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フェスティバルはなぜ生まれたのか

こんにちは。あめみやゆう(@amemi_c5)です。

音楽フェスをつくっているなかで、なんだか苦労することばかりでたまにどうしてこんなこと続けているのだろうと、思ってしまう時がある。
それでも今もこうして前向きにつくりつづけているのは、音楽フェスという場や概念がもつ強烈な引力にいつも引き戻されてしまうからだ。

この記事はその引力の根源たるエネルギーの言語化をはかるため、なぜフェスティバルが生まれたのか過去より想像して紐解いてみる試みです。

その引力というのは恐らく「似たような目的を持って集まった人たちで音楽に合わせて踊る楽しさ」や「自分だけでなくみんなが良い気分になれるように高め合う文化があること」や「未来に良いことって良いことだよねってみんなが自然に思えて、そして楽しみながらサステイナブルな動きをしていけていること」や「国境や人種を超えて愛や平和を自然に伝え合っていけること」だったりする。

人類の幸福ってそりゃまぁ人それぞれだけど、それでもこれらのことって限りなく普遍的な幸福なんじゃないかと感じてしまう。要は人類にとって尽きることのない根源的なニーズがこの場にあるのなら、そんな要請には当然応えたいし自分もそこにいたいから引き戻されてしまうのだろう。

ただもう少し起源から考えることで、更に明文化できそうな気がする。

そもそも現在ではフェスティバルと呼ばれるような「ある目的や意図を共有する一時的な仮想社会及びエンターテイメント空間」はいつの時代にどうやって生まれたのだろう。

とはいえ文献を漁るような気分でもないので勝手に想像してみました。ノーソースなのでご了承を!

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「フェスティバル(まつり)」という概念が成立するのは恐らくホモサピエンスから。旧人類でも石を叩いてリズムをつくりみんなで体の動きを合わせてみたり、獲れた獲物をみんなでシェアする夜会なんかはあっただろうけど、似たような意識が集まることで生まれるグルーヴ感がフェスティバルの本質とも言えるので認知革命以前ではまだフェスではないとする。

フェスティバルという概念の始まりは多分1筋の雷だったと想像する。

森に落ちた雷は火を起こし、人類は自然発火を上手に利用し調理や獣から身を守ることに役立てた。火はずっと見ていると熱くて眩しくて視界がぼやぼやしてくる、熱さにより左脳もぼんやりしてくる、そうすると火のあの揺らぎは生き物みたいに見えてくる、その存在を精霊や神として誰かが認識したのが神話や宗教の始まり。

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火は文明の発展に多いに貢献し生活はどんどん豊かになり、神のような概念を当てはめ奉ることは難しくなかったのではないかと思う。そこで人類はより多くの人類を煽動してイニシアチブを握っていくために、神を使った。

神のお告げの名の下に共通意識を持った人類は自らが共同体だと認識し、社会はより緻密に構成され、統治をはかるため政治が生まれた。

幻想の共有は文明発展には必要で、フェスティバルはそれの強化をするために催されていたのだと思う。

火を囲み神を奉り同じ歌を歌うと共同体であるという認識は一層深まり、集団内の争いの予防にもなり(同時に別の信仰をする種族との争いの種にもなり)、何より安心(自由)という快楽を生んだ。

現代において何かを奉るためのフェスティバルという意識は希薄だが、世界中で何千万の人を動員し開催され続けているこの強靭なカルチャーを支えているのは、社会的な動物として重要な快楽である安心感だと思う。

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フェスティバルカルチャーは相手の喜びに寄与すること自体が自分にとっても豊かなことだと感受することから始まる。分け隔てなく誰でもウェルカムであること、お互いのバイブスを高め合うこと、そして心からのハグをすること、その強烈な安心感はまだしばらくの間、人類にとって必要な時間になるはずだ。


そんなフェスティバルカルチャーを都市のど真ん中で思いっきり表現して味わいませんか?ってのがこの企画!

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クラウドファンディング終了まであと1週間!待ってます!


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。