不幸ぶらない生き方。
毎日ごはんを食べること、たまに友達と喋ること、仕事に打ち込めること、それをひたすら繰り返す日常は、すごく幸せなことです。
人間は、当たり前のことには鈍感になって、それが幸せなことなのかどうかが分からなくなってしまいます。
特に僕は、自分のことで思い悩んだり、人間関係のしがらみに囚われたりすると、どうしても日常の幸せを見逃してしまいます。
目の前の問題の解決が優先になって、他のことを考える余裕がなくなり、日常生活の幸せなんて、ほったらかしにしていました。
不幸な自分が、そんなことを考えている暇はない。
心のどこかでこのセリフをつぶやいていて、自分を戒めるようになっていたのでしょう。
他人と会う時間を無駄と考えていたり、食べ物なんて何を食べても一緒だと思っていたり、仕事なんてない方が幸せだと思っていました。
誰かと会うときも、いつの間にか、自分を悲劇のヒロインかのように語り、同情を誘うような話し方ばかりしていました。
そうすると、失っていくものがあります。
それが、幸せだと感じる心です。
自分が不幸ぶっているせいで、世の中の何もかもを不幸目線で見るようになって、自分が幸せになれる世の中は存在しないかのように錯覚します。
僕は、ごはんも、友達も、仕事も、消費していくだけの関係になります。
そこから幸福が生まれるなんて発想は、全くもってありません。
でも実際は、そのどれもが、生きがいになるほど幸せを生みます。
触れるだけで安心して、元気が出て、生きる理由になるようなものです。
他にも、暖かい布団で寝ること、リラックスして風呂に入ること、好きな飲み物を飲むこと、テレビを観ることなど、幸せにしてくれるものは日常に溢れています。
そんな幸せなものがたくさん存在していても、僕の頭の中では、常に自分の生い立ちや性格を恨んだり、嫌な相手に憎しみを持ったりするので、全てが不幸なものに代わっていました。
不幸なことばかりに目を向けるから、暴飲暴食に走って胃を痛め、それで自分を苦しめますし、その表情や言葉が誰かを心配させたり、傷つけたりするのです。
確かに、僕はそれなりに不幸だったのかもしれませんが、それでも毎日ご飯を食べて、たまに友達と喋って、仕事に打ち込んでいます。
幸せを生むものに囲まれているので、“完全に不幸”だとは言えないはずなんです。
もちろん、不幸が生活を蝕んで、日常の幸せに手も伸ばせないのなら、無理して幸せを感じる必要はありません。
その場から離れたり、自分を十分に見つめ直したり、もっとやるべきことはあると思うんです。
ただ僕には、幸せを感じられる心が、まだ残っています。
人を笑わせたい気持ちや、感動するものに触れたい思いが、なくなっているわけではありません。
だとしたら、身近なものの幸せを、体じゅうで感じることに意識を向けて生活を続けることもできるんです。
ごはんをちゃんと味わって食べること、友達を笑わせる話をすること、仕事で新しいことを学ぶこと。
そうしてみたら、意外と嫌なものばかりが世の中に溢れているわけではないと、気がつくことができます。
忘れやすいものだからこそ、丁寧にしつこく復習する癖をつけましょう。
幸せを受け取れる心をもって、毎日を生きているだろうか?
不幸ぶっていては、幸せを受け取れる心が狭くなっていくだけなんです。
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