![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/155586003/rectangle_large_type_2_27adbe6ae0077110d37591b80bbb8c73.png?width=1200)
体験小説『RingNe』 第2章-在/祝-
前書
「RingNe」は空想と現実が入り混じる体験小説です。体験小説とは体験作家アメミヤユウの書いた空想世界の小説を、公募で募った特定多数の制作チームが文間を自由に解釈し、フェスティバルとして開催。そして不特定多数が入り混じるフェスティバル内で起きた出来事を、原作小説に加筆することで完成する、リレーショナルアート、ソーシャルプラクティスの一形態です。
全ての関係者はフェスティバルとして開かれた物語世界の中で、その世界の住民としての自らを規定し、立ち居振る舞います。ホモサピエンス特有の集団で虚構を信じられる力と体験小説独自の演出メソッドで、空想世界を現実に顕現させます。
![](https://assets.st-note.com/img/1727090998-ClXUjFmgdcZQn6BLyJhD2W70.png?width=1200)
「RingNe」は3部作として描かれ、第1章は初年度2023年のフェスティバル、第2章は2024年のイマーシブフェスティバル、第3章は2025年のイマーシブギャザリングというように、3年間形態を変えながら物語の舞台となる南足柄市内で開催し、物語に現実からのフィードバックを与えながら、最終的に1つの小説として完結します。
想像と創造、虚構と現実、未来と現代を3年間に及ぶ共犯関係の中で相互干渉させ、フェスティバル以外の制作プロセスも含め、起きた変化や結果、全ての歴史を物語に包括させていきます。
![](https://assets.st-note.com/img/1727090998-Wwq56DANBpFGK2r98oiOX4Yn.png?width=1200)
以下より続くのは『RingNe』第2章の物語と、それが現実に現れた記録が交差する体験小説です。第2章では主に作中に登場する植物主義過激派のDAO「ダイアンサス」によるジュピターセレモニーの様子が表現箇所となりました。ただのフィクションではない、小説より奇なる現実が織り混ざる実在したフィクション世界の物語をお愉しみください。
あらすじ
人は死後、植物に輪廻することが量子化学により解き明かされた。この時代、人と植物の関係は一変した。 植物の量子シーケンスデバイス「RingNe」の開発者、春は青年期に母親を亡くし、不思議な夢に導かれてRingNeを開発した。植物主義とも言える世界の是非に葛藤しながら、新たな技術開発を進める。幼少期に病床で春と出会った青年、渦位は所属するDAOでフェスティバルを作りながら、突如ツユクサになって発見された妻の死の謎を追う。森林葬管理センターの職員、葵は管理する森林で発生した大火災に追われ、ある決断をする。 巡り合うはずのなかった三人の数奇な運命が絡み合い 世界は生命革命とも言える大転換を迎える。植物を通した新たな生命観を立脚する、植物と人間とAIの”生命”を巡る物語。
第一章はこちら
#渦位瞬
あの日の夢を見ていた。或いは、思い出していた。どこまで現実で、何が創りものだったのか判然としない、曖昧模糊とした記憶。
春さんの母親の耳裏に繋がれたケーブルは三十センチ四方の白い正方形の筐体と繋がれて、それから更に伸びたケーブルを春さんは自身のBMIに装着した。僕が病床に入ると既に準備は終わっていて、春さんは緊張した面持ちでいた。
僕は立ったまま、出来るだけ視界に入らないようにこっそりと、その様子をじっと見つめていた。それでは繋ぎますね、と機械の担当者と思しき男性が装置を起動させると、春さんは目を瞑り、首が背もたれにぐったり倒れ、軽く口が開いた。
意識が繋がったということなのだろうか。それから時折口を開いて小さく何かを話したり、身体が一瞬痙攣したように反応していた。多分、会話をしている。何も伝えることができず、ただ受け取ることしかできなかった春さんのお母さんは、この数年間の苦しみをどんな言葉で伝えているのだろう。もう殺して欲しいという願いだろうか、病への呪いだろうか。
担当者はモニターで互いの脳波を観察し、看護師も念の為患者のバイタルを観察している。二人の心のやりとりは数値から見て取れるものなのだろうかと、パソコンに表示された数値の羅列、液晶表示された脳が玉虫色に蠢く様子を興味深く見ていた。
そろそろ飽きてきたので、病室の外へ出ようとしていた時だった。
「ありがとう」と春さんは呟いた。
その後「外していただいて大丈夫です」と担当者に声をかけた。担当者は機器の接続を落とし、BMIからケーブルを抜いた。春さんは光がとても貴重なものであるかのようにゆっくりと目を開いた。同時に涙が頬を伝って、落ちた。
当時の僕はその涙の尊い余韻を慮ることもなく「ねぇ、どうだった? どうだった?」とすぐに聞いた。春さんは目を拭ってから微笑んだ。
「瞬くんとも話したいってさ」と言った。
「え、いいの」と僕は興奮してすぐに椅子に座り、待機した。担当者と看護師はやや困惑した表情で互いに顔を見合わせ、春さんはそれを見て「この子は大丈夫です。お手数ですがもう一度だけお願いします」と頭を下げた。そして僕のBMIとケーブルを装着し、例に倣って目を瞑った。
しばらくすると意識が曖昧になってきて、眠る前のような心地になる。それに委ねていると、頭の中に白い三次元空間が広がってきた。図鑑に描いてあるような写実的な線画のカーネーション、紋白蝶、白い鯨、七色の陽の光、見知らぬ子ども、ピアノの音、青い目、皆既日蝕、燃える地下の教会、様々なイメージが脳に浮かんできた。驚いた僕は慌てて目を開けて、素早く呼吸を繰り返し、現実世界を身体に取り戻そうと対処しようとした。
「大丈夫? もうやめておこうね」と看護師がケーブルを外そうとした。僕は深呼吸して、心を落ち着かせて「大丈夫です。ちょっと驚いただけ」と強がった。看護師が春さんを見ると、春さんは人差し指を立て、その後両掌を重ねてジェスチャーした。看護師もそれに倣って人差し指を立てて、ため息をついて微笑んだ。
再び目を閉じると、先ほどの世界が広がった。上と下の感覚もなく、次々に位置が展開され、自分がどこにいるのかがよくわからなかった。
「瞬くん」とどこからともなく声が聞こえてきた。それは本当にどこからともなくで、近いか遠いかも分からなかった。僕は頭の中で「だれ」と思考した。
「春の母です」と返事が返ってきた。通じている。通じ合えている。
「春さんのお母さん。あの、先日は驚かせてしまいごめんなさい」と僕は言った。
「いいのよ。子どもはあれくらい元気じゃなきゃ」と返事がきた。聞こえていた。あの時もちゃんと聞こえていたのだ。
「春ね、あなたと会ってからよくあなたの話をするようになったわ」
空間に透明度の高い暖色系の波が立ち現れる。姿が見えなくても、表情が伝わってくるようだった。
「だから私、はじめましてだけど意外とあなたのことは知っているの」と笑った。
僕はそれを少し恥ずかしく思った。すると空間に雲のような煙がやってきて、ぼんやりとしたまま浮遊して回遊していた。
「どんなこと話していたんですか」と僕は聞いた。
「いろんなこと。あなたがどこの学校に通っているかとか、病院食のミックスベジタブルの不味さだとか」
雲の中から僕が見ていたアニメの猿のキャラが出てきた。僕は咄嗟に見られてはいけないものを見られた気分になり焦った。すると猿は霧消した。
「昔ね。あの子心臓が悪かったの。そのせいもあってちょっとしたストレスや、環境の変化で不整脈が起きて、パニックになってしまうことがあって。あなたと昔の自分を重ね合わせて、気がかりだったんじゃないかな」
廊下ですれ違ってはお菓子をくれたり、話しかけてくれたりした理由がやっと少しだけ分かった気がした。
「だからこれからも仲良くしてあげて」
僕は頷いた。白い大地に咲いた芽はすくすく成長して大木になっていて、その脇に細い若木が育っていた。大木はやがて樹皮がひび割れ、朽ちていき、大地に倒れた。倒木は少しずつ土に還っていき、若木はその栄養を吸収するように太く、大きく、育っていった。陽光は惜しみなく若木の葉に光を送り、この木が倒れていった大木のようになり、花を咲かせ、受粉し、実を落としていくまでがありありと想像できた。
春さんのお母さんの声は、こんな呪いみたいな病気でいるにも拘らず穏やかで、優しくて、辛くないのだろうか、無理していないだろうかと考えていた。
「気にしてくれてありがとうね」と春さんのお母さんは答えた。
ここで何かを思うことはそのまま世界に伝わることなのだと分かった。
「身体が動かせないのは辛いけど、それでも世界は美しいと最近は思えるようになってきたの」
言葉と同時に、この世のものとは思えないほど鮮やかなスミレがゆっくり花弁を開かせていた。本物の紫色に初めて出会ったような、見惚れる美しさだった。
「もう結構時間が経っているはずよ。あの子、そろそろバイトの時間だから行ってあげて」と声がした。
僕は時間の感覚がすっかり消えていて、ハッとした。
「何か伝えておくことはありますか?」と僕は聞いた。
「さっき全部伝えたから大丈夫よ。ありがとうね。でも、そうね、私は多分もう長くはないから、一つ遺言を預かってくれる?」
そうして唱えた遺言はなぜか、妻の百永花《モエカ》の声だった。上空に湖が生まれ、中心に黒い穴が空いた。浴槽の水を抜くように僕はその穴に吸い込まれていき、渦中たまらなくなって目を覚ました。
・
「次は大雄山、大雄山です」
山、空、窓、電車、少しずつ意識が世界を言葉として認識していき、夢で昔を思い出していたことに気づいた。隣を見ると、百永花はいなかった。何の夢を見たのか、もう忘れかけていた。短時間だが久しぶりに深い眠りについた気がする。普段はなかなか眠りにつけない上に、朝は決まった時間に起きてしまうので、ほとんど睡眠時間が取れていなかった。意識がぼんやりしたまま大雄山駅に降りて、バスに乗って地蔵堂まで向かった。
