか?と言いたくなるのを我慢して、きちんと聞いてみると良いこと言っているのですよね。

「お互いの大切なことを相手の視点に立って話をすれば、意見が違っても受け入れられる。」

「いつまでも、子供のように我を通すのは、やめましょう。」

え‼︎‼︎我なんて通していませんけど…。
こんなに合わせているのにと訴えたら

「合わせていると思っているところを言ってみて。」と言われ、意外と思いつかない。

苦肉の策で、とりあえず、

⚪︎あなたがいるからご飯を作っているしと言ってみた。

「いやいや自分の都合で夕飯の時間がいつも違うのに文句も言わず合わせているのは、こっち!」

⚪︎あなたの部屋の掃除をしてるしと言ってみた。

「いやいや自分でするから、まして、思いつきで、動くのやめてほしいと思ってる。」

ごもっともなんですが、こちら時間がなくて、出かける前にゴミ出したい→息子の部屋のゴミを取りに行く→埃が気になる→寝てるのに掃除をしてしまう→ありがた迷惑→でも、見てしまったら綺麗にしたいという、家族ありありな光景だ。

考えても私が合わせていることって、実は見当たらなかった(汗)

八ヶ岳で買った宇宙ビールで談義する親子って、幸せなのかもしれない。




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