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Neo盆踊りを終えて、人と動物の間に思うこと。

先日大田区蒲田の本蒲田公園で「Neo盆踊り-動物仮面舞踏会-」というイベントを約半年ほど時間をかけて企画製作し、無事に開催を終えました。

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企画概要を簡単に紹介すると、やぐらの上にはDJがいて、参加者は専用のワイヤレスヘッドホンを通してDJライブを共有する「サイレントフェス方式」の盆踊り。更に動物のお面も配布して、お面とヘッドホンをつけてフリースタイルで踊れるという形式です。

企画意図としては、そもそも死者の霊を祀る儀式として用いられてきた「盆踊り」という文化をアップデートし、人間だけでなくすべての命を祀ろうと思ったところにあります。絶滅危惧種の動物たちのお面を取り揃え、被ってもらい「たくさんいたほうが楽しい」って感覚を仮想体験することから、想像機会につながればなという意図でした。

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動物のお面の裏にはそれぞれの動物種の絶滅状況を書いていて(地味な内職作業でした・・)「楽しいことには裏がある」というメッセージを伝えたりだとか、動物の面で世界を見るというマインドセットを啓発して、意識の拡張を企ててみたりとか、いつものように小賢しい仕掛けはしています。

副次的に「お面をつけることで周りの目を気にせず自由に踊れた」とかインスタ映えするとことか、お面をつけることにより様々な効果もあって、エンターテイメントとしてもいろいろ楽しんでもらえました。

まぁぼくの企画はあくまでアートで、想像のトリガーとして空間や体験を用いてるところがあるので、楽しみ方とかは自由で多様でオールオッケー。つまんなくても楽しんでも、どっちにしろ生きてることには価値があると思ってもらえれば、それでいいかなと思ってます。

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ところで表題について。

SDGsを軸に、その未来を表現するプロジェクトである「ソーシャルフェス®」をやっているのには自分自身の想像機会のためでもあって、今回もこれまでアニマルライツな事について考えることはあまりなかったですが、いろいろと考えるきっかけをつくれました。

あえて人と動物って分けたタイトルにしてしまっていますが、そもそも人も「ホモサピエンス」という霊長類なわけで、ちょっと他より意識は高いですが、野生であることに変わりはありません。

今も寝て、食べて、排泄して、交尾をして子孫を増やして、野生の本能を暮らしています。我らホモサピエンスは知恵をその呼び名にもつけるほどに強いアイデンティティと自認していますが、その知恵で俯瞰して見えている生態系を、如何程大切かを分かっている生態系を、地球史上最も壊しています。

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ああ、課題の啓蒙をしたいわけではないのでどうか緩やかに聞いてください。世界では年間4万種以上が絶滅していると言われていますが、その多くが知恵ある種の経済活動に起因していると言われています。

”経済とは人を幸せにするためにあるものだ”とどっかの経済学者が言っていましたが、幸せになるための仕組みを動かすために過労で死んでしまうなんてキテレツなことが起こるほどには、ぼくらは野生を失ってしまっていると言えます。

ヒエラルキーというものがだいたいどんな種にもあります。群れを束ねるために使われる古来よりの知恵です。「社会」というのは大抵ヒエラルキーの頂点にいる人たちの都合です。経済や政治もトレンドも、生物学的にはただの幻想で、共同で幻想するからそれが存在しているわけで、共同で幻想させる力学はすでに知恵と化されてるわけです。

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だから野生を失ってしまっている、というのは個人の努力が足りないからだとかそういう問題では決してなく、ただただ社会という巨大な力学の都合です。

罪を憎んで人を憎まずといいますか、ぼくはそもそも個人という概念すら幻想だと思ってますが、生まれる前にいて、死んだ後にいく1つの場所を思い出しながら話すと、人と人はもちろん、犬や猫、豚や牛、桜や椿、すべてのものは人間(意識)の観測を外せば、ただ1つの繋がりにあるわけです。

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そういった無意識的な世界観があるなかで、アニマルライツな考え方は自然だと思いますし、一方で毎日ステーキを食べて、象牙をへし折り日銭を稼ぐ人がいるのも、また自然なことだと思います。

善悪のラベリングはしない前提で、一旦個人という意識を取り戻して考えてみると人間とは人と人の間に存在するもので、自分とは他者との関係性から規定されるものです。

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そのなかで「年間4万種もの生物が絶滅」「人間の経済活動で動物たちの住処がなくなっている」「美術品や衣料品とするため動物が殺されている」などの現状に対して、ぼくらが嫌な気分になるのであれば、それは嫌な気分を持ってしまう個人の考えとして、変えていくべきことだということです。

人体において痛みとは異常事態のセンサーで、嫌な気分というのもまた社会の異常事態のセンサーで、そうした意識が現れた時は、正義や善の名の元に他者を裁くのではなく、複雑性をかいくぐった先にある個人の想いとして、発信していきましょう、そこで起こる変化はエゴではなく、時代の要請であると考えます。

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自分自身は、自然な状態で街や公園を散歩していて「生き物の種類が少ないな〜」と特に田舎や自然の多いところにいった帰りだとよく思いますし、それはあまりポジティブな感情ではありません。

都会慣れしてしまっているところもあるので、嫌な気分とまではいきませんがもっとあったほうがいいなと感じます。何より人工物という人間の意識でできたものに囲まれていると、自分の意識もまた不自然な状態に近づいてしまうので、それ自体は気づかないことですが、気づかない変化というのがまた怖いなあと思います。

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なので、何十年、何百年後かは公園にもっとたくさんの動物が住めるような街であることを望んでます。だってその方が気分がいいから。

生物多様な街になるということはより危険な街になるということですが、人間にとって都合の悪い生き物は排除するではなく、仲良く付き合う方法を知恵として持っていたほうが、本当の意味で持続可能だと思いませんか。

犬や猫や、ゾウやキリンなどのスター動物たちだけでなく、家畜とされる動物も、危険が伴う動物も、それぞれにそれぞれの居場所があることで因果応報、結果として人間の恵みに繋がる場合があります。

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上の写真は、パキスタンで起きた洪水時に撮られたもので白い繭のようなものは蜘蛛の糸です。洪水で住処を追われた蜘蛛が大量に木に登り住処としているのですが、そのお陰で通常洪水後に大量発生する蚊を一網打尽にして、マラリアの被害を食い止めたそうです。

まぁもしかしたらマラリアが、未知のウイルスのワクチンとして機能する日が来るかもしないですし、蜘蛛を媒介としたウイルスが広がり人に移るかもしれないですし、そもそも人が絶滅するのが地球にとっては一番いいのでは、という考えもあるかもしれませんが、なんせ生物多様というのはケースバイケースで恩恵の出処になるわけです。

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なんとか論理で合理性を高めようとしてしまうのが悪い癖なのですが、そもそも合理的な基準を超えて、感覚的に「自然(な状態)が足りない!」と思ってしまうわけです。(そして言語化できない感覚に従うことがより直感的な幸福度の高い文明に歩みを進めていくことだと思うのです)

「Neo盆踊り」では動物の面を通して世界を見てもらいましたが、それはどんな世界でしたか?たくさんの種が絶滅しているなかで、個人は、社会は、何か変わっていく必要があると感じますか?

#Neo盆踊り でいろんな思いを聞けると嬉しいです!


Ozone あめみやゆう @amemi_c5

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「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。ありったけの人生に限りないイマジネーションを持てるように、未知の体験をたくさんつくります。

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