バスを降りると里山の風景を見渡しながらしばらく坂を上る。途中、無神花認証を受けていない農家の畑に、育てられている野菜の量子情報からプリントアウトした生前の人物写真が貼れらていた。ダイアンサスの抗議活動だろう。夕日の滝まで到着し、山の中まで入っていく。フミヅキタケが群生したクヌギを目標にその奥まで進んでいく。ホームレスの老人は黄色い小さな花を摘んで眺めていた。
老人に掌をひらひらと振り、微笑んで挨拶して近づいた。
「それ、なんですか?」と僕は訪ねた。
「おお、渦位か。こりゃセイヨウミヤコグサだ。どこにでも生えているから、見たことくらいあるだろ」と老人は僕の方を一瞥したあと、また花に目を移して話した。
「言われてみれば」と僕も花を眺めた。
「いわゆる帰化植物だな。日本のミヤコグサに比べると花弁が少し大きく、数も多い」
どこにでもある花であれば何をそんな熱心に見つめていたのだろうと思った。
「いやな、珍しくもなんともないんだが、こいつは重要な植物だ」と老人は僕の心を読んだかのように話し始めた。初めて会ってから約九ヶ月が過ぎ、それからもう何度もここに足を運んでいた。彼の生態が興味深かったこともあるし、行くたびに植物について知識が増えていくのも愉しかった。そして念の為、安否確認という目的もあった。
「カール・フォン・リンネ。植物学の父だ。リンネはこの花をきっかけに、植物の睡眠について考えるようになって、名を馳せた。植物の睡眠は重要だ。まだわからないことが多い」
リンネ、植物の睡眠、Sheep社とも何か関係があるのではと訝しんでいた。思えばSheep社の親会社も眠りにまつわる名前だ。
「例えば植物は動物と同じように夜の間、姿勢を変える。中には葉がかつて芽だった時と同じ姿勢をとる種類もある。人が眠る時に胎児のような姿勢で寝るのと似ているな。若い時ほどよく寝て、老木になる程目覚めている時間が長いのも動物に似ている。睡眠という点で何かと共通点が多いんだよ」
僕は老人の膝まで小さい蟷螂が登ってきているのを注意深く見つめながら「不思議ですね」と言った。
「あ、そういえば昔、世界中の人類が眠れなくなってしまうホラー映画を見たことがあります。すると人々は三日目を超えたくらいから、どんどん凶暴になっていくんです。支離滅裂な思考で他者に怒りをぶつけ出す。植物がどうかはわからないですが、もしかしたら互いに争わないために睡眠は必要なのかも」
「休まねぇと広い視野で世界を見れなくなるんだな」
野鳥が羽ばたき、蟷螂は何かを察したのか、老人の膝を下山し始めた。
「しかし、まだ分かってないことも多いんですね、植物って」
「そうだな。人間はまだこの世界の植物を十%程度しか発見できていないとも言われている。その僅かな種類の中だけでも、この世の医薬品の全成分のうち、九十五%は植物から抽出しているくれぇだ」
きのこを含む菌糸類も毎年千を超える新種が見つかっているが、研究が進んでいる植物でさえまだまだ余白がある。宇宙エレベーターが完成し、地球外活動が盛んになっているが、僕らはまだこの地球のことさえも本当はよく知らない。
管楽器と打楽器と人の声が聞こえてきた。ダイアンサスのデモ隊だ。昼下がりのこの時間、決まってこの道を通っているようだった。木立の隙間から様子を覗くと、黒髪の青年と目が合った。青年は足元に注意しながらゆっくりこちらに近づいてくる。
「どうしよう、なんか来ました」と僕は老人に言った。
「なんかってなんだ。山狩か」と老人は慌ててテントへ隠れようとしていた。
青年はこちらへ会釈し、話し始めた。
「はじめまして。渦位さん、ですよね? 私、ダイアンサスの衣川《イカワ》と申します。あなたを探していました」
なぜ僕の名前を。探していた? なぜ。正体を確定させないよう、人違いの振りをするか逡巡していたところだった。
「おう、渦位に何のようだダイアンサス」と老人がテントから出てきて高圧的な返事をした。選択肢は一つになった。
「なぜ僕を?」と聞いた。
青年は爽やかな笑顔で答えた。
「実は、うちの実質的な代表者があなたに会いたがっています。昨年ここで催されていたフェス、あれがダイアンサスの中でもとても好評だったもので。そこで、単刀直入ではあるのですが今度はうちでイベントを催していただきたく、お仕事のご相談です」
僕が考える間もなく老人が返事をした。
「あー、やめとけやめとけ。ろくなことじゃねぇ。お前らな、この際だから言っておくぞ。植物は植物だ。神じゃねぇ。人の物語に組み込もうとするな」
青年は無言で微笑みながら相槌は打たなかった。
「今日は、場が悪いみたいですね。また来ますよ、渦位さん。それから三田さん」と言い残して去った。
老人は威勢を失い沈黙した。
「過去にダイアンサスと何か?」と僕は横目で彼を見ながら聞いた。
「いや、なんでもねぇ」と老人は答えた。
・
帰り道。ダイアンサスに入れば、Sheep社との繋がりができるかもしれないと思っていた。あれだけの規模でRingNe推しをするコミュニティと本体が無関係ということは流石にないだろうし、自作自演の可能性すらある。
Sheep社については分からないことが多すぎた。社内情報は厳重に管理され、合同会社のため株主総会もなく、外部から情報を知る術が殆どない。チャンスだったのでは、と思い直す。と同時に、僕の話なのに問答無用に門前払いする老人の豪胆さが可笑しくて、思い出し笑いを堪えていた。
家に帰ると、円が夕飯の準備をしていた。鍋を覗くと、キュウリとリンゴと鯖が味噌やケチャップで煮込まれていた。
「ただいま、円」
「おかえり、父さん」
夕暮れのオレンジ色が畳を照らし、そこに横たわるエノキ。鈴虫の声、風鈴の音。清らかな風が心地良い時間帯だった。
「ただいまエノキ」
と言ってもエノキは反応しなかった。エノキが子どもの頃に遊んでいた釣竿のような玩具を目の前に放ってみたが、それも無視した。最近あまり動かないし、調子が悪いのかもしれない。大人になったというべきか。玩具はしまって毛並みを揃えるように背中を撫でた。百永花ともよくこんな時間を過ごしていた。
「今日は母さんの命日だ」と風に乗せるように僕は言った。
そのまま風で散逸してもおかしくない声量だった。
「うん、水あげてきた」
円は振り返らずにそう言った。
踏み台を使ってキッチンに上がり、フライパンを振るう息子の背中、毎日のように大きくなっている気がする。
「ありがとうな。でも、植物は毎日水やりしなくていいんだよ」
「分かった」
円は振り返って返事をするとまたすぐに鍋をかき混ぜ始めた。
僕らが妻の命日を知ったのは、死後しばらくしてからだった。百永花とは互いにバックパッカーをしていた時に、タンザニアのレストランで出会った。二人とも皆既日食を見にきていた。相席で通された店で二人ともミールワームを食べていたことから、話が弾んだ。食への好奇心という共通点があった僕らはすぐに仲良くなり、彼女の自由奔放に遊び回る姿に惹かれながら、共に旅に出るようになって、自然と付き合い、結婚した。
円が生まれてからは旅に出る機会がなくなり、百永花は僕が在宅している際に限り、気晴らしなのか、よくどこかに外出するようになった。どこに行っているかは分からなかったが、夜までにはいつも帰ってきていた。夕食後は、家族で川沿いを散歩するのが日課になっていた。
夜は車が危ないからと、小さい円にはカーライトが反射する大きな黄色い蛍光色のレインコートを着させていた。
フードで顔まで隠れた円を見て僕らは「人というよりもただの光だね」と笑っていた。子どもって確かに光なのだろうと僕はその時強く納得したことを覚えている。
「どこに行っても私が見つけてあげるからね」と発光体になった円に百永花は言った。しかし見つけられなくなったのは彼女の方だった。
ある日の夜、百永花は帰らなかった。連絡もなくどこかに泊まってくることがたまにあったから、翌日の夜までは円と共に、いつものように過ごしていた。五日目、音信不通が続くと流石に不安になり、警察へ捜索願を出した。十日目、どこにも見つからず、手がかりすら掴めない。全国各地を自由気ままに飛び回っていた彼女の動向を絞るのは難しかった。
六十日後、RingNeで一度調べてみたらどうかと、警察から提案があった。RingNeで位置情報が表示されるということは、彼女はもう植物に成っていることを証明する。つまりもう人としての彼女は亡くなっているということになる。
きっとどこか電波の通じない場所へ旅に出たくなったのだろう。スマホを無くしてしまい、友人の家に転がり込んでいるだろうと思っていたから、警察の提案に「そんな大袈裟な」と僕は笑い飛ばした。死んだ魚が笑ったような笑顔だったと思う。その場でRingNeを起動して調べることはできなかった。
翌日朝、寝起きのぼんやりした意識を利用して、できるだけ何も考えずRingNeを起動し、百永花を検索した。半目で夢を見ているかのように画面を眺める。マップ画面にピンが立った。
二度寝を試みるも、懐で寝るエノキの体温が温かく、鼓動を打ち、確かな現実から目を逸らすことができなかった。頭が真っ白になった。息をするのを忘れていることに気づいた。慌てて大きく深呼吸をして、そのまま吐く息で地図情報を見ると、何故かSheep社前にピンが打たれていた。円にはそのまま事情を説明した。嘘で納得するような子ではないので、大人気ないほどそのままに。
そしてひとしきり大泣きした円と共に、僕らはSheep社前まで向かった。群生するカラスノエンドウ、タンポポ、ツユクサ、ヒルガオ、この中に百永花がいるというのだ。ピンを更にズームすると、数十本のツユクサまで辿り着いた。身内の神花《シンカ》を初めて目の当たりにして、なんて真実味の無いことだと思った。
百六十センチほどの彼女の骨格、腰まであった長い黒髪、目や臓器、それが花になるリアリティを飲み込めなかった。RingNeを疑う気持ちがよく分かった。
だから僕らはツユクサを目の前にしばらく黙り込んでしまった。背後には車が通り過ぎていく。
そのありふれた植物を、まるで今日初めて見るかのようにただ、眺めていた。凛として、ごまかしのない緑の葉、神秘的なまでに青い花弁、小さく可愛い黄色いおしべ。百永花らしいと、思ってしまった。そうしてやっと涙が溢れた。
両手を合わせ、RingNeでツユクサの茎にそっと触れる。少しでも彼女がストレスを感じないように優しく、そっと触れた。百永花の情報が画面に表示される。一つも間違いはなかった。
そして命日が今日、七月十二日だった。死因は、極度の栄養失調による餓死と表示されていた。量子情報はSheep社前にのみ分布していることから、種子が風や鳥に運ばれて移動したとは考えづらい。一箇所にのみ分布している際は、死体が植物の土の下に眠り、分解されて養分になっていることが自然だった。
