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火祭り -Qanonと楽園-

”だれかあいつが犯人だって言ってくれ”


映画「楽園」を観て昨今のQanonのムーブメントと重なる感覚があった。SNSはもしかしたらもう小さな村社会になってしまったのではないか。そして誰も覚えてないような小さな火種から始まった炎は、誰かを焼かないことには消火できない悲しい坩堝に入ってしまっているのではないか。 

平面的な情報をソースに誰かが吊るし上げられ、焼かれ、その関係者がまた誰かを憎み、吊るされ、焼かれ、何の関係もない人達も日常の積み重なった怒りを松明に、いつでも処刑できるようスタンバイしているんだ。

祀るとき、葬るとき、調理するとき、人は目に見えないものと繋がるときに火を使う。経済格差、政治と法律、環境破壊、それぞれに巨大な敵がいて倒せば良いのなら楽なのだけど、真にはもう見えないくらいに複雑で、暗闇に向けて火を放つから、無為に広がる。

怒りの炎とは言い得て妙で、怒りはまさに炎のように四方八方風向きのままに広がっていく。植生が異なれば燃えにくい大地もあっただろうが、グローバリズムにより均一化されつつある土壌は一瞬にして燃え移っていく。

世界が1つになるというのはそういう怖さを孕んでいる。必然的に起きる疫病や天変地異から起こるストレスの矛先は群れの中で異なりを持つ誰かに向けられ、村八分にされ、その怒りがまた負の連鎖を生んでいく。。

陰謀論は甘い蜜だ。
敵がいることで自分たちは楽になれる。
自己や、虚無といった、真の巨大な敵を忘れることもできる。
どうしても逃げきれない敵に対して対抗できる選択肢はおよそ忘却くらいだから。

だからそれは、とても自然なことなんだと思う。
嘘か誠か、善か悪か、そういうことじゃなくて、ただ起こるべくして起こっている極めて真っ当で自然な現象に対して、膝を突き合わせて向かい合いたい。こういう時代に存在が在ることを深く噛み締めていたい。

楽園は何者かを打倒することで訪れるユートピアか、何者にもならないことで訪れるディストピアか、そのどちらにも立たない中道の先にある無の境地か。良いか悪いか、誰も答えを持っていない彼岸にぼんやりと浮かぶ灯篭のような朧な明かりが、人類の心を捉えて離さない。

この世の火祭りはどこまでも続いていくだろう。愛が憎しみに変わり、怒りが炎になり、炎は囲まれ、祭りとなり、祭りの後には世界の隅で誰かが泣いている。怒りと熱狂、灯して守る、火から学ぶことは海のように深い。

「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。