死ぬということ

かれこれ5年ほど常連客として来て頂いているばあさんとその息子のおじさんの二人組。
しっかりとした足取りのばあさんだったが、
いつしか店の重い扉をおじさんが開けるようになり、
やがて手押し車を押すようになり、
注文量が減り、
椅子をおじさんが引くようになった。
終いにゃ酸素吸入器を鼻に入れている辺りでてんで見えなくなってしまったところで、
ああもう外にも出てこれなくなったのかと思っていたあのばあさんが、
今日久し振りに店にやってきた。

それはそれは変わり果てた姿で。

おじさんの介助なしに料理を食べられず、
歳の割に艶のあった髪もバサバサで乱れに乱れていた。
顔は青白く目は虚ろで、美味しいんだか不味いんだか、楽しいんだか悲しいんだか全く読み取れない能面が、おじさんが話しかけてもピクリともしない。

辛かった。出来れば二度と見たくないくらいに。
いつものように『またお待ちしてます』とは、口が裂けても言えなかった。

自分も死ぬときはこんなにも枯れ果てるのかと恐怖したが、
一方で醜く生に固執したくないとも思った。
でも、ばあさんだって死にたくて生きてる訳もない。
ばあさんだって生きたいはずだ。生き永らえて、満足して死んでいきたいはずだ。

見窄らしくても生き続ける、ということに自分自身が固執する日が来るのだろうか。
若いというだけで何もかもを振り切って好きなように生きている自分が、
死にたくない、生きたいと心から思う日が来るのだろうか。

私の人生は未だ道半ば。
死んでいく者をこれから数多く見届けていくことだろう。
そんななかで、あのばあさんに醜さを見出さず、美しさや儚さを汲み取ってあげられる思いやりのある人になっていければ良いなと思う。

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