鑑みるに、飢餓で死んだ妻を誰かが堆肥化し、それをSheep社前のガーデンに漉き込んだ。他殺の線で再捜査することを、警察と合意した。最も不可解で訝しかったのはSheep社という場所だった。なぜこの場にわざわざ移動させる必要があったのか。僕はそれからSheep社のことを調べ始めた。しかし、代表はASIだとか、タイムマシンで未来から来ただとか、都市伝説レベルの情報ばかりで、有力な情報は得られないままだった。
「できたよ」
円が料理を運んできて卓上に置いた。仕上げに皿の遥か上から納豆を撒いて、完成と言った。大量の蜘蛛が降りてくるようで、素晴らしい演出だと感嘆した。味噌とケチャップと納豆の香りの壮絶なぶつかり合いが、非常に食欲をそそる。
食べ始めようとしたところ、ベルが鳴る。
「先食べてて」と円に言った。
玄関を開けると、昼間に公園で勧誘してきたダイアンサスの青年がいた。
「衣川です。やはり諦めきれず、来てしまいました」
「家まで調べていたとは」
驚いている様子を見せぬよう淡白にそう言った。
「我々のネットワークは渦位さんの好きなキノコのように広いのですよ。もしかしたら奥さんの情報も何かご提供できるかもしれません」と、衣川は爽やかな笑顔で言った。そこまで知られているなら逃げられないとも思ったし、むしろ都合がいいとも思った。
「分かりました、入ります。ただし仕事が終わるまでの期間限定ということで。あと僕は僕の目的のために動きます」
衣川は事前に決めていたような表情を見せて喜びを伝えた。
「はい、それで問題ないです。あくまでDAOですから。早速ですが明日我々の拠点まで御足労いただけますか。まずは実質的な代表である中武《ナカタケ》とお会いしていただければと思います。地図はこちらに」
連絡先が書かれた透明なカードが手渡された。時間になるとカードにキャラクターが現れて道案内を開始するとのことだった。夕飯の香りに気づいてか、衣川はそれを渡すとすぐに去っていった。
・
翌日。カードに従ってダイアンサスのアジトへ向かった。電車を二本乗り換え、二時間ほどの距離だった。石膏のような素材で作られた半円形のドームが見えた。建物を囲むようにピンクや赤のナデシコが自生している。ここがエントランスになっているようだった。ドアにカードをかざすと、開く。中に入ると、ちょうど衣川の乗ったエレベーターが開くところだった。
「遥々ようこそ」
衣川は親指と人差し指を結んだ両手の輪っかを繋ぎ、後の指を花のように開くポーズを見せて、そう言った。僕は衣川と共にエレベーターに乗り、下の階に降りていく。アジトは根のように地下に生えたビルのようで、五階層のフロアでできていた。地下二階で降りる。地下神殿のような広大な岩壁の空間に3Dプリンタで作られたと思しき、有機的なフォルムの家や施設が並んでいる。中央には四十メートルほどはある巨大な白いクスノキが聳えていて、それ以外に植物らしきものはなかった。
湿度が高く、人工太陽のような球体が浮かんでいるので、心地よく住んでいくための光も熱も申し分なかった。居住者と思しき人々が衣川に気づくと、皆同じように指を繋いで花を開くポーズをした。それを訝しんでいることに気づいた衣川は「ああ、これは輪掌と言って、我々ダイアンサスの挨拶です。こんにちはやこんばんは、それ以外にもありがとうとか、ごめんなさいとか、色々な意味が含まれているんですよ」と言った。
「こちらです」と衣川が二階建ての建物の扉を開ける。室内には長い髪を後ろで束ねた端正な顔立ちの中年男性が、紺色のセットアップを着て、透明なソファーに座っていた。
「歩、ご案内ありがとう。渦位さん、はじめまして。ダイアンサスの中武です」
男性の輪掌に応じて僕も会釈を返す。衣川に着席を勧められたソファーに座ると、皮とも合成樹脂とも形容し難く、老年のサイに座っているような感触だった。
「渦位さん、今日は遥々お越しいただきありがとうございます。昨年のフェスティバル、実に素晴らしかった!」
彼は両手を開いて称賛し、僕はそう言っていただけて嬉しいですという表情をした。
「さて早速なのですが単刀直入に申します。渦位さんに我々ダイアンサスにおいて、とても重要な祭で執り行う儀式を、仕立てていただきたい」
「重要な日……」
「はい、まずはその話からいたしましょう。我々は神花《シンカ》こそ人類の終着点であり、人は死後、神に至るのだと考えています。ダイアンサスにおいて死とは神に成る乗り物です。ですのでそもそも死をネガティブに捉えているメンバーは少ないのですが、我々には一つ好奇心があります。
それは、神花になったら我々は何を感じることができるのか、ということです。これは贅沢な欲望です。ただもし仮に、一時的に神花となり、人間の意識で植物の感覚を知覚できるのなら、生きながらにして神の感覚を感じることができるのなら! と秘密裏に開発研究をしていたのです。そしてその技術が完成しました。この技術はプラント・エミュレーション、略してPEと呼称しています。此度の祭、神花祭では開催三十周年を記念して、その技術を使った初の人体での臨床実験を盛大な儀式として催したいのです」
植物の感覚をコンピューターにインプットして、雪崩や地震の予測をいち早く行うグリーンターネットという技術のことを思い出していた。植物は二十を超える感覚野があるとどこかで聞いた記憶がある。その情報をコンピューターはまだしも人の脳で処理するイメージが湧かなかった。
「……すごいです、けど、臨床実験ということは、リスクもあるのではないですか?」と僕は聞いた。僕の曇った表情に対して彼は晴々しく話した。
「信じられないって顔をされていますね。ははは、それはそうだ! 僕も携わりながら、こんなことできるはずないってどこかで思っていましたから。しかしうちの技術担当、佐藤と言うのですが、彼女が天才でね。ある日、朝飯前のようにプロトを開発して持ってきたのですよ。まるで未来からの手土産でした」
彼は身振り手振りしながら、めくるめく豊かな表情で話す。組織の代表に適任の雄弁家だった。
「ああそれで、リスクのことですね。それは否定できません。BMIを通してニューロン接続するので、意識混濁、脳障害、最悪の場合絶命する可能性もあるとのことです。しかしいざ募ってみると世界中から大勢の応募がありましてね。皆いち早く試したいと血気盛んなものですよ」
「そんな。本当にいいのですか」
純粋な心配だった。組織の坩堝に溺れてないだろうか、同調圧力に流されていないだろうか。もしもそんな人が選ばれて、後悔しながら催す実験を祝うとしたら、僕にはとてもできない。
「心配無用です。ダイアンサスは宗教組織でも企業でもありません。匿名で、誰でもいつでも入って、抜けることができるDAOです。ここに組織的な人間関係のしがらみや強制力はありません。真に望んでいる人だけが、応募していますよ」
彼の言葉には説得力があった。大きな瞳で真っ直ぐ見つめて堂々と話す、その話術にも揺さぶられ、僕はそこで引き下がった。
「なるほど、わかりました。ではどんな祭にしていきたいか、まずはお話伺えますでしょうか」
その後僕らは一時間ほど意見交換した。帰り際、静観していた衣川は中武に妻の話をした。どうしてSheep社の前に運ばれたのか、妻は何故消えたのか。僕がダイアンサスに協力している動機を代弁した。中武は顎を指で支え考えていた。他の者にも聞いてみますよと言い残して、去っていった。
・
その後、衣川から施設の案内をしてもらっている。地下五階に着いた。
「このフロアは全面核融合発電施設になっています」
融合炉と思しき巨大なドーナツ状の装置を中心に、無数の巨大な金属群が囂々と稼働していた。
「自家発電って規模じゃないですね」
「トカマク方式なので古いモデルですが、譲り受けたそうです。ダイアンサスには匿名ながら世界中に信じられないような資産家や権力者が所属しているので、自分たちでもよく分からないことが起きています」と衣川は言った。
地下四階。
「ここは農園です。神花しないよう、地下で厳重に管理して作物を育てています。無神花認証の管理もあの施設で」と球状の建物を指差した。どういう構造で自立しているのかよく分からない建物だった。フロアは人工太陽が輝き、視界に収まりきらないほどの作物が育てられていた。
「ダイアンサスのイールドファーミングに参加するとここから毎月、安心安全な野菜が届きますよ」と衣川はメリットを付け足した。
地下三階。
「ここは製木所です。木を育てるのは時間がかかるので、特殊な3Dプリンターで創木《ソウボク》しています」
「二階にあった楠も……」
「はい、ご明察の通りです」
ダイアンサスの技術レベル、そしてその実装力は想像を超えていた。世界中で百万人を超えるメンバーを持つDAOの底知れない調達力があれば、プラントエミュレーションもあるいは本当に可能なのかもしれないと思うくらいに、無から木が生まれる光景は魔法的だった。
地下一階。
「ここはメンバー達の自治区です。住んでいる人も、店を出して商売している人もいます。流通する通貨は全てダイアンサスのガバナンストークンです。流通するほど森林保全活動に寄付される仕組みになっているので、見ての通り活気に溢れています。地上とは大違いでしょ?」
お祭り騒ぎといった模様だった。人工太陽の穏やかな日差しに、甘い草の香りが立ち込めていた。江戸の市場のような威勢で客寄せをする男性、至る所で起きている大道芸やストリートライブ、裸で走り回る子ども、老若男女の活気が溢れていた。歩いていると子どもたちからの歌声が聞こえてくる。
”ひふみ ひふみ ひふみてめでよ
はなき くさちがや つるあしさかき
めでよ めでよ あまねをめでよ
ひふみ かぞえむ このみちは
あっちも こっちも はなのまにまに”
「あれは?」と僕が聞くと衣川は微笑みながら言った。「ああ、あれはわらべうたですね。ダイアンサスには神花祝詞という神花に祈りを捧げるための祝詞があるのですが、それを子どもたちに向けて簡略化したものです。ここに住む子たちは皆歌えますよ……幼少期からここに住めるなんて、羨ましいものです」と言った。
#RingNe いってきました!
— 久保よしや(きつね) (@448mk) September 22, 2024
楽しかったー!
