第14回

第14回 健康とはなんぞや

 「趣味は?」と聞かれたら、「健康」と答えるようにしている。昔は「健康オタクです」と自嘲して言っていたこともあったけど、別に新しい健康法を次々試して満足しているようなタイプでもないので、そういう言い方は止めた。私は、切実に健康を求めているのだ。健康でいることは仕事のうちでもあるけれど、そのための努力は楽しくもある。

 今、運動ではピラティスを7年ほど続けていて、食ではジューサーで作ったニンジンりんごジュース、無農薬玄米、薬用養命酒を体調に合わせて適度に取っている。他にもいろいろ試すことはあるけれど、効果がなければすぐに止めるので、これらは確実に効果があって続けているということだ。
 というような話をすると、すぐに新しい健康法を勧めてくる人がいるけれど、新しく始めるというのはそれだけでストレスになるので、ちっとも嬉しくない。根拠が怪しいものは信じないし、自分に必要かどうかは直感だけを頼りにしている。
 
 なぜそんなに健康に気を遣うかと言えば、私はそもそも体が丈夫ではないからだ。今年の夏は、2回ほど熱中症になりかけたし、8月の一か月間のうち半分は酷い偏頭痛だった。自律神経が弱いのか、暑さと寒さを交互に繰り返すとすぐに体調不良になる。とはいえ、30代になってだいぶマシになったほうで、20代はもっと酷かったし、子供の頃はさらにもっと酷かった。
 今は克服したけれど、20代までは立ち眩みが酷く、立ちあ上がるたびに視界が真っ暗になっていた。撮影の仕事中、実は何も見えてないのに見えてるふりをしてシャッターを切っていたこともあったくらいだ。顔色はいつも悪く、会う人会う人に「顔色悪いよ」「大丈夫?」と指摘されていたし、目の周りが黒くなるようで「誰かに殴られたの?」と聞かれることもたびたびあった。自分では見慣れた顔なので、そう言われても実感がなく、言われるたびにムカッとしていた。ただの嫌味だと思っていたのだ。
 睡眠は、今も過眠気味でいくら寝ても眠くなる。リアルな夢をオムニバスで見るので、起きると疲れていて損した気分だ。
 
 先日も、友人と車で遠出をした際に、私は運転が楽しくてずっとしていたいのに、どうにも眠くなって交代してもらった。9時間は寝たにも関わらず、瞼が落ちてくる。私よりあきらかに睡眠時間の少ない友人が、何時間もスイスイ運転しているのを見ると、基礎体力の違いに愕然とする。
 また別の日、友人二人とご飯を食べとき、既に深夜11時を回っていたけれど、一人はこれから深夜バスで地方へ向かい、もう一人は翌日早朝から飛行機に乗って海外へ飛び立つと言う。「何も準備してないから帰ったら荷造りしなきゃ」などと言っているのを聞いて私は愕然とした。自分だったら体力的に絶対に無理だ。そのスケジュールなら、私は今ここにいないだろう。そんな無理をしたら、確実に片頭痛が起きて、行った先で一週間使いものにならなくなるはずだ。

 ああ、と思う。どうしてどうして、こんなにも私は人より使える時間が少ないのだろう。一か月のうち平均して三分の一は片頭痛になる私は、人生の三分の一が片頭痛に奪われていることになる。人並みの健康を手に入れなければ何も始まらない。一日をちゃんと普通の人のように使いたい。
 この歳になると、それまで健康だった同年代の人間が、それまでの不摂生がたたって次々ガタがきているので、私は逆転して健康な人間の部類に入っていると思う。でも基本の部分が奪われているので、やはり基礎体力では勝てないのだ。

 なにごともほどほどにしかできない自分がもどかしい。神様から「お前には絶対に努力などさせてやるものか」と宣言されている気分だ。
 でもそれでも、どうにかして普通の健康を手に入れたい。気力と体力、人生はそれだけで左右される。それさえ手に入れれば、全てが手に入る! そう思っていた。

 ところが先日、とある若手漫画家の女性と会ったとき、私の考えは少し変わった。
 彼女は、うつ病と摂食障害ともろもろの社会不適合で、人並みなことが何もできず、その実体験を漫画にして、次々と本を出版している。現在もほぼ部屋に引きこもり状態で、ほとんど友達に会うこともなく、遊びに出かけることもなく、髪が伸びたら自分で切り、膨大な時間を部屋とトイレの往復だけで、漫画を描く生活を送っているという。
 彼女は言った。

「漫画優先、それ以外は諦められることは諦めてる」

 目から鱗が落ちた。人生で最重要なことだけをやり、それ以外はやらない。なんてシンプルで清いんだろう。それで他の誰にもできない仕事をしているなら、充分すぎるじゃないか。
 なんだか心がスッと軽くなった気がした。
 
 私は一体何を目指していたんだろう? 絶対なれるはずのないパワフルな人間を目指して、「人並みの健康」という基準に取りつかれて、常に自分を欠陥品のように感じていた。でもその個体で生まれてきたからには、それが私にとっての標準なのだ。もっと凄いものに標準を合わせて目指すこと自体、設定が間違っていたのではないか。そのことにやっと気が付いた。
 
 世間では、人並み以上の体力がある人間が称賛される。早朝から動いて、仕事で出世して稼ぎ、子育て家事もやり、出張で世界を飛び回り、化粧や服もお洒落で、睡眠時間3時間でも平気。そういう人間を手放しで褒めたたえる。
 今まではそういう人を見るたびに、なんとも言えない気持ちになっていたけれど、動ける人は、勝手に動いてればいいじゃん、と今は思う。人生を三倍速で生きてる人を見ても、だからどうした、とやっと思えるようになった。その人にとってはきっとそれが宿命なのだ。私はみんなが働いている間に、倒れててもいいではないか。だってそうしないと生きていけないのだから。
 
 常識の怖いところは、知らず知らずに、「こうしなくてはいけない」と思いこまされるところだ。常識を疑え、と思っていても、意外なところで無自覚に囚われている自分に気づき愕然とする。絶対になれないものを目指して、私は一体何に擬態しようとしていたのだろう。 

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

サポートありがとうございます!

ありがとうございます!
31
1980年、東京都生まれ。写真家、ノンフィクションライター。写真集に『やっぱ月帰るわ、私。』『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間①②③』、著書に『ノーモア立川明日香』(共著)、『のらねこ風俗嬢-なぜ彼女は旅して全国の風俗店で働くのか?』など。@kaworikawori
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。