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熊野比丘尼の中国紀行-武漢の思い出編-

友人がFacebookでシェアしていた武漢の映像作品を見ました。

これを見ていると、いろんな思いが湧き起こってきます。
人の気配が異様に少なくて、街並みが美しいな、とか。
こんな大変な時なのに、そんなこと思って不謹慎で申し訳ないな、とか。
車の大渋滞のイメージしか無かった武漢が、こんなになっちゃうなんて痛ましいな、とか。
こういう作品を創れる若い人たちがいるって、頼もしいな、ちょっと羨ましいかな、とか。
本当にいろいろなことを想います。
何にもできないけれど、せめて、あの街を言祝ぐことでエールを送りたいなと思って、2011年に私が旅した時の思い出を書くことにしました。

(一番上の写真の粗さにガラケー時代を感じていただけたら嬉しいですw)

武漢ってどんなところ?

武漢というのは、ホントに巨大な都市です。
人口は約1100万人らしい。東京都と同じくらいの規模感でしょうか。
日本の会社の支社もたくさんあって、駐在の日本人も多かった印象です。

中国は、北は黄河、南は長江という大きな川が、西の高地から東の海へと流れています。
武漢は南側を流れる長江の真ん中あたりで、場所的には中国のど真ん中という感じでしょうか。
長江の上流から順番に大都市を辿っていくと、まず東京同等の人口の成都、続いて東京の倍以上の人口の重慶(実は北京や上海より大きい!)、中ほどに武漢があり、そして海際の河口にあるのが上海という位置関係です。

武漢は大河の中流にあったため、大昔から交通の要所で、ガチで4000年~6000年くらいの歴史があるみたいです。
元々、川べりにあった3つの町が、ひとつにひっついて「武漢」という名前になりました。
元の名前はそれぞれ、武昌、漢陽、漢口、と言い、武漢三鎮という表現もあります。
鎮というのは都市を表す古い言葉で、中国の古鎮めぐりを趣味にする方もいますね。

歴史好き必見!“黄鶴楼”

映画『レッドクリフ』(原題: 赤壁)がお好きな方は、呉の国の王さま、孫権が建てたと言われる“黄鶴楼”を見に、いつか武漢へ行っていただきたいです。
建物自体は近年に復元(?)された新しいものですが、黄色い瓦屋根の中国風楼閣や、至るところに居る獅子の石像の可愛らしさなど、さまざまな楽しみ方があります。
歴史好き、中国文化好きの方でしたら、長江の景色を見ながら三国志の時代に思いを馳せるも一興、漢文の教科書にあった(かもしれない)李白の詩の情景を想うのもまた一興です。
ちなみに、英語では“イエロークレーンタワー”と言うそうです。
(直訳しただけなのに、日本人からすると素敵さ半減な名前……)

思い出の湖北省博物館

私の一番の思い出の地は、湖北省博物館。
「これが省の博物館!?国立博物館の間違いじゃないの???」
と思うくらい、立派な建物にまずびっくり。
そして、中身も度肝を抜くようなものがゴロゴロあるところだったのです。

英語のできるガイドさんに案内いただいたのは、紀元前433年頃に埋葬されたというお墓の展示コーナー。
紀元前5世紀というのが、まず想像の域を超える古さでした。
日本だと、吉野ケ里遺跡ぐらいでしょうか?
こちらは青銅の鐘を50個以上連ねた『編鐘』と呼ばれる楽器が目玉みたい。
ひとつひとつの鐘としては、別のところでも出土していたらしいのですが、それまでは用途や演奏方法などがわかっていなかったそう。
こちらの博物館にあるものは、楽器全体がほとんど完全な形で残されているので、音階などもわかる、とっても貴重な遺物なんだそうです。
青銅器というと日本では銅鐸や儀式的な剣くらいしか見ないもので、たーーくさんの(しかも中々に綺麗な状態の!)鐘を見ていると、ホントに歴史スケールの大きな国なんだなぁと実感しました。
埋葬されていた王さまだかお殿さまは、日本で学ぶ教科書では聞いたこともないお名前の方でした。
(そんな無名な領主でも、こんな立派な副葬品だったなんて!)
そう思うと驚きがため息になって、何度も何度も「はぁ~っ!」と息をついていました。