謎の宗教団体の捜査員として。 pic.twitter.com/Sgji1cjHAK
「……学校とかもあるんですか?」辺りを見渡しながら尋ねた。道端の木々の下ではバイオリンや笛が演奏され、人々が自由に踊っていた。その向かいでは何かの冊子を持った人々が円談している。少し前の方では苔をルーペのようなもので観察したり、その上を歩いたりしている人たちもいた。
「学校もありますが基本的に全てフリースクールです。子どもたちが自主的にやりたいことを伸ばしていく方針ですね。それに居住区にはご覧の通り、たくさんの学びが溢れています。音楽や踊りは常に生活と共にありますし、あれはダイアンサスダイアログと言って先人たちの実際の会話を対話劇として学ぶ場ですね。奥の方では無神花の苔を観察したり、歩行禅を通して動物との異なりを感じる日常の儀式ですね」
人工太陽で常に温暖な気候であること、経済を滑らかにする流通ルール、幼少期からダイアンサスの思想が常に生活と紐づいている文化圏、何より神花を神として信仰する共通のコンテクストが、この世界の生きやすさを創っているのだろうと思った。地上に出て毎日デモ活動をしている僕らの知っているダイアンサスは氷山の一角で、この豊かな土壌が動力源になっているのだと感じた。
「ゴジアオイ火災の一件以降、日本のメンバーが急増しましてね。非常に賑わうようになってきました。それから、あちら見てください。あの山も創ったのですよ」と言って衣川が指を刺した方向に小高い山があった。緑色に茂った木々はピラミッドのように綺麗な四角錐形にまとめられ、頂点には天井の天窓のような箇所から、一筋の光が落ちていた。
「あの木々も創木したものですか?」
「その通りです。全て植樹しました。よければ近くまで行ってみますか?」
僕は頷き、十分ほど山の方まで歩き、山の麓に辿り着く。
「あの光は地上から射しているんですか?」
「そうですね。ダイアンサスにはいくつかの儀式があるのですが、天然の太陽光がないとできない種類のものがありまして。多分今も山頂でやっていますよ」
ぜひ見てみたいと僕は言って山頂まで登ることにした。自然と見分けがつかないほど精巧な人工樹の根の階段を一段ずつ登っていく。山頂に辿り着くと狭い円形の平地が広がっていた。無数の撫子が円形に広がり、円の中で数名の人々が仰向けに寝転び、太陽の光を浴びていた。よく見ると皆、極度に痩せ細っていた。僕が質問をする前に衣川が小さな声で僕に話した。
「サンゲイズという儀式です。あくまで一部の人はですが、植物と同じように食事は太陽光と水だけで生きることを志向し、実践しています。より植物に近い感覚で生きるため、地上に上がり我々の保有する山の中で土に埋まって、不動のまま光と雨で過ごす儀式もあります」
プラントエミュレーションが求められていた理由の一つが分かった気がした。彼らは既にリスクをとって神に近づこうとしている。これに比べればPEはまだ低リスクなようにも見える。旧来、人智の及ばない畏れ多きものが神として崇め奉られてきたが、ごく身近に存在していて既知なるものが神になった時、人はそれを信仰するだけでなく、自ら神になろうとするらしい。人外の存在を目指すという人類の長年のアジェンダに則って。
ただ、人が死ぬことは植物という神になる祝うべきことなのであれば、それまでの間はせめて、人で在る時間を愛しむことができないのだろうか。人として生きて死んでいくまでの時間に呪いをかけてしまっては、生命が報われない。そんな時代はもう終わったはずだ。いち早く植物に成っていくことを祝いたいという与件と、人で在ることそれ自体を祝いたいという個人の願いとを、どう止揚すべきかと悩みながら下山した。
・
それから毎週月曜二十一時に、神花祭の定例会議が始まった。コアメンバーも概ね顔や性格が割れてきた。精神的な主軸となり実質的な代表者を務める中武が主に会を進行し、PEをはじめダイアンサスDAOのスマートコントラクトを書き、技術的な主任を務める佐藤がアジェンダを整理し、儀式やデモを仕切る、植物主義過激派の平位《ヒライ》が儀式回りの話を進めていた。重大な儀式の演出を僕に取られた平位は、会議中明らかに僕に対して不快感を表していた。
神花祭は神花を祀る行事としてダイアンサス以外の人々も招き入れられ、公共的に開かれ続けてきた催事だ。一方でそのほとんどは資金調達から制作までダイアンサスの若手メンバーによりDIYで作られ、代々DAO内の思想の醸成、育成、関係構築のためにも使われてきた。今年は二百名ほどのメンバーが制作に関わっているらしい。
ダイアンサスとはいえ全ての人が神花を済度のように思っているわけではなく、単に投機的な目的で入会NFTを購入した人もいれば、友人から誘いを受けて友達づくりに入った人もいた。そのグラデーションが、神花祭という組織を象徴する祭を作り外に発信するプロセスを経る事で、均一化されていく様子を薄気味悪く見ていた。
潜入調査とはいえ、僕も仕事として手がける以上全力で準備を進めた。昨年のフェスティバルから信頼できる仲間を招集し、企画、出演者のアサイン、装飾の手配、運営計画を本番までブラッシュアップできる余裕ができるように、矢継ぎ早に取りまとめていた。
儀式はダイアンサス、つまりナデシコ属を表す学名の言葉の由来となったギリシャ神話の神、ジュピターの名前をそのまま採用し「ジュピターセレモニー」とした。円形に結ばれた垂と風鈴を木々に吊るし、長い枯れ枝を何本も地面に杭のように刺して境界をつくる。中央には創木された木材で作られた円形のステージを施工して、周囲を透明のプランターに入った撫子が囲む。
プラントエミュレーションをする三名は中央で椅子に座り、無数の打楽器隊や舞に囲まれ、人としての躍動の限りを尽くした後に、植物の静的な世界に旅立つ、という計画だった。
企画会議には途中から、平位の下にいるダイアンサスの神花祭実行委員、猿渡が加わった。全体調整のためということだった。ダイアンサスの思想に合わせて企画は調整されていき、僕らは何度も衝突を繰り返した。議論は思想や生き方の違いに終着することが多かったが、紆余曲折ありながらも、最終的には連れてきた仲間たちと共に互いに合意しながら進められる間柄になったと思っていた。
仲間たちはいつの間にかダイアンサスに入会していた。そして猿渡と共に僕を除く別の会議体をつくり、企画は勝手に編集されていった。いつの間にか、ナレッジも人もすべて奪われていた。
それほど彼は魅力的なキャラクター像を演じきれていたし、あえて対立の機会を作るなど、目的のために必要なプロセスを周到に、戦略的に踏めていた。
これが中武が意図することだったのかは分からないが、衣川は僕を繋ぎ止めるために何度もフォローを入れ、その結果僕は鬱になりながらも、当日は仮初めのディレクターとして、成立のためのアドバイスを送る立場になって会場に行くことになった。最後の一滴まで使えるところは使いたいらしい。
最後の全体定例会議、三十分前に家を出た。
酒匂川沿いを歩く。裕福そうな家の世間との境界を作る壁には、ダリアとカサブランカの鉢植えがS字フックのようなもので吊るされていて、その花弁の形がグロテスクに見えた。
焦点が定まらないまま黒い川の横を危うい足取りで歩いていた。空に星は見えない。結局自分は未だに価値のない存在なのだ。衣川にプラントエミュレーションをする理由を聞いた時の言葉の一部がふと頭に浮かぶ。「復讐」
猿渡への憎悪が意識せずとも過る。見知らぬものに大事なものが奪われていくことのリフレイン。そしていとも簡単に別れてしまう、自身の引力の弱さ。魅力のなさ。喪失感と自己否定で心の内は単純にしか見えなくなっていた。僕も復讐を選ぶのだろうか。
百永花のこととも重なる。僕は彼女の死の理由を知った後どうしたいのだろう。もしも他殺で、犯人が見つかったのなら、僕はそいつをどうするのだろう。
呪いにも似た積念の想いをそのままぶつけるだろうか。冷静に、法的な裁きに導き有罪になれば晴れるだろうか。あるいは、理由を知れば許せることもあるのだろうか。どのような理由なら許せるのだろうか。やむを得ない事情があったのだろうか。
できるだけ前向きに考えようとする頭と、どす黒く恨みが渦巻く心は逆回転し、摩擦し、自分自身の輪郭を擦り減らしていった。
しかしそれと企画の成立は切り離して考えなければならない。誰にも言えない想いは一旦飲み込んで、見知らぬものに成り果てた企画の成立に向けて何も言えない会議に参加するべく、踵を返した。
最後の定例会議ではオンラインで千人以上が参加し、英語、中国語、スペイン語の同時通訳を副音声で聞くことができた。画面上で中武が話す。
「前に話した通り、今回転生する神花人はunek《ウネク》くん、衣川くん、孫《ソン》くんの三人。最後に、何か不安なことや、質問はあるかい」
少し間が開いてから、unekというハンドルネームの日本人女性が手を挙げて、不安そうに話した。
「いち早く転生させていただけることはとても光栄なのですが、正直なところまだ、意識を手放したまま戻ってこられないのではないかという不安があります……」
佐藤がそれに対してすぐに返答する。
「大丈夫だ、私が保証するよ。それに君たちは胎児だった頃、物心がつく前、そして日々の睡眠の中で既にそれと同じことを経験しているじゃないか。何、いつものことさ」
ギャラリービューで無数に並ぶ人々から拍手のスタンプが送られていた。続けて中武も話しはじめた。
「不安な気持ち、よーく分かります。もし、万が一unekさんに何かあったらと考えると、僕も強い不安と心配に苛まれます。しかし逆に考えてみてください。神花になればこの不安とも金輪際別れることができるのです。それどころか、人の内では感じることのできないこの世界の神秘を余すところなく感じることができるでしょう。だからこそ、私はあなたがもし旅立って行ったとしても、それを祝福したいと思っています」
拍手のスタンプやクラッカーを鳴らすスタンプが画面を埋め尽くした。unekは目を潤ませて感謝を述べた。
#三田春
講演の帰り道、合成樹脂の網目でできた橋を渡る。イタドリやメマツヨイグサなどの植物達が網目に届きそうなほど生長していた。外壁沿いのガーデンに生えたツユクサは、変わらず凛々しく咲いていた。ガーデンの担当の職員達が前方で、軽トラの荷台に直接盛られた堆肥と思しき土を撒いていた。定期的にどこからか運ばれ、追肥しているようだった。
社内に入り研究室の扉を開く。緑の陰、緑の音、緑の文字。デスクに座ると、誠也くんがこちらを見ていた。気になって近くまで向かう。
「なんかあった?」
「先輩。PEの臨床実験ですが、人間でできることが決まりましたよ」
何を言っているのかよく分からなかった。人での臨床など一度も聞いていない。
「え、聞いてない。どういうこと」
誠也くんはアンニュイな表情で続ける。
「先輩、忙しいから」
言いたいことがあったがそれは飲み込み、聞きたいことを聞いた。
「……臨床って、いつ、どこで、対象は?」
「ダイアンサスが協力を志願してくれたんですよ。彼らはそれを自身の儀式として執り行いたいそうで、Sheepが彼らに貸している森で行うようです。僕らは遠隔で観察しつつ、データをもらいます」
もうすぐじゃないか。この計画は一体いつから進んでいたのだろう。Sheepが彼らに森を貸していることも初耳だった。知らされていないことが多すぎる。実験はもう少し安全性が確保できてから行うべきだし、臨床研究法をクリアしているとも思えない。
「法的なハードルはクリアできてる? この技術はまだ人間で試すには危険だ。彼らにそれは伝わっているの?」
