人間の本質的な芯の部分は“自己愛“だ。これに感情やプライド、欲が糸のように巻きついてその人間を形成していく。 綺麗な丸のまま巻かれていく球もあれば、歪な凹みや鋭利な尖を、知らぬまま、又は望んで巻きつける人もいる。それが自分というオーダーメイド品ということを、店頭に並べられてることを、自覚してる人は少ない。魂のこもった品物として誰かの手にとってもらうことを、僕は予感している。何故か?それは、自分が“品物“であること“買い手“であることを知っているからだ。世の中には有名人と呼ばれる人がいる。TVでよく見るあの人。SNSで活躍してる人。そのどれもが有名人と呼ばれる。その基準とはなにか、知る人の数だ。 何やったか、何の実績があるかは必要ない。何もしなくて、何を残さなくても、知る人の数で有名人になれるのだ。エベレストに登ってもそれを誰も知らなければ、愛しい足跡の名残さえ消される。大地のような歌声さえ誰にも聞こえなければ、葉から落ちる雫よりも静寂に愛される。
「知る」ということが品物に魂をくくる、唯一の方法なのだ。最近、人間になった僕は知ることを堪能している。王のようにすべてを愛せる赤、空気のようにすべてを包みこむ青、光のようにすべてを抱く緑、すべての始まりの黒。
これらを混ぜ合わせた毒を仕掛けては、得体の知れない文字を捕獲し、食し、血肉に代謝していく。自分の変化にはよく気づく。自分をよく知ろうとしているからだ。しかし、他人を知るには熱量を使う。髪を切ったとか、シャンプーを変えたとか、そのような皮膚の上の変化ではなく、あいての糸の巻き方、太さ、色の濃さだ。それを、五感を通り越したもっと敏感な部分で飲み込んでいく。その行為はセックスやドラックを超えるであろう 快楽を 与えてくれる。
だが、それは、全ての人は持ち合わせてはいない。初めは誰ももっていないのだ。「知る」ことに落ちていった者だけが辿り着ける場所。
その場所への道しるべとして、この糸を通す。