確認しない1日
ずっと会いに行きたいと思っていた人が東京にいる。
ライカを買い替えた事をTwitterでニオわせつつ、ぼくは上京した。
ただ、相手はぼくがこれまで通りPモデルのM10-Pを買っているものだと思っている。
有楽町駅で出会った彼は不自然にライカの背面を隠すぼくの行動にすぐに気付いて薄いリアクションをした。内心はとても驚いてくれていたようだが。その後クラフトビール店で遅れて登場したもう一人の彼は、吉本新喜劇のような嘘みたいな完璧なリアクションだった。M10-Dを買ってから2週間一切その情報を出さなかったが、二人の友人のリアクションで既にM10-Dの減価償却は終えたようなものだ。
久しぶりのライカトーク、カメラトークで楽しい夜だった。少しクラフトビールを呑み過ぎたようだが、予定もあったのでほどほどに切り上げて解散した。
2日目はM10ユーザーのshintarockさんと東京スナップへ出かける。
最終目的地はずっと行ってみたいと思っていた六本木ヒルズの展望台だ。
集合場所が原宿だったこともあり明治神宮にも付き合ってもらい、東京を去る頃には2万歩/15kmの東京散歩になった。
M10-Dをちゃんと使うのはこの時がはじめて。背面液晶のないデジタルカメラがどうなのか多少の不安もあった。特にSummilux50ASPHあたりになると開放時のピント面も薄いし、そもそもレンズのピントも怪しい。丸一日ピントボケだったら話にならない。
実際に撮りだすと不思議がっているのはぼくより周りかもしれないと思った。撮った写真が確認出来ないことはもちろん、ライブビューなんて今やどんなカメラにも付いている機能さえ使えない。ただし、ぼくは元々そういうのを積極的に使うタイプではないので、Bessaを使うときのような気分でライカを構える。
すぐに気付いたがM-P(Typ240)を使っている時と比べて明らかに違う感覚があった。それは、ISOとシャッタースピード、そして構図をとても意識しているという点だ。ライカユーザーは元々絞りについては言わなくても意識していると思うが、撮って確認すればいいかと思えるようなカメラの場合、前述の細かいことは無視して無駄な写真も量産しがちだ。もちろんM10-Dだって実質撮影枚数に制限はないのでいくらでも撮れる。しかし、撮った写真がすぐに確認できないので1枚で失敗しないように撮る。この緊張感はフィルムに近いものがある。
そう、これなのだ。
ぼくがライカに求めたもの、そしてライカのPhilosophyに惚れたのはこの感覚だ。
カメラに関わらず車や自転車、様々な趣味にこれと同じような感覚は存在するだろう。技術が日進月歩発達し、どんどん効率が重視され便利になる。もちろんぼく自身身の回りはApple製品で固められ、移動用の車は高速道路では何もしなくても勝手に進んでブレーキもするしステアリングも操作してくれる。自転車だって、油圧ディスクブレーキ付きで電動でギアが変速できる最新技術を好んでいる。それ以外でも色々と考えなくてはならない事が多い時代、どこかに自分の右脳を刺激するモノを求めていたのかもしれない。
上に書いたが、撮る前は背面液晶のないM10-Dでの撮影に多少の不安があった。しかし、それは杞憂に終わり、確認できない事に何の問題もなかった。撮ってすぐに液晶を見る行為をライカ社はなんと言っただろうか、そういう行為もしなかった。
そんなことよりも、写真とライカ、そのライカのファインダーの先にある世界、そしてそこにいる友人との時間をより大切にできたのではないだろうか。
Cover Photo by @shintarock62