誠也くんは首を傾げながら椅子を回転させていた。
「はい、審査は完了しています。先方もリスクは承知の上とのことです。植物への転生は彼らの願望でもあるので、いち早く行いたいとのことです。互いのニーズがマッチしているんです。何も心配いりませんよ」
またうまくことが進み過ぎていると思った。恐らく審査も安全性の偽装をしているか、上からの圧力で無理やり通したのだろう。被験者も合意しているからといって、どう考えても危険な臨床をこのまま進めていいものか。
「やめたほうがいい……どう考えてもまだ早すぎる」
「先輩。けどもう上で決まっちゃったことなので、僕らじゃ止められないですよ」
「Dream Hack社か。なんでダイアンサスと……」
むしろなんで上とダイアンサスが繋がっていないと思っていたのかと、僕は言いながら思った。彼らがなにも手を出していないはずがなかった。
「そういうことなので」と誠也くんは言って部屋を出た。どれくらいの人数が被験者になるのか分からなかったが、悪いイメージだけが浮かんできて、その次に葵田さんの顔が浮かんできた。彼がダイアンサスにいて、と言っていたことを思い出す。今からならまだ間に合う、伝えなければ、と思った。
社内からの通話はネットワークを介して記録されている恐れがあるので、社外へ出て念の為VPNも切り替えた。ガーデン沿いのオシロイバナに囲われたベンチに腰掛け、水を飲んで心を落ち着かせる。
「もしもし、突然すみません。葵田さん、今大丈夫ですか? お話ししておかねばならないことがありまして」
「三田さん、ご無沙汰しております。今大丈夫ですよ、何かありましたか?」と彼女は明るい調子で答える。
「以前、パートナーの方がダイアンサスにいるという話をされていましたよね。社外秘の情報なので本来内密にするべきなのですが、葵田さんには緊急でお伝えするべきと思いまして……近々ダイアンサスでプラントエミュレーションという技術の臨床実験が行われます。プラントエミュレーションというのは……」
「あ、それ覚えています。田中さんから以前伺いました」と彼女は答えた。社内でも極秘開発の情報を一度会っただけの彼女に、なぜ。違和感が積み重なる。
「そうですか……であれば単刀直入にお伝えします。パートナーの方を今すぐダイアンサスから脱退させるよう促した方がいいです……この実験はまだ未完成で、人でやっていいようなものでは、ありません。どれくらいの人数が、どういった選出方法で選ばれるか分かりませんが、もし選ばれてしまった場合、僕はもうあなたに顔向けできない……」
「……そう……ですか。けれど、ダイアンサスは何百万人も会員がいるんですよ。そのうちから歩が選ばれるなんてきっとないです」と彼女は苦しそうに明るい調子で話した。
「そう願いたいですが、もしもの場合意識障害や最悪植物の世界から帰ってこられないことも考えられます。できれば、彼に危険を伝えてあげてください。こちら側でもなんとかできないか尽力しますので、パートナーの方のお名前伺っても良いでしょうか?」
彼女の言う通り杞憂なのかもしれない。ただ僕の開発した技術が原因で彼女を苦しめるようなことは、万が一にもしたくなかった。
「分かりました。衣川、歩です。わざわざ情報共有くださりありがとうございます。それでは」と彼女は電話を切った。ベンチから立ち上がると立ちくらみ、再び座った。じりじり肌を焦がす太陽が脈を加速させ、思考をぼんやり溶かしていく。蝉時雨が脳を包み、この会社こそもう辞めたほうがいいのではと思った。
社内に戻ろうとすると透明な自動ドアのすぐ先に誠也くんの後ろ姿が見えた。「誠也くん」と声をかけ、彼は振り向いた。
「当日せめて、PEの臨床実験、僕も責任者として現場に立ち会わせてほしい」
誠也くんは手元のデバイスでカレンダーを表示して確認していた。
「先輩、ダメです。この日、先輩大忙し。幹部会に、取材三本にテレビ出演まで入ってるじゃないですか」
「全部キャンセルしよう。こっちの方が大事だ」と僕は迷わず言った。
「ダメです。先輩弊社の看板なんだから。広報部に僕も怒られちゃいますよ。この場は自分が責任持って安全を監督します。僕じゃ、信頼に足りませんか?」
誠也くんは珍しく目を見て話していた。別の策を立てるしかないと思った。
「分かった。じゃぁ当日は任せる」とひとまず言った。
帰宅後、僕は旧友に電話をした。
「もしもし、佐々木か。久しぶり。まだ探偵の仕事ってやってる? 実は折入って、白菊探偵社に依頼があるんだ」
「おお、三田さんですか。ああもちろん。なんでも依頼してください」
佐々木は以前と変わらず、自信に満ち溢れた話し方で即答した。
僕は手元のびわ茶を飲んでから話した。
「ダイアンサスのことはもちろん知っているよね? 彼らが来月催す神花祭の中で、ちょっとよくないことが起こりそうなんだ。しかもそれに弊社の技術が関わっていて……具体的にいうと、プラントエミュレーションという人の意識を植物に一時的に転移させる技術なのだけれど、まだ全然完成していないのに、その臨床実験が行われようとしている」
「……実は俺もダイアンサスのことを調べていて。個人的な恨みもある」
二人の間に少しの沈黙が流れる。
「……そこで、ある人物が、具体的には友人のパートナーが、被験者になる可能性があって、その調査をしてほしいんだ。そしてもしできたら、この臨床実験自体を中止に追い込んでほしい。これは探偵の領分を超えているとは思うけれど……」
「なるほど……ちなみにその方のお名前は?」
「衣川、歩」
「衣川ってあの衣川ですか!」興奮した佐々木の声量が耳に直接響き、慌ててイヤホンを抜いた。聞こえない間、彼は何かを話していた。イヤホンを耳に戻して言った。
「ごめんごめん。どの衣川のことか分からないけれど、知り合いにいるの?」
「俺の、友人です。昔同じダンスチームにいて、親友と言ってもいいです」
「それはすごい偶然だ。依頼を整理すると、衣川がプラントエミュレーションの被験者になっていないか調査し、もしなっていたらそれを阻止してほしい。お願いできるかな?」
「任せてください!絶対止めます!」再び大きな声量が耳に流れ込み、イヤホンを外した。外したまま「あとの詳細はメールする」と言って、電話を切った。
#渦位瞬 ②
プラサンという果物の名前に由来する台風が近づいていた。
前日から大雨が降り、突風が吹き荒れ、設営していたテントは大破し、準備もリハーサルもままならず、公共交通機関が止まり、運営人員は予定より大きく減った。
![](https://assets.st-note.com/img/1727748792-Y6wEabgC1iIm7rO0HZvDWKRc.jpg?width=1200)
一方でしばらく雨の降らなかった会場の森においては、恵みの雨を祝うダイアンサス等の姿があった。この台風が呪いの果実か、祝いの果実かは、食べてみないとまだ分からない。
人も準備もままならないまま僕は運営会議に駆り出され、どう開催していくかと意見を求められた。現状やこれからの天気予報を鑑みても、即時翌日延期を決断するしかないと提言したものの、ダイアンサス側は当日開催する方向を譲らなかった。
今日に向けて加熱されてきたモチベーションを理由にはしていたものの、それだけではない、絶対に日程変更できない、何か別の隠された事情があるようにも感じていた。
そして神花祭は開演を遅らせ、コンテンツを中止、縮小しながらもなんとか始まった。受付で無神花認証済みのパンフレットを手渡され、ダイアンサスの紋が描かれた白い幕を超え、三百名ほどの来場者がやってくる。
![](https://assets.st-note.com/img/1727919892-nlPHoZyqswQimj6zX15MJpDc.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1727750164-KlUbOzX93CDhNGVuofFqHjWx.png?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1727750180-ktVM2Wb9dTlQp8K5uNCGgEnO.png?width=1200)
来場者はダイアンサス以外にも一般の地域の人々や、レジャーとして都内から遊びに来た若者たち、国外から日本の文化を視察に来たツアー客、様々な人たちがいた。
![](https://assets.st-note.com/img/1727749750-SCNuZetw5Gpa2ogzE9rLd8J7.jpg?width=1200)
エリアは神花楽団の演奏やマルシェなど人々の賑わいがある花之間、ジュピターセレモニーをはじめとした重要な儀式や奉納が執り行われる根之間、主に入門編となるようなダイアンサスの様々な儀式やブースが展開される実之間と三つのエリアに分かれていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1727750041-XhErlicnMSbImF3tVKWGYCy9.png?width=1200)
オープニングとして根之間では、森林礼拝が行われていた。森林礼拝は会場となる森全体に祈りを捧げる儀礼で、ヨガの太陽礼拝をアレンジした木々への畏敬と感謝を現す動きが繰り返された。光の雨粒が跳ねるような繊細なピアノの音と共に、巫女のような姿をした女性が神楽のような流麗な動きと共に、来場者を誘導する。
![](https://assets.st-note.com/img/1727750452-iIwHak41mgLMq8fvGeE6nz2j.jpg?width=1200)
彼女が微笑みながら舞っていると不思議と雲が抜け、陽光が森に差した。ガラスのオーナメントのような少量の天気雨が光を纏い、森の全てが生命を宿しているような、光り輝く世界が現れた。巫女の横では白い鹿の姿をした男が着座して瞑想を続け、静と動、各々の方法で光を森に呼び込んでいるように見えた。
![](https://assets.st-note.com/img/1727770742-o1XmQ3Jf2lMSHRYTrVDaFycE.jpg?width=1200)
舞が終わると彼女は言った。
「雨粒全てを友達にして繋いで、自分の意識とひとつにして、私という物体がいい気持ちになって、私も、植物にも、自由を委ねれば、自ずと大丈夫になるのです」
ダイアンサスは宗教団体ではないと公言しているものの、その思想文化体系は神道の影響を多大に受けていて、最先端技術と共にエンシェントな叡智が実践され続ける中で、その非科学的な言葉には不思議な説得力が宿っていた。
続けて行われた苔歩の儀では、白い鹿の男が来場者へ神花へ祈る所作を説明する。「まず右の手の甲と左の手のひらを腹の前で重ね、二度柏手を打ちます。そのまま両手のひらを胸の前で合掌し、頭の上まで伸ばしながら礼をします。頭上の合掌は蕾です。花を咲かすように手のひらを解く、これが神花への礼拝の捧げ方です。植物は人より上位の存在であることを表しています」
![](https://assets.st-note.com/img/1727770787-xtqvCXcEV39AQOzYLNlTdBDs.jpg?width=1200)
苔歩の儀では、動いたり、痛みを感じる必要がなくなった植物の完全性を語りながら、相対して動かざるを得ない人の不完全性を感じる儀式が展開され、ダイアンサスの強い植物主義思想を改めて感じていた。
