「きれいごと会話」は、崩すもの。
僕には、人と会話するときに、アレルギー反応を起こすことがあります。
それは、「きれいごとアレルギー」です。
きれいな言葉ばかり並べて、誰にでも良く聞こえるようなことばかり言う人は、どこか信用できないし、会話していても楽しいと思えません。
僕は相手の気持ちが知りたいので、建前ではなく本音で喋りたいし、建前ばかり喋ったとしても、少々は本音を吐き出す部分があっても良いと思うのです。
しかし、大人のコミュニケーションでは、本音を奥に引っ込めて、“100%の建前”で話す人も少なくありません。
僕は、自分に100%の建前を使ってほしくないので、まずは自分の話で、本音を織り交ぜて喋るようにしていますが、それでも建前の使い手はいて、そういう人と囲まれると、かなり心が疲弊します。
もちろん、すべての本音を口に出したら、人間関係のトラブルになりかねないのですが、あまりにも建前話に偏りすぎると、有り得ないほど綺麗な人間ができ上がってしまうことがあります。
こっちがいくら不安や悩みを喋っても、同じフィールドで話さず、綺麗な言葉に言い換えてくると、さすがに鬱陶しく、落ち着いて会話することができません。
その人と自分を比較すれば、自分の性格の悪さや弱さが浮き彫りになるので、自ら発言することが怖くなるし、発言した後も惨めな気持ちになることが多いです。
実際に、発言して後悔することは、毎日のように起きます。
自分だけが腹を割って、相手が腹を割らなかった場合、かなり落ち込んでしまいます。
自分が腹を割ることをやめればいいのですが、そうすると、その人との可能性がなくなります。
「喋っても意味がない」、「喋っても仲良くなれない」、「喋っても時間の無駄」と判断してしまえば、その人に何の期待もせず、必要最小限のコミュニケーションで収めようとします。
毎回、自分が虚しくなるのに会話したくないし、相手の本音の話を聞けないなら、自分が得られる情報も少なくなります。
つまり、喋っても自分が得することがないので、喋らなくなります。
これでは、人との会話が楽しめません。
僕自身、本音も話せないような人間になりたくないし、自分を遠ざけてほしくないです。
やっぱり、きれいごとだけを述べる人間にはなれない。
できる限り、人との会話を楽しみたいので、自分からその可能性を消したくありません。
きれいごとの建前を崩していくのも、僕のような人間の役割だと思って、誰かとの会話を楽しんでいきたいです。
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