舞台『A Numberー数』『What If If Only―もしも もしせめて』
舞台『A Numberー数』(2002年初演。以下、『Number』)、『What If If Only―もしも もしせめて』(2021年初演。以下、『What』)のキャリル・チャーチル作品(広田敦郎訳)が2本立てで上演されたのは、演出を務めるジョナサン・マンビィ曰く、『この2本はテーマが共通しているんです』。
『What』(約20分)、『Number』(約60分)の順で上演された芝居を観ながら私は、「共通したテーマ」とは「人生」ではないかと思った。
2作は、舞台中央に置かれたひし形のキューブの中で演じられる。
幕開け、キューブは閉じられていて、客席側の2面の壁が上に移動することによって、室内が開陳され、物語が始まる(舞台・衣裳 ポール・ウィルス)。
舞台上には大小さまざまなキューブが吊り下げられていて、それらにプロジェクションマッピングによる映像が映し出される(映像 上田大樹)。
『What』では、人生とは「無限にある『起きえたかもしれない』可能性の中で、唯一『本当に起きた』事実の積み重ねである」ということが提示される。
仏教の教えである「縁」も「出逢う縁」の裏には無数の「出逢わなかった縁」があり、もしかしたら「出逢わなかった縁」が運命を左右しているかもしれない。
それは絶対に検証できないのだけれど、もし検証できたら……というのが、『Number』なのかもしれない。
クローンではないが、このストーリーで想起するのは、本作パンフレットでも言及されているとおり、手塚治虫の名作『鉄腕アトム(アトム大使)』(1952年。「アトム大使」は51年)。
今の人は、もう誰もそんなことは気にしていないだろうが、アトムは『天馬博士によって交通事故死した息子・飛雄に似せて作られた(だから、当初は「トビオ」と呼ばれていた)』のだ。
しかし天馬博士は全く成長しない「トビオ」に失望してサーカス団に売ってしまう。
ソルターも、息子を死なせてしまったことを後悔してクローンB1とともに「理想の家族」としてやり直そうとするが、結局失敗してしまう。
新たにB2を迎えたソルターは、恐らく気づいたのだ。
「無限にある『起きえたかもしれない』ことの中で、唯一『本当に起きた』ことの積み重ねの人生」であるが故、『起きえたかもしれない』可能性の中から自らが選びださねばならない、と。
ただ、ソルター自身で云えば、結局は自らの人生(この場合は「運命」と置き換えてもいいかもしれない)を変えることはできなかった。
『Number』はソルターがその事実を悟ることで終幕する。
とはいえ、観客が悲観的な気持ちにならないのは、『数多くいるクローンの一つ』であるマイケル・ブラックに『起きえたかもしれない』希望が託されているからである。
舞台上に様々吊り下げられたキューブは『起きえたかもしれない』人生で、中央のキューブで演じられる『What』は、「起きたこと」かもしれないし、「起きなかったこと」かもしれない。
同様に『Number』では、そのキューブそれぞれに「クローンの人生」があり、それは「もし起きていたら」の人生である。
幸福であれ不幸であれ、私は「私の人生」を生きていると思っている。
だがそれは本当に「私の人生」なのだろうか…
メモ
舞台『A Numberー数』『What If If Only―もしも もしせめて』
2024年9月23日 マチネ。@世田谷パブリックシアター
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