一方で彼らの根底にあるのは植物への愛というよりも、死への恐れなのではないかという仮説も浮かんでいた。仏陀やキリストと同じように、死のその先を示したものは畏敬され、その未知で人外なものが在ることによって、死という絶対的な未来に抗ってきた歴史と同じように、この時代のそれが植物なのではないか、と。
実之間の奥まで進んでいくと、サンゲイズやダイアログなどアジトで見かけた光景がブースとして展開され、白い装束の人々が来場者を手招いている。
![](https://assets.st-note.com/img/1727750752-QVeYzv89jO0bMhsUI71nCak2.jpg?width=1200)
それを横目に進むと、最奥の滝では草雨の儀というものが行われていた。豪雨に打たれてもしなやかに生きる植物に倣い、滝に打たれ植物に近づくのだと大柄の男性が語っている。本当に様々な手段を用いて植物に近づこうとするダイアンサスにとって、プラントエミュレーションが如何に悲願の技術だったかが伝わってくる。
![](https://assets.st-note.com/img/1727750765-OL1TaY6bjrZUg8IN53kl4AH2.jpg?width=1200)
ダイアンサスの人々はこの神花祭を謳歌しているように見えた。
神花の祝祭として満ちた良い気が参加者にも伝搬して、通りすがる参加者も輪掌の挨拶を真似るようになっていた。祝いとは意思であり覚悟だ。それがどんな状況であろうと、当人次第で全ては祝いに変わる。
ダイアンサスの人々の表情からはそんな意思が読み取れた。
![](https://assets.st-note.com/img/1728266506-QGow8bF2W7sU1nBR9KvT0rhq.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1728266490-sbK485YPg0Na3IUGMTxDev1O.jpg?width=1200)
エリアを跨ぐ道中、たびたび白いシャツの男に人々が集まっている様子が見えた。服装的にダイアンサスの人間ではなさそうだ。であるならばSheep社かと勘繰り、気づかれないよう集団の中に入って様子を伺っていた。男は佐々木というらしかった。話を聞くに、どうやら彼らは衣川を探している探偵社のスタッフのようだった。更にはプラントエミュレーションを止めるという話も聞こえてきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1727768502-N3t7CljPcvL2wgQYy1uJbOkn.jpg?width=1200)
止められるものなら、止めてもらいたいと思った。壊してほしいと思った。しかし二百名のダイアンサスメンバーがいる中でジュピターセレモニーを物理的に止めるのは難しい。ダイアンサスは妨害する敵をあらゆる手段で排除するだろう。
僕は会場を見渡しながら考えていた。自撮り棒で配信をしている派手な女性の姿が目に映る。そうだ、失敗ということにしてしまえばいい。祭自体、台風の影響で崩壊した運営に既に来場者の不満が募っているように見える。探偵社を含めこれだけの数の火種が入れば、あとはちょっとしたきっかけを作れば炎上する。
僕は控え室となっていたキャビンに戻る。入り口の前には車椅子と思しき車輪の跡が残っていた。室内で素性を隠すため変装できるものを物色した。なぜか先ほど見た白い鹿の面と白装束が置いてあった。僕はそれに身を包み、ダイアンサスの幹部を装って、配信者の女性を探し、言った。
#衣川歩
川を渡す、赤い橋。
その中間地点から、見下ろしていた。滝から流れる水は混々と、留まる様子もなく流れ続ける。僕が消えても何も変わらない恒常性に、穏やかな気持ちでいた。
先日の事故があった川沿いのステージで、付き人の滝本さんが一人で片付けをしているのが見えた。人として動けるうちに、神花祭を最高のものにするべくできる限りのことをしたい。僕は橋を渡り、手伝いに行った。
片付けを手伝っている最中に「あ、あなたたち何ですか! ここは立ち入り禁止ですよ!」と滝本さんが叫ぶ方向を見ると、そこには深刻な表情をする佐々木の姿があった。僕のことを探し回っている人がいるとは聞いていたが、まさか佐々木だったとは。彼とはダイアンサスに入るためにダンスチームを抜けて以来だった。懐かしい……。
![](https://assets.st-note.com/img/1727921705-YWl5hwSk6AJxZ1XvPqRo7cmG.jpg?width=1200)
侵入を拒もうとする滝本さんを手で制して、佐々木に言った。
「ああ、佐々木じゃないか。今日は見送りに来てくれてありがとう」
「違う! 俺たちはお前を見送りに来たんじゃない、連れ戻しに来たんだ!」と佐々木は間髪入れずに叫ぶ。
俺たち、という言葉に佐々木の後ろに漫ろに並ぶ人々を見た。
何も知らない奴らが群れを成して、何を言っているんだと呆れた。
「言っている意味が分からないな、どうしてその必要が?」と僕は言った。
「実験はもう少し安全性が確保できてから行うべきだ! 二度と帰ってこれなくなるかもしれないんだぞ!」
![](https://assets.st-note.com/img/1728267026-6HtUD7PYbAyOlrjqKxCJnov8.jpg?width=1200)
安全も何も、僕は母さんのいる世界に旅立つんだ。帰りの切符なんてはじめから必要としてない。帰る場所はただ一つだけだ。
「僕にはもう、帰る場所なんて他にない」
と言ってステージを降りた。地上で結ばれてしまった縁を断ち切るために、滝に身を清めに行った。
・
実之間でふらつく渦位さんの姿が目に入る。
佐藤さんからの指示で勧誘し、丁重にケアしてはいるが、僕は未だになぜ彼が必要なのか分かっていなかった。ただ最後まで出来る限りの役割は全うしようと、木々を眺めている彼に声をかける。
「ここにある木々は全て神花なのですよ」
「そうなんですね」と渦位さんは気の抜けた返答をする。
「ここでは日々ダイアンサスの伝統的な儀式、土還の儀が行われています。土還の儀では時に土から帰らない選択をする方もいて、そのまま神花していくこともあるそうです。そのため、この一帯の草花は祈りの対象として丁重に扱われています」
話している最中、僕のスマホから着信音が鳴る。
「どうぞでてください」と彼は言った。
僕は着信画面を見て、首を横に振る。
「彼女からなので大丈夫です。最近ひっきりなしに電話が来るんですよ。ダイアンサスを今すぐ抜けて欲しいって急にメッセージがきて。どこで今日のことを知ったんですかね。何やら僕のことを嗅ぎ回っている連中も神花祭に紛れ込んでいましたし。ねぇ、渦位さん」と彼の眼球の動きを見る。
「情報のやり取りは暗号化されたチャットの中だけでしていたし、情報漏洩はないでしょう」と彼は向けられた疑いの目をそらそうと弁明したが、言い訳にはなっていなかった。しかしまぁ束ねているのが佐々木だとすれば大した問題ではない。あいつは肝心なときに何もできないやつだ。服装や表情を見るにスタッフも寄せ集めだろう。
渦位さんは話を逸らすように続けて言った。
「しかし彼女さんからしたら心配な気持ちも分かります。少なからずリスクのあることですから、大切な衣川さんのためを思ってのことでしょう」
僕らの間を通ったモンキチョウを目で追いかけながら「僕のためですか」とだけひとまず言った。僕のためを思うなら、別れを祝うのが正しい。
「僕は別に戻ってこられなくていいのですよ。早く神花になれるのなら、それは幸せなことでしょう。生命の大循環の中に還っていくこと、これが生命の美しさじゃありませんか?」
クヌギの樹冠が風でゆらめき美しかった。これくらい話せばいいかと思い「出番まで神花祭楽しんでいってくださいね」と笑顔で言って、滝へ向かった。
滝壺に爪先を浸す。足裏で石を踏む。滝風と飛沫が顔を包む。この感覚すべて、もうすぐ過去のものだ。冷たさからも、痛みからも、癒えるはずのないこの喪失感からも、やっともうすぐ解放される。
腹部の水圧を感じながら滝壺を進み、頭から滝に打たれた。容赦無く接水面を叩き付ける重くて強い水の力が人を祓っていく。見えない根がぶちぶちと切れていく様をイメージした。もう何も、残らなくていい。
滝からあがると、スマホに着信があった。葵からだった。
何度も何度も電話が来ては無視していたが、ちゃんと別れを告げるために最後に電話をとった。
「……もしもし」
「歩……? やっと繋がった。 ねぇ今どこにいる? プラントエミュレーションっていう、危ない実験の噂を聞いたんだけど、まさか、まさか歩はそれ、やらないよね?」
切迫した声色で、呼吸を乱しながら葵は一息にそう言った。彼女はもうどこかで嫌な予感を確信してしまったのだと思う。だから無理矢理にでも、それを否定したがっている。
「葵、これまでありがとう。僕と一緒にいてくれて、本当に感謝している」
葵の鼻を啜る音が聞こえる。
「やめてよ……歩、お願い……」彼女は泣きながら懇願した。あの家を出てから、彼女と暮らした日々を思い浮かべると良心の呵責もあって、辛かった。これが断ち切るべき最後の、最も太い根。
「お母さんと、お父さんのところに行くつもり……? だめだよ。あのカーネーションはもう……」
「まだ生きているよ。植物は死なないんだ、絶対に。土の中にまだ根が残っている。だから僕は土に還るだけ……ダイアンサスにも土還の儀っていうのがあってね……」
言い切る前に彼女は口を挟んだ。
「これまでずっと言えなかったけど、歩、ダイアンサスに入ってからちょっと変だよ……。 死は、死だよ。それでもう、終わりなんだよ」
「見解の相違だね。僕はこれから植物として生きていく。葵にも、また会えたらいいと思うけど、一旦これでさようならだ……」
「ちょっと……待っ」
「ありがとう」
と言って僕は根を切った。
実之間の方から滝本さんがやってくる。
「衣川さん、緑進の儀のお迎えに上がりました」
いよいよPE前、最後の時間だった。
僕は衣装に着替え、指定の場所で待機する。
緑進の儀は前身団体のアガベ時代に催されていた森林大祭から続く伝統的な儀式だった。更に紐解くと元々は山間の小さな集落で、植物信仰のため行われていた祭礼からヒントを得ていると聞く。
何にせよまだダイアンサスに入って間もない頃から見ていた、神花祭を象徴するような儀式で、僕が今年にその行列に入ることは光栄で、身が引き締まる想いだった。
列を先導する、露払。
老人の姿をした子供が務める儀の象徴、嬰児。
嬰児を守り、道を清める、打子。
花として舞う、咲撓女。
そして畏怖の対象、落花媼。
落花媼は元々嬰児役を務めた子が老齢になった際に務める忌み恐れられる存在。落花媼を務めると、死後再び、最も神花に近い存在である嬰児に輪廻すると言われている。
縦の行列でありながら循環を現し、永遠に続く生と死のあわいを前に進む。樹冠から溢れる太陽の光、清らかに満ちるフィトンチッド、葉々のさざめきを奏でる風。葉々起清風とはこのことか。
この場の全てが僕らの門出を祝ってくれている。
万感の思いで僕は根之間へ向かった。
#渦位瞬 ③
空はピンクや紫で朱く染まり始めたグラデーション。ジュピターセレモニーの準備が始まる時間だった。変装を脱いで、僕は根之間へ向かった。
道中、花之間のステージ上で佐々木の相棒と思しき男の慟哭が耳に入る。
