死と生に

難しい題名だと思うか。案外そうじゃない。解き終わったパズルの様に、2度目に理解した時には単純なものだ。そんな僕も2度目を知ったのはすこし昔のことで、それまでは皆さんとお揃いの頭を乗っけていた。理解をしたきっかけも、単純な考えをテキトーに積み重ねた結果、なんとなくバランスよく立っていたので、歳の数だけ火のついたロウソクを突き刺し、記念にハイ“チーズ“しただけで、別に、親切なおじさんが作った頭部を、親切でこれまた怪力なおばさんが僕につけてくれたわけでもないので、すきに思考してほしい。それが面倒くさいのならしなくていいが、無知と無視は違うので、そのバイキンの様な性格と、バイバイするにはうってつけの乱暴に殴れる題材だと私は思う。

一旦ここで改行し、関係性をなくそう。
「生と死」とは誰もが妄想するにはうってつけの気軽で食べにくい料理だ。片手間に食べ始めやすいが、進むにつれ着席し、ナイフとフォークで骨を外すも、子どもが食べた後の魚のように、残骸を後にし退席してしまう。

死が恐怖の象徴としている理由は、死について知らないからだ。正確に言えば 死んだ後について何もしらない からだ。
僕からしてみればそんなことを考えたところで何も生まない。死については無知で無視することが最適な過ごし方だ。馬鹿の持ち物である無知をつかうことによって 「死」と死ぬまで友達でいられる。だから僕は「死」に対しては馬鹿でいられる。もう1人の「生」は一体どんな奴なのか。アイツはストーカーだ。前には絶対に居ない。待ち伏せなんてしない。常に後ろからこっちを見ている。僕の歩いた跡を、ただ、ひたすらに、ついてくる。
明るくて、優しくて、暖かいと皆はいうがアイツはそんな奴じゃない。見てる。ただ見てる。
存在はしているが、認識はしてない。アイツには近づくな。