6話

第6回 こうあるべきまともな姿

 先日、面白い本を読んだ。
 NPO法人スウィングの理事長が書いた、『まともが揺れる─常識をやめる「スウィング」の実験』(著:木ノ戸昌幸/朝日出版社)という本だ。

 京都にあるNPO法人スウィングは、「こうあるべきまともな姿」から大幅にはみ出した「障害者」と、何か新しいことができるかもしれないという思いのもと、理事長の木ノ戸さんが、ありあまる熱意半分とやけくそ半分で設立した福祉施設だ。
 毎日15~20名の障害者がやってきて「本当にどうでもいいこと」を朝礼で発言し、眠くなったら昼寝をすることが推奨され、特に理由もないのに休みを取る人には拍手が送られるという。
 
 「ギリギリアウトをセーフに。どうしようもない弱さを強さに。そして、たまらん生きづらさをユーモアに」熱い理想を胸にしたスウィングの活動は、戦隊ヒーローに扮して清掃活動する「ゴミコロリ」、市バスの路線・系統を丸暗記している障害者コンビによるヘンタイ記憶パフォーマンス「京都人力交通案内」、芸術創作活動「オレたちひょうげん族」など。特に創作活動は、大きな半紙に筆でしたためられらた「親の年金をつかってキャバクラ」や、氷川きよしを集めてサイケデリック調にコラージュした作品など、想像の斜め上をいくものばかりだ。
 木ノ戸さんの視点から語られる障害者との日常は、ブラックユーモアに溢れ、「障害者ってこんなに面白いのか」という新鮮さに満ちている。

 さて、木ノ戸さんがこの型破りな施設を作ったきっかけが、実に興味深かった。26歳のときに、障害者の福祉的就労を支援する福祉施設の職員として働き始めた木ノ戸さんは、そこにいる「職員」と「利用者」の分かりやすく二分化された構造と、そこから生み出されるいくつもの支配的なルールに疑問を持ったという。

(以下、抜粋)

 たとえば職員は利用者から「先生」などと呼ばれていた。最初は最先端のギャグかと思ったが、残念ながらそれが当たり前の世界だったのだ。
 先生たる職員の仕事は利用者を、社会が求める「こうあるべきまともな姿」に当てはめること。「もう、それ絶対無理!」というのは皆わかっているというのに、他の方法を考えるのではなく、むしろ「できないあなたが悪い」からまた指導・訓練するという不毛なループが延々繰り返され、支配的構造が強化される。
 一体何のためにそんなことを?と考えるのがむしろまともじゃないかと思うのだが、職員たちは悪意なき矯正に躍起になっており、その一方で自分たちを雇用する経営陣への服従っぷりも異様なほどだった。

 衝撃だった。障害者にまで健常者と同じ「まとも」を求め、絶対にできないとわかっていながら、指導を続ける不毛な仕事がこの世にあるなんて。世の中ってこんなにもアホなのか。
 でもそれって、この世界そのものかもしれない。現代人の多くが精神を病んでるけれど、その理由はこういうところにあるのかもしれない、と私は読んでいて思った。

 そこで思い出したのが自分の子ども時代である。

 私はとにかく体育の授業が嫌いだった。「飛んでくるもの恐怖症」で(そんな言葉ないけど)それは大人になってからよくよく考えて自覚した。例えば今でも路上で子供がボール遊びをしていると、自分のほうに飛んでくるかもしれない恐怖で足がすくんで前を通れない。そんなレベルだから、子ども時代のドッジボールは殺人ゲームにしか思えなかった。当時は硬いバスケットボールを使っていて、ある女子児童は、顔面にボールを当てられて眼鏡を破損し、顔に一生残る傷を作っていたくらいだ。とにかくボールで攻撃されることが怖くて怖くて、なぜみんなが楽しそうにしていて、学校で推奨されているのかがさっぱりわからなかった。
 水泳も正しいフォームで泳ぐことができず、スピードを出すことができない。短距離走はビックリされるほど遅く走り方も「へん」と言われた。身体はとても硬く、前屈は手を伸ばしても地面から10㎝以上は浮いていた。まじめに授業を受けても通知表は「2」がせいぜいで、骨折して授業に出られない時期は「1」をつけられたくらいだ。

 私はずっと、自分は運動ができないと思い込んでいたけれど、大人になると不思議なもので、だいたいのことはそれなりにできてしまう。
 あれほどできないと思っていた水泳は、ジムのプールに行けばフォームが間違っていようが必要な距離は泳げてしまうし、社会人になってからは、筋トレやエアロビやベリーダンスやボクササイズなど、健康のためにあらゆる運動をやってきた。ここ7年ほどは、ピラティススタジオに通っているけれど、周りを見渡すと、自分より身体が硬い人がいて衝撃を受ける。子ども時代は自分が一番最低で、それより酷い存在はいなかったはずなのに、私自身は何も変わっていないのに、年とともに周りは動けなくなっていくのだ。日常では歩くのがとても速く、男性と同じスピードで歩くので驚かれるほどだ。

 そうなってくると、あの体育の授業は何だったんだろうと思う。私が「運動が苦手で力の弱い人間」と思い込まされいた、あの膨大な時間は何だったんだろうと思う。授業で評価対象となるものがたまたま全部できなかったというだけなのか。けれど、そのせいで私は「劣った人間」に振り分けられ、酷く劣等感を植え付けられ、覇気が無い子どもとして萎縮しながら過ごしてきた。
 学校は学校のルールでしか評価されない場所で、そこにはまらない人間は抹殺されていく場所だと今でも思う。

 さて、福祉施設で絶対にできない「まとも」を求められていた障害者たちはどうだろう。ストレスを貯めながら鬱々と過ごしていた彼らは、スウィングに移るとたちまちその能力を発揮し始めたという。

(以下、抜粋)

いつも下ばかり向いていた増田さんが子ども相手にヒーローを演じるなんて。あんなに暴力的だったQさんが初対面の人の似顔絵を描くなんて。不安と緊張だらけのかなえさんが朝礼で発言するようになるなんて。でも増田さんは、Qさんは、かなえさんは、本当に「驚くべきいい感じの変貌」を遂げたのだろうか。なんだか少し違う気がする。たぶん彼らは変わったのではなく、本来の、混じり気のない、素っ裸の自分へと還っているのだ。

 ひょっとすると、通り魔殺人犯も、引きこもりも、若者の自殺も、生み出さない方法はシンプルなんじゃないかという気がしてくる。逆に人を追い詰め狂わせる方法もきっと簡単なんだろう。
 彼らは社会を反映している。家族も社会が作り出している。生きていく過程で「こんな場所では生きていけない」と思い込まされるような判定をされ続けてきたのだろうと思う。

 スウィングの活動の中に、人類が幸福を得るヒントが隠されているように、私は感じる。

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1980年、東京都生まれ。写真家、ノンフィクションライター。写真集に『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間①②③』、著書に『ノーモア立川明日香』(共著)、『のらねこ風俗嬢-なぜ彼女は旅して全国の風俗店で働くのか?』など。@kaworikawori
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