「僕、本当はアルビジアで、でも白菊探偵社に入って、本当に楽しかったんです。佐々木さんの助手になれて、一緒に探偵やって、これだけは本当なんです、嘘じゃないんです!ごめんなさい!ごめんなさい」
探偵社の男は彼を抱きしめ「改めて白菊探偵社に来てくれ! 必ず帰ってこい」と言っていた。
何があったのかは分からないが、配信者の言っていたアルビジアのスパイはこんなところにいたのか。つくづく混沌とした祭になってきた。
根之間に着くと白い装束を着た人々が土俵のような囲いの中を、無表情でゆっくりと歩いていた。どこに向かっていいのか分からないようにも見えた。
![](https://assets.st-note.com/img/1728268411-UFLexXiG32Wkgwd50Mzt9Ths.jpg?width=1200)
プラントエミュレーションを行う量子コンピューターは無神花の流木やヒガンバナのオブジェに包まれ、BMIに装着用の赤いチューブが剥き出しになっていた。
岩は苔むしていて、苔の下部は土に帰っていた。
苔の半分は既に死んでいると、老人から聞いた話を思い出した。
人も結局枯葉のように落ちて土に帰っていくのだとすれば、衣川の言っていることも分かる。抗えない自然の巡りに身体を委ねることの美しさというのはなんとなく分かる。
![](https://assets.st-note.com/img/1728268560-2R4BQUhXdGp0s9ZAkrLlNc7o.jpg?width=1200)
けれど飲み込みづらい。一人の人間が大切な誰かに、永く生きて欲しいと願う気持ちの中にも、帰るべき場所はあってほしい。衣川に百永花を、彼女に自分を重ねて、同情していた。できるならば雷でも落ちて、この会はなくなってしまった方がいいとすら思って、青空を見上げた。
「ここの青空ってこういうことだったのか」と嵐の中フェスティバル会場へ向かう車内にて膝を打った。#RingNe pic.twitter.com/p5Rxf3xJ5T
— 0 (@tetrakatharsis) September 23, 2024
配信担当が手を挙げて中武に合図を送ると、ステージ上に中武と両側に法螺貝を持った巫女が一人ずつ並び、法螺貝の音でジュピターセレモニーが始まった。全身に緊張感が走ると同時に、胃のなかで黒い液体が渦巻くような気持ち悪さを感じていた。苦しさで目を瞑ると、恐らく脳内だけに、声が聞こえた。 「続くことって、そんなに大事なの?」見知らぬ男性の声だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1728348449-KDHa7GVICYovw1FdJOEP2by0.jpg?width=1200)
中武のスピーチの後、神花祝詞が高らかに奏上された。
土俵の中で歩いていた白い人々が少しずつ、舞を始める。上空に曲線的に伸びた腕はキクの花弁のようだった。衣川たち三名の被験者たちもその中で共に舞を続けていた。厳かなシャーマニックドラムの音と共に、野鳥も自重するほどに、辺りは緊張感に包まれていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1728348748-u0T5fdB42J73eX1MqCbN8Shc.jpg?width=1200)
僕は配信状況が気になり、画面を見つめに行くと、ディスプレイに大きな影が落ちた。平位だった。
「渦位さん、素晴らしい祝祭ですね」と彼は耳元で静かに言った。僕は寒気がして一歩身を引いてから「ありがとうございます」と言った。
「そういえばね、奥さんのこと衣川くんから聞きましたよ。中武さんは忘れていたようですが、私はよく覚えています。彼女、土還の儀によく来られていましたからね」
心臓の鼓動が高なった。血流が早くなり、目が開いた。
「どういうことですか、妻はダイアンサスにいたのですか?」と小さな声で語勢を強めた。配信チームが振り返り注目が集まったので、僕は平位と共に根之間を降りて、川の方へ歩いた。
平位は歩きながら話した。
「あなたの奥さん、渦位百永花さんはダイアンサスにいました。土還の儀があるときは毎回いらしてましたが、二年前ですかね、ある日突然姿を見せなくなり、消えてしまったのです」
「消えたって、どこに……。妻の神花はSheep社前にいるのですが、Sheep社との関係は何か知りませんか?」
震えながら冷静さを保っていたが本当は平位の首元に掴みかかりたい思いだった。土還の儀の管理責任とか、なぜ今になってそれを言うのかなど、吐き散らしたい思いは山ほどあった。
平位はのっぺりした表情でのっぺりした調子で話す。
「Sheep社といえば、この森の堆肥はSheep社へ運ばれているようですよ。ここは元々Sheep社の親会社Dream Hack社が管理していた森で、そこに繋がりがあった佐藤が紹介してくれた場所なのですよ。自由に使っていい代わりに、死者の堆肥は定期的にもらっていくという不思議な条件での契約でした」
僕は足を止めた。
「妻はここで死んで、Sheep社まで運ばれたということですか」
平位は足元を行進するアリの様子を見ているようだった。
「そうとは断定できませんよ。でもたまにいるのですよ。土の中の快楽に溺れ、一人で土還の儀を行いそのまま帰ってこられなくなる人が。まぁ正確には還っていったのですが」
ぶつけようのない怒りはどこにも発散されず、ただ身体を発熱させた。川辺に生えるサワギキョウの紫の花弁を見ると、握った拳の解き方が分からなくなった。衝動的に近くの木を殴ろうとすると、平位がそれを掌で受け止めた。
「無礼な。次やったら殺しますよ」
腕を強く振り払われ、地面に倒れた。平位は会場へ戻って行った。全身の力が抜け、縋るように近くの岩に背を預ける。
「自殺か……」とほとんどため息のように呟いた。「何故?」と声に出さず土に聞いた。返事がないので両手で勢いよく土を掘り出した。柔らかい腐葉土の下には色の濃い湿った土が出てきて、幼虫や小さな百足が現れる。やがて指の力では掘り進められなくなる地層に到達する。
ぢっと手を見る。爪の間に土が詰まり、真っ黒になっていた。
掘った穴に左腕を差し込み、土を被せて埋めてみた。心がざわついて、何も感じることはできなかった。皮膚も心も冷めていった。
珍しいものを食べた時の驚いた表情、おはようの声、円と三人で夜の散歩をした日々、百永花と生きた様々な場面が浮かび、消える。ダイアンサスたちとのこれまでが浮かぶ。
「ふざけんな!」
腹から地球の核に向けて、声を投げつけた。それは自分の声だとは信じられないくらい強くて、叫んだ後に驚いた。まだ体内に響く残響を感じながら、しばらく考えた。あの日々の何が不満だったのか、なぜダイアンサスに入ったのか、残された僕らのことはどう思っていたのか。
……逝ったら帰ってこられない最後の旅路に、百永花は何か見たのだろうか。その先もまだ旅は続くのだろうか。
一番近くにいたのに何も気付けなかった自分を呪った。百永花にとって人生は究極的なものではなかった。僕は最高のパートナーではなかった。根之間から打楽器のリズムと高揚した中武の煽り声が聞こえてくる「さぁもっと踊りましょう、もっと祝いましょう」
植物主義さえなければ、と強く呪った。
人生が、その先には何もない究極的なものであれば、人として生きることそれ自体が祝福であれば、百永花は死ぬこともなかった。
生きることの祝福……しかし平位や猿渡やダイアンサスに対する恨み、呪いが消えない。人を呪ったまま人生は祝えない。自分の中で相反する想いが同居して渦巻く。
呪いは祝いに変えられるのだろうか。呪いの感情自体を有り難がり、貴重な体験として処理すれば変えられる……自らでたアイディアに気分が悪くなりえずいた。
有り難がれば、すべては肯定されるべき歴史になるのか。快も不快も判断できなくなる尺度を基準にしては、それはもはや人間ではない。
あるいは過去の全てを忘れて、たった今から祝いの視点だけで生きられれば。しかし全てを忘れられるならとうにそうしている。無理だ。
全てに折り合いがつかなかった。理想と現実、頭と心、自分と世界、自責と他責、祝いと呪い、人と植物。生きることは片方の言葉で定義できない量子的な性質なのに、重ね合わせにフォーカスできない意識はやはり呪いであり、祝いでもある。
セレモニーの結末を見れば、なにか晴れることがあるだろうか。爪に詰まった土の気持ち悪さを感じながら、立ち上がり、土汚れを払いもせずに、できるだけゆっくりした足取りで階段を登り、会場へ戻った。
・
会場では様々な打楽器の音が鳴り響き、被験者三名が量子コンピューター前で立ちすくむ前方で、白い服を着た人々が音に合わせ全身を躍動させ、首を振り、そのままあちらの世界に飛んでいってしまいそうなほど、激しく踊っていた。中武も周囲を煽り、会場中が躍動に包まれた。ダンス、ダンス、ダンス。人間であることの証明、あるいは誤魔化し。
![](https://assets.st-note.com/img/1728271941-dakGX3UZvMyPhHclbBxjuSw0.jpg?width=1200)
打楽器のリズムが鳴り止むと人々は倒れ込むように地面に伏して、中武が話し出す。
「いよいよ旅立ちのときです。人と神花が重なるこの瞬間は、後世に永劫刻まれる歴史的な瞬間になるでしょう。誇り高き三名を盛大に祝福し、送り出そうじゃありませんか! それでは皆さん、良き旅を。いってらっしゃい!」
周囲の人々も声を重ねた。
「いってらっしゃい!」
満面の笑みで放たれた高純度の祝福は、雲が割れそうな声量で、木々に吊るされた風鈴を揺らし、リィンカーネーションを祝福する音が鳴る。皮膚が震え、胃が溶けてしまいそうな気持ち悪さを感じ、吐き気を堪えて、涙が出た。
装置が起動し、チューブが赤く光り、電撃のような音と共に三人は痙攣し、やがて全身の骨が溶けたように脱力し、その場で倒れ、首が項垂れ、口から唾液を流した。それを盛大な拍手や歓声が包み込んだ。もし彼らが最後に何か言い残していたとしても、誰にも聞こえなかったことだろう。
![](https://assets.st-note.com/img/1728349973-uQseW15bNECTk8cJ96VawGmX.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1728349899-MxvDsAylpE8fGe0gqF1b2ZQO.jpg?width=1200)
群衆の中に先ほど見た白いシャツの男がいた。拳を握りながらじっと耐えているようだった。なぜ止めに行かなかったのだろうか。
三名が起き上がるまで辺りは静まり、緊張と期待に包まれ見守った。
空で鴉が鳴いた。失ってしまった大切なものに呼びかけるような声だった。最初に孫さんが目を覚ました。それに気づいた周囲の歓声に反比例するように、孫さんは青ざめた顔で、まるで悪夢から覚めたように瞳孔が開いていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1728398885-m8itp31OWBkycAwjsEI6ZbhH.jpg?width=1200)
「孫さん、いかがでしたか?」と中武は期待と興奮を抑えられないような調子で聞きに寄った。
孫さんは藁にもすがるような眼差しで医師の目を見て、涙ぐみ、歯を震わせ、こう言った。
「……地獄だった」
一瞬の沈黙の後、中武は慌てて言葉を返した。
「……神の世界から見れば人間の世界なんて地獄そのもの! その通りですね。あははは!」
