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明治期の文化施策から学ぶ共感の作り方

こんばんわ。
中小企業診断士の田中です。
本日は、前回からの続きで文化についてのことを掘り下げてお話ししたいと思います。

前回のおさらい

前回のおさらいです。
伝統文化とは、相反する”伝統”と”文化”という言葉がくっついたものです。古いことを研究調査することで、新しい知識等を発見すること、という意味である温故知新に近い意味をもつ言葉です。
古いものを学び知ることによって、実生活や経営の中での新しい気づきがあったからこそ、茶道や華道は室町や安土桃山期の大名や江戸や明治期の町人にとって経営者のたしなみとして捉えられていたということです。

伝統文化とはいつどこで誰が決めたのか?

伝統文化とは、いつ頃、誰が決めたことなのか、ご存じでしょうか?
この話は普段、私が親しくしてもらっています京都女子大学で教鞭を取られている先生から伺ったものです。
そして、日本人として知っておいて頂いて損ではない話です。

時代は江戸時代末期、1862年に第2回ロンドン万国博覧会が開催されました。さかのぼること1853年に黒船が来日し、蒸気機関で稼働する船をみた日本人はこれに驚愕し、英米の諸国の技術力に憧れを抱きました。62年の万博には日本から使節団が送られました。そこで彼らが目にしたものといえば、鉄骨で作られたガラス張りの建物や超巨大な大砲等でした。
日本に帰国後、その使節団に参加していた1人の若者は”このままでは、アヘン戦争で敗れた中国のように、日本はいつか英米の技術力の前に国だけでなく培った文化もろとも滅ぼされてしまう”と考えるようになりました。
そこで彼はある方法を考えました。
それは自分たちが培ってきた文化が優れていることを世界に発信することと、その発信を担っていく人材を作っていくといったことでした。
まず明治維新後、1873年のウィーン万博において日本政府として初の万博出展を行います。当時の日本の国家予算の半分を使っての大博打でしたが、残念ながら失敗におわってしまいます。失敗の大きな理由は、日本がこの時に持っていったモノ、例えばお寺や神社などの建造物のレプリカといったものは、欧米人の目から見ると中国やインドの寺院とどこが違うのか全く理解ができなかったということでした。いわゆる、主観的に当時の日本人があまり深く考えないで選定をした結果、他のアジア地域との比較において差別化された姿・形のモノとなっていなかったということでした。
一方、国内では明治維新後の新政府において、日本が過去に培ってきた文化の否定が行われるようになっていました。特に江戸時代を通じて発展を遂げてきた技芸に対する風当たりはひどいものでした。また、神社を保護し、仏教を卑下するということも起こり、大寺院の中にも金策のために土地を切り売りしたり、塔を破壊してそのがれきを売ったりする所まで出るようになりました。このままではいけないと思った彼は、”帝室論”という本を書き、そのタイトルの通り、現在の皇室の方々に向けて文化や歴史遺産保護の重要性を訴えました。

実はこの”帝室論”の中で、伝統文化というものが制定されました。そこには、茶道や華道といったものから、大工技術や造園技術、果ては古式水泳といったものまで22ほどの技芸が登録されています。

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これと並行して彼は次世代人材の育成のために、東京に私立の教育機関を作りました。
そして、現在彼は日本の皆に愛される1万円札を飾っています。
彼の名は福沢諭吉です。

以上のように伝統文化は定められた経緯があります。色々な定義はあるとは思いますが、伝統文化と言われるもので学識的なものに関しては、この帝室論に載っているものになります。

なぜ、彼は文化を推したのか?

以上のような話の中で、1つの疑問が出てきます。
それは、軍事力全盛の時代になぜ福沢は文化の重要性を第一に求めたのか、というものです。
これの答えは、この帝室論の後に日本で発生する世紀の発見が教えてくれます。
まずは、日本政府の要請を受け来日したフェノロサが1884年に法隆寺夢殿の厨子を開扉させたことにより、救世観音菩薩立像(くせかんのんぼさつりゅうぞう)や金堂壁画の発見、世界で最も古い木造建築の発見に繋がりました。
そして、モースが大森貝塚の発掘調査で見つけた当時世界で最も古い土器とされた縄文式土器の発見です。
最後に、1875年に東大寺の所有から内務省への管轄に変わったことにより、その全貌が初めて明らかになった正倉院宝物の存在でした。
以上の3つの発見により、日本は極東の辺境の島国という地位から、世界の歴史や考古学、文化人類学者の最先端の研究対象の場所に変わったのです。

この変化が何を意味するかというと、文化的・歴史的な価値をわかる学者たちがかかわることにより、海外の列強諸国は簡単に日本に手を出す事が難しくなったということでした。
それにより、日本は急激な軍事力の発展と経済産業の発展を遂げ、1894年の日清戦争や1904年の日露戦争に勝利できるまでになりました。

文化は最大の平和の盾である

私が経営に携わっている奈良にある公益社団法人では、”観光×SDGs”という日本国内でも先端的でかつ内閣府や観光庁などの支援をもらいながら事業を行っています。
観光は”光を観る”と書きますが、これは他所の輝いている所(=長所)を観にいくという意味があります。その輝いている所というのは多くがその地に存在する文化であると考えます。独自性のある文化を守ることで、他国の人たちにもその体験を通じて、大切なモノと認識してもらうことこそが、平和の礎を築く近道だと考えています。

相手に知ってもらうための努力はできていますか?

脈絡なく話を展開しましたが、ここで最後に整理をしておきたいと思います。
今回の話でお伝えしたいことは、相手に知ってもらう、ちゃんと理解してもらうための努力はできていますか?主観的で独りよがりになっていませんか?、ということです。
日本政府ですら、自分たちの保有している文化の独自性というものが、その伝えたい相手である欧米にしっかりと伝わるまで大変な苦労を続けてきました。

その過程の中で、わかった重要なポイントは、
①他者と比べた時に、差別化できるモノは何なのかを考える
②第三者の目をいれて意見をもらう
以上の2点だとふり返ってみると理解することができます。

①は福沢諭吉の”帝室論”における伝統技芸の制定だったり、失敗に終わったウィーン万博の存在であったりといったことが言えますが、特にここではアジアのインドや中国といった他国の事を知ったことにより、自分たちの独自性を発見することができたということです。現に、書画は最初、伝統技芸として福沢によって登録されましたが、のちにフェノロサからの指摘にあい、中国由来の文化だとしてその登録を消すことになりました。他者と比べて、自分はどうなのかという視点は必要になるということです。

②は世紀の発見の3つ中2つが日本人ではない人による発見であったということで、主観的ではなく客観的な視点もいれた説明を行うことが大切であるということです。
自分の後ろ姿は自分には見えませんが、他人には見えるのと同じで、自分が気づいていない他人に伝わり易い自分の説明の仕方というものを、自分ではない他の人がもっていることもあるということです。

この2つのポイントを押さえることで、他人に理解してもらえる、共感してもらえる、相手が面白いとか珍しいとか興味を示してもらえる、といったような説明ができるようになると思います。

最後にお知らせ

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と題し、本ブログで触れた、いけばなと共感力のお話しなどを、実際にいけばなを体験してそれを体感して頂くワークショップを中心にお伝えする予定です。
こんなイメージの作品を完成品として作るワークショップになっています。

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本ブログで引き続きいけばなや日本の生活文化と経営に関することなどをお話いたしますので、次回以降も是非ご高覧いただけますと幸いです。

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