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大月桃太郎伝説③

 今回から少し踏み込んでいきます。

 「大月桃太郎伝説」が、いつ、どのように誕生し、広まっていったのかということについて、資料を紹介しながらまとめていきます。要点は以下の3つに整理できます。

①この地域と桃太郎の関係を示すものは明治期から狂歌として存在。
②「桃太郎もち」の販売によって話が広がった可能性がある。
③初期の「大月桃太郎伝説」は、地名と従者の名称が関係していると指摘
されるのみで具体的な物語をもっていなかった可能性がある。

 以下に詳細を記していきます。
 
 昭和12年(1937年)に講談社から発行された絵本『桃太郎』には、中田千畝による「桃太郎物知り帖」が集録されており、全国の桃太郎が紹介されています。「大月桃太郎伝説」は、桃太郎の生誕地の一つとして(「山梨懸北都留郡」)下記のように紹介されています(中田1937)。

山梨縣北都留郡
有名な猿橋(地名)は猿、鳥澤(地名)は雉、犬目(地名)は犬、これが桃太郎の従者が出た所で、桃太郎は桂川べりの農家で生まれたというのです。猿橋驛では『桃太郎もち』など賣つてをります。

 これより遡る資料は、明治36年(1903年)刊行の『風俗画報』第272号です。ここに集録された野口勝一による「入峡記」に、「犬鳥猿相連なるが故に、昔譚桃太郎鬼ヶ島道中に似たりとして、昔より狂歌を伝ふ」という記述があります(野口1903)。狂歌とは、滑稽な内容などが盛り込まれた短歌のことですが、狂歌そのものは記されていないため、どのような歌だったのかよくわかりません。

 「入峡記」は、野口が当時開通したての中央線に乗り、沿線のまちの風俗について、甲府駅まで書き記したものです。

 この地域で教員を勤めていた石井深は『大月市の歴史と民話』のなかで、「ある本に桃太郎 ここらで供を連れにけん 犬目鳥沢猿橋の宿という歌が伝わっている」(石井1980)と紹介しており、野口のいう狂歌との関係が注目されます。

 石井の記述については、齊藤純が「ある本」とはどの本なのか石井本人に手紙で問い合わせており、「ある本」と書いたが本ではないこと、その歌は「桃太郎もち」の製作のもとになった歌であるという回答を得ています(齊藤2007)。

 「桃太郎もち」とは、大正期から猿橋駅で販売されていた菓子で、包装紙には和歌が記されています(1)。それを見ると、「桃太郎 是より友を つ連伴らん 犬目鳥澤猿橋の里」と判読でき、字余りではありますが、石井の紹介した歌とかなり似ていることがわかります。

画像1

 
 野口のいう、「昔より伝わる狂歌」が石井の紹介したものか、「桃太郎もち」の包装紙のものかは判断できません。しかし、石井の紹介した歌は出典を明確にできないこと、「桃太郎もち」のほうが石井の『大月市の伝説と民話』(1980年)よりも古いということから、野口の「昔より伝わる狂歌」が「桃太郎もち」誕生のもとになった歌であり、「桃太郎もち」の包装紙に書かれた歌であるとして考えていきたいと思います。これを前提にして以降を考えていきます。
 
 「桃太郎もち」の包装紙に書かれた歌が、野口のいう「昔より伝わる狂歌」だとすると、すでに明治期にはこの地域と桃太郎の関係が取り上げられていたということがわかります。ただ、「昔より」がどこまで遡れるかは不明です。
 
 「桃太郎もち」の包装紙に書かれた歌は、出だしが「是より」となっており、猿橋駅でこのもちが販売されていたことから、猿橋を起点として物語が始まることを示唆しています。地名の順番が「犬目鳥澤猿橋の里」となっているのは、歌の形式(5・7・5・7・7)に合わせたためと考えられます。実際は字余りですが。
 ここで注目したいのは、猿橋を起点とした順序で従者を従えると、鬼退治の場である岩殿山とは逆方向に向かうことになる点です。中田千畝による「桃太郎物知り帖」も、地名と従者の名称との関係が述べられていますが、岩殿山での鬼退治については記述されていません。かわりに「桃太郎もち」の紹介があり、この商品がある程度知名度があったことを推測させます。
 
 つまり、「桃太郎もち」の包装紙に書かれた歌や、中田による「桃太郎物知り帖」を見る限り、初期の「大月桃太郎伝説」は、地名と従者の名称が関係していると指摘されるのみで具体的な物語をもっていなかった可能性があると考えることができます。また、桃太郎の生まれも「百蔵山」の桃からではないことも指摘できます。

 猿橋からスタートすると、鳥沢、犬目と進み、一行は岩殿山とは逆方向の東京方面へ向かい話が終了します。これはいけません。
 「俺たちの戦いはこれからだ!」
 「ご愛読ありがとうございました。」
 「○○先生の次回作にご期待ください。」
となってしまい岩殿山の鬼と戦いません。

 現在の「大月桃太郎伝説」の内容になるためには、東京方面へ向かってしまう一行をどこかのタイミングで岩殿山へ向かわせる必要があります。このことを次回以降、詳細に考えていきたいと思います。

 まとめると、誕生については、まず、地名の並びから昔話の桃太郎が連想され狂歌が誕生し、そしてその狂歌をもとにして誕生した「桃太郎もち」が中央線の乗客を中心に販売されたことから広がっていったと考えられます(齊藤2007)。

 しかし、話は広まったものの、やはり連想から創作されたものであったため、地域に伝わる伝説としては認識されなかったと考えられます。その証拠に1925年に刊行された『北都留郡誌』(山梨県北都留郡誌編纂會1925)や、土橋里木の『甲斐昔話集 続』(土橋1936)および『甲斐の伝説』(土橋1975)に「大月桃太郎伝説」は集録されていません。

要点を以下3点に整理しました。
①この地域と桃太郎の関係を示すものは明治期から狂歌として存在。
②「桃太郎もち」の販売によって話が広がった可能性がある。
③初期の「大月桃太郎伝説」は、地名と従者の名称が関係していると指摘されるのみで具体的な物語をもっていなかった可能性がある。

 ここまでお読みいただきありがとうございます。

 次回は「大月桃太郎伝説」の舞台となった場所等について画像をお見せしながら解説していきたいと思います。



(1)画像のものは復刻版の包装紙です。

【参考文献】
石井深1980『大月市の伝説と民話』(手作り冊子)。
齊藤純2007「猿橋の桃太郎-見立てから伝説へ-」『世間話研究』第17号、世間話研究会、pp.1-pp.25。
土橋里木1936『甲斐昔話集 続』、郷土研究社、pp.230。
土橋里木1975『甲斐の伝説』、第一法規出版、pp.29。
中田千畝1937「桃太郎物知り帖」『桃太郎』、講談社。
山梨県北都留郡誌編纂會1925「第三十三章 故事傳説」『北都留郡誌』(復刻版)、千秋社、pp.1119-pp.1133。

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