その後unekさんも目を覚まし、途端に発狂したように断末魔の叫びをあげた。四肢を地面に打ちつけのたうちまわり、皮膚から血が出るほど強く身体中を掻いた。
周囲は静まり返った。控えていた医師も呆然としてしばらく傍観していたが、ようやく処置に入った。暴れる身体を押さえつけ、鎮静剤を打った。
![](https://assets.st-note.com/img/1728398954-qpxaH8oWge29T6EZjmJS5ync.jpg?width=1200)
重い沈黙の中、衣川だけは目を覚さなかった。衣川を見守る沈黙が続く中、白いシャツの男が衣川の元へ駆け寄り、衣川の体を揺らした。
「おい………衣川!」
中武がその様子をすかさず制止する。
「待ちなさい、誰ですかあなたは……彼は旅立ち、神へと至ったのです」
「ふざけるな! 他の二人は目を覚ましたのに、一人だけ植物の世界から帰ってこれないなんて、こんなの、死んだも同然じゃないか……!」と白いシャツの男は激昂する。
辺りは突然起きた予想外の出来事が重なり、混乱して何もできないでいた。
「……なあ、衣川、嘘だと言ってくれよ。帰る場所がないなんて、本気で思ってたのか? そんなはずないだろ。お前には葵だって、悲しませちゃいけない人だっていたはずだろ……!」
![](https://assets.st-note.com/img/1728458424-YHa3Jq7hgLs419eOodjfPXwF.jpg?width=1200)
「死とは神に成る乗り物。彼が自分で選んだ結末であれば、きっと本望でしょう。それに、彼は亡き母に会いたかったんじゃないでしょうか。さようならも、また愛ですよ」
中武はそう言ったあと周囲の人間に指示を出して、数十人で白いシャツの男を無理やり外へ連れ出した。
その機を見て、僕は配信者の女性に近づいて合図を出した。
女性はすかさず土俵の中に入って、周囲を煽るように叫ぶ。
![](https://assets.st-note.com/img/1728399159-JePSqfOvW6Rmg74cxCDpkw89.jpg?width=1200)
「皆さん見ましたか?! セレモニーは失敗! 一人は帰らぬ人に。これはダイアンサスの大失態ですよ! これは面白くなってきたぞー、皆さんも帰ったらセレモニーは大失敗と拡散してください!」
中武が慌てて間に入る。
「これこそが我々の望んだ結果です! あなたにはこの素晴らしさが理解できないのか! こいつも摘み出せ!」突然の出来事に中武も取り乱しながら叫ぶ。その様子はすべて世界中に配信されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1728458110-cXvkxrb5Lh76KFnUqsM1IQ4f.jpg?width=1200)
配信者は連れ出されながらも「今日の大事件の事ちゃんとSNSで拡散してくださいよー!」と叫ぶ。
ダイアンサスたちは様々なイレギュラーに混乱して立ち尽くし、中武は苦しそうに頭を抱え、鴉の声だけが聞こえた。
僕は無感情に立ち尽くしていた。僕自身が望んだ光景のはずが、なんの感情もない。ただ操られているマリオネットのような空虚さだけを感じていた。
はじめから終わりまで、何の変化もない木々のさざめき、川のせせらぎ、野鳥の声。人間の静寂が劈くなか、配信は強制的に打ち切られ、狂乱のジュピターセレモニーは幕を閉じた。
三名はそのまま病院へ搬送された。衣川は医療的な処置を施す手立てがなく、再びBMIと鉢植えを繋ぐことで、意識状態のモニタリングを試みた。衣川以外の二人は警察から事情聴取を受けた。その供述は様々なメディアで取り扱われ、SNSでは配信者が撮影したセレモニーの動画が切り抜かれ拡散されていた。
騒動に発破をかけたのは葵田さんのSNS投稿だった。回復不能な植物状態になった衣川のこれまでや経過を「私の彼はダイアンサスに殺された」という刺激的なタイトルで投稿し、それは瞬く間に広がった。ダイアンサスは狂気的なカルト集団というレッテルが貼られることになり、アジトには警察の捜索が入った。
それに連なってか、春さんはSheep社を退職した。退職エントリ内で書かれていたSheep社への不信感は暗に植物主義時代の終わりを示していた。
植物の世界は人にとって地獄だった。二人の被験者によるその証言は、RingNeを呪具に変え、多くの人々がそれを手放した。人は死んだら植物になるという事実も、いつか世界は忘れ去っていくのだろうと思う。
人は人として生まれて、人は人として死んでいく、ただそれだけの世界を受け入れることの方が幾分か生きることを肯定できた。死の恐れを思い出した人類はキリスト教や仏教などの宗教を再興し、再びウェルビーイングなゲーミフィケーション環境を整え始めたところだった。
「不死なる楽園”NEHaN”《ネハン》はいつでもあなたをお待ちしています」
炎上から七日後、新たな世界が創られた。それは街頭の3D広告から突如大規模展開された謎のメッセージ。Dream Hack社が人類初の全脳エミュレーション技術の完成を謳いリリースした新事業の広告だった。
NEHaNは現実世界全土の完全なミラーワールドを電脳世界に構築したメタバースの名称。そこに人間の意識を丸ごと転送するエミュレーション技術を使い、身体が朽ちてもその世界で情報生命として生き続けることを可能にした。身体情報もそのままトレースされ、食事や排泄など電脳世界では不要な機能も引き継がれた。
これは死後の希望が失墜し、新たな希望を求め始めていた今の人類が求めていたことの全てだった。入念に全てが計画されていたような完璧なタイミングでリリースされNEHaNは、瞬く間に予約が殺到し人類は次々に電脳世界へ旅立った。
アルビジアは潤沢な予算を惜しみなく使い、大規模な設備拡充や広報活動を展開した。行政は死亡リスクの高い高齢者や基礎疾患を持った人々へ積極的エミュレーションを呼びかけ、エミュレーション用の器具は全国の市町村へ瞬く間に設置された。
まもなくして世界中に展開しているDream Hack社のAIから、今後の正確な天災予測が公表され始めた。
三年後の七月二五日十五時四分に起こる太平洋大地震の被害想定、各地の活火山の連鎖した噴火に伴う農作物への被害、太陽活動の低下に伴う氷河期の訪れ、ユーラシア大陸全土に落下する小惑星による壊滅的被害。世界中どこにも逃げ場がないレベルの大規模災害が、全て今後六年以内に起こるという。
エミュレーション用の装置やソフトウェアはオープンソース化され、設計資料、3Dデータ、APIを元に世界各地で同様の開発、設備拡充が展開された。
国内では一年も経たずに人口の半分以上がエミュレーションした。低下した国力、防衛力に伴い隣国の侵略が危惧されたが、すでに世界中でエミュレーションが進むなか、NEHaNの生殺与奪の権を握る企業を有する国への攻撃は、核による報復よりもリスクの高いことだった。
国家元首クラスから率先してエミュレーションを始めたこともあり、世界は少しずつ、共に弱くなっていった。不要になった身体はDream Hack社の取り決めにより原則クライオニクス処理が施され地下に格納され、神花という概念は物理的にも消えていくことになる。
NEHaN上での暦はリセットされ二〇四五年元日から世界は再起動した。人々は初めこそ無法地帯を謳歌したものの、時が経つにつれ秩序を求め始めた。元の世界でのヒューマンエラー的失策の数々を戒め、政治機能の中枢をAGI(汎用型人工知能)に委ね、その役割を旧来の神になぞらえ「KaMi《カミ》」と呼んだ。
KaMiの治めるNEHaNではGoT(God of things)デバイスが八百万に利用され、日々の行動計画をKaMiに委ね、最適化された暮らしを実現した。社会への民意は各地に建立されたサイバー神社という社への祈りを通して直接回収され、全体最適となるようKaMiに編集され、社会実装された。人類はかつてない平等性をもった完全な民主主義政治を手にした。
AGIは次々に自らを複製、改善し、人々の生活に融け込み、行政が生まれ、会社が生まれ、経済が循環し、余計な記憶は消去され、人々は元の世界からアップデートされた自由な世界に定住した。
比例して元の世界の社会機能は杜撰になっていった。労働人口が減り、流通が止まり、経済も法治国家としての基盤も機能不全を起こし、以前の世界を求めるように電脳世界へのエミュレーションは更に加速した。
それでも一部この世界に残る人たちもいた。有限の身体の愛おしさを最後まで感じたい人々、不自然な電脳世界に抵抗を示し、現象自然の中でひっそりと死を受け入れようとするエミュレーションに希望を持たない人々、エミュレーションに懐疑的で悩み続けている人々。そして僕のように、現世に悔いを残した人々。
・
今、海にいる。薄いグレーの砂浜に、白波が音を立てる、曇天。淡い現実の彼岸で、世界の確かさを告げるように、鳶が鳴く。
葵さんと鉢合うのが怖くて、衣川の見舞いには行けていなかった。僕は彼女に顔向けできない。ダイアンサスとして、妻を奪われた自分がされたことと同じことをしてしまったのだ。悔いても悔いきれず、しばらく何もできずに、ぼうっと過ごすしかなかった。
病院は海のすぐ側だった。今日こそ見舞いに、というかちゃんと謝りに行こうと決心して来ていた。行くべきかやめるべきか何度も逡巡し、強風に帽子が煽られ、飛ばされたところでようやく重い腰が上がった。情けなく立ち上がる背中を追い風が押して、病院へ向かう。
衣川の病室に入ると、葵さんがいないことに一安心してしまった。あの時の状態そのままに赤いカーネーションが繋がれていた。カーネーションはまだ活きいきとしていて、点滴に繋がれた衣川も、痩せ細ってはいたもののバイタルは安定しているように見えた。衣川にかける言葉を考えていた時だった。
窓は閉じているのに、細切れにした潮騒のような音が流れる。
「ザザ、ザザザ」
音の発信源は鉢植えからだった。
「タ……タダ……イマ……」
カーネーションがそう言った。
![](https://assets.st-note.com/img/1728399260-FzI0o2GTZfrkhKU45Wvs7wng.jpg?width=1200)
(RingNe 第二章 完)
10月14日「RingNe」第二章オンライン開催報告会&質疑応答会、開催決定!当日やむなく中止になってしまったイマーシブシアターパートでは何が起こるはずだったのか、最後に渡されたチラシはなんだったのか、その他当日起きた謎やご不明点にすべてお答えする種明かしイベントです。
下記よりチケット購入いただけます。
2025年 9月20、21、22日
「RingNe」最終章 -滅/美-
開催決定。
![](https://assets.st-note.com/img/1727238558-N9WGR1s8oVFd3YC50EkLgiAZ.png?width=1200)
詳細は9月22日より49日後、11月10日にLINEオープンチャットにて公開。
RingNe 第3章の原作小説はこちらから。
いいなと思ったら応援しよう!
![アメミヤユウ/体験作家](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/38438112/profile_af2bb2ca26ce0e27c882f93c97f283f7.jpg?width=600&crop=1:1,smart)