「残りは、またの機会にでも見に来てくださいね」
と仰るガイドさんに連れられ、外へ出て行こうとして、ちらっと脇をみて驚愕しました。
越王句践の剣」だの、「呉王夫差の矛」だの、歴史の教科書で見たビッグネームが入り口から間もなくのスペースに鎮座しているではありませんか!
ホント、目が飛び出るかと思うほど、びっくりしました。
「びっくり!」の感覚を日本の歴史で喩えるならば、卑弥呼の鏡とか、聖徳太子の十七条憲法が展示されていたのを見たかのような驚きでしょうか。
呉王や越王なんて、歴史として知ってはいるけれど、実際のモノが残っているとは思えないくらい昔の話だと思っていたのです。
(そして、紀元後2世紀の卑弥呼、6世紀の聖徳太子より、だんぜん古い…)
呉越同舟という言葉の元にもなった、呉とか越とかいう国は、紀元前473年に戦争をしたと言われているらしく、有名な秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の200年以上前の出来事なのです。
句践・夫差と言えば、春秋時代の二大スターくらいに思ってたのに。
それをスルーしちゃうガイドさんの感覚にもびっくり…。
ひょっとしたら、湖北省人として、地元である楚の国のものじゃなく、当時としては敵だった国の王の武器だから、あえて紹介しなかったのかも。
なにはともあれ、ホント、広大な歴史観のお国です、中国大陸は。

でも、湖北省博物館が私の1番の思い出の地になった理由は、実は、歴史の深さが原因ではないのです。
本当の思い出は、ガイドさんが教えてくれた、武漢の誇りのお話なのです。

「過ちを正す動きは、いつも武昌から起こる」

私が武漢を訪れたのは2011年。
その100年くらい前に、武昌蜂起という事件がありました。
中国最後の皇帝、ラストエンペラーが治めた清という国を崩壊させるきっかけが、この武昌蜂起だったと言われています。
その当時、欧米各国から不利な貿易条件を結ばされ、日本にも戦争で負け、瀕死の状態にあった清ですが、国内ではまだ強い権力を持って圧政を敷いていました。
革命を志すリーダーたちは中国各地に居たのですが、真っ先に立ち上がったのが武昌だったというわけです。
そして、その武昌蜂起が火付け役となって革命の動きが広まり、辛亥革命という形をとって、清王朝にとどめを刺すこととなったのでした。

その話を教えてくれたガイドさんは、強い眼差しで英語でこう語りました。
「北京や上海、かつての南京など、権力中枢となる大都市は海近くにある。でも、中央の政治や権力者たちに何か歪みや過ちがある時、それを正す動きが必ず武昌から起こってきた。それが、武漢という都市の誇りなんです」
そう話すガイドさんの表情が本当に誇らしげで、そのストーリーの力強さに胸が熱くなりました。
権力の流れとは独立して、毅然と立つ市民であることの気概と矜持。
その誇り高さが私にはとても美しく思えました。

今回、冒頭に引用させていただいた動画を見て、約10年ぶりにあの胸の熱さが蘇ってきたような気がします。
それと同時に、今回、コロナウイルスのパンデミックの波が武漢という都市に課した試練に、何か深い意味があるのかもしれないな、とも思うのです。
ひょっとしたら、こうした動画のように、思いやりで繋がる人々のアクションが、苛烈な競争社会や行き過ぎた開発に病んだ人たちを癒す、ひとつの力になるかもしれない。
そうなるといいなと願っています。

この動画を見た人たちも、それぞれに希望を見出してくれることを祈って。

2020